たったひとつの孤独な心臓


 手のひらに握りしめた小銭の感触を確かめながら売店を目指す。校内で唯一、自動販売機が設置されているこの場所は教室からは少し距離があった。だから短い休憩時間で行き来するのはなかなか大変で。
 もっぱら私が売店に向かう時は時間に余裕のある昼休みや放課後がほとんどだった。

「立花っ」

 売店に隣接した自販機の前に立ち、どれを買おうかとにらめっこしていると背後からいきなり声がかかって心臓が跳ねる。いきなり声をかけられたのもあったが、やはり双子だというだけあって二人の声はとてもよく似ているのだ。小さく息を吐いてからゆっくりと振り返る。前髪の隙間から見えた色素の薄い赤毛。静かに胸を撫で下ろしたのを悟られないように薄く笑みを作った。

「偶然だね」
「立花も売店?」
「売店というよりこっち」

 自動販売機を指さすとファブレくんは納得したように頷く。「ファブレくんも売店に用事?」と逆に問いかければ「オレも立花と同じ」と笑みを浮かべて自動販売機を指さした。持参してきたお茶がなくなってしまったのだという。確かに今日は今の季節らしくないじんわりとしたむし暑い一日だった。かくいう私も同じようなもので――持ってきたお茶だけではこれからの時間を過ごすのに足りないかなと思って追加で買いに来たのだ。

「立花は何を買うつもりなんだ?」
「紅茶が飲みたいなって思ってたんだけど……期間限定かストレートかで悩んでる」

 自販機に並んだ紅茶の片方は最近発売されたばかりの新商品。普段なら迷いなくストレートティーを買うところなのだが今日は不思議とそちらにも目を引かれてしまった。困ったな、どっちにしよう。
 ファブレくんも飲み物を買うと言っていたしずっとここにいては邪魔になってしまう。せっかく教室で待ってくれているアニスとティアをあまり待たせるわけにもいかない。

「……期間限定のにしようかな」
「こっち?」
「うん」

 小銭を自販機の投入口に入れようと手を伸ばす。ちゃりん、と心地よい音はどうしてかファブレくんの手から落ちていた。ぽかんとする私を他所にファブレくんは赤く光るボタンを躊躇いなく押す。勢いよく落ちてきたそれを私に差し出してきた。私が買おうとしていた期間限定の紅茶。いまいち状況が読み取れなかった私は思わずファブレくんを見上げ首を傾げる。
 彼は口角を持ち上げて眩しい笑みを見せた。

「この前、教科書貸してくれただろ? そのお礼」

 以前、アニスを頼って数学の教科書を借りに来たファブレくんに私の教科書を貸したのはもう先週の話になる。あの日以来、ファブレくんと関わることはほとんどなかったから私自身も教科書を貸したことすら記憶の彼方に追いやられていた。それに私が数学の教科書を持っていたのは本当に偶然だった。だからわざわざお礼をされる程のことではないのだ。
 私は慌てて顔と手を横に振った。

「い、いいよ。大したことじゃないから」
「でも、オレ甘いのあんまり飲めないからさもらってくれない?」

 小首を傾げるファブレくんは自分の容姿の良さを、自分が与える周囲への影響を理解しているのだろうか。廊下を歩いていた女子生徒たちから小さな黄色い歓声が上がったのを私の耳は聞き逃さなかった。ちらりと周囲に目を向ければ女子生徒の視線がいくつもぶつかる。傍から見ればジュースを奢っている人と奢られている人。しかし、それがあの生徒会副会長のルーク・フォン・ファブレくんともなればこんなにも注目を集めることができるのだ。少し、尊敬してしまう。
 ティアやアニスもよく似たような視線が送られているのを横目に見るが、ファブレくんの人を引き付ける力は彼女たちのそれとは少し違うような気がする。やはりそこは男女の差なのだろうか。
 差し出された紅茶とファブレくんの顔を交互に見つめる。少なからず他人の目があるなかで頑なに断るのは骨が折れそうだ。それに、あまり無駄な敵は作りたくない。数秒間悩んで、私は握りしめたままだった小銭を制服のポケットにしまう。受け取ったペットボトルはひんやりと冷たかった。ファブレくんは満足げに笑う。

「……ありがとう。それじゃあ、遠慮なく」

 その後、もう一度お金を入れて自分用にお茶を買ったファブレくんは「一緒に教室まで戻ろう」と言い出した。向かう方向は同じだったから私も「いいよ」と返す。人気の減った放課後だったのが唯一の救いだ。私はファブレくんと三階の教室へと向かった。
 飲み物を買いに来たこともあって何気なく飲み物の話をしていたらファブレくんは牛乳が好きじゃないらしい。意外と子供っぽいところもあるんだなと思いながら「そうなんだ」と相槌を打つ。そんな他愛もない会話をしながら階段を上っていると、途中で何人かの生徒とすれ違った。他人の目が吸い込まれるようにファブレくんに集まっていく。まるで芸能人みたいだ。すごいなあ、と思わず声が漏れた。何気なく呟いた私の言葉をファブレくんは聞いていたみたいで、くすくすと苦笑にも似た笑い声が耳に届く。

「オレがっていうよりアッシュがすごいだけ。オレにはなんにもないよ」

 決して声のトーンが著しく下がったわけではなかった。だけど、発した言葉がひどく冷たいものに感じて私は静かに横顔を見上げる。いつもと変わらない笑みを浮かべたまま、ファブレくんは隣を歩いていた。
 「そんなことないよ」と返すのは何か違うような気がして私は口を噤む。教科書を貸し借りしただけの人間に分かったような口ぶりで言われるのも気分が悪いだろう。そもそも今の発言が本気だったのか、冗談だったのか──そんな些細なことすら分からない私ではやはり役不足だ。

「あっ、柚希ー!」

 結局なんて返答をしたら分からないまま教室まで来てしまった。ひょっこりと教室から顔を出していたアニスが私を見つけ駆け寄ってくる。走るたびに高い位置で結わえたツインテールが揺れた。

「あれ、ルークと一緒だったの?」
「うん。売店でたまたま会って」
「ふうん……あっ、教室の後ろに席確保しておいたよ。ティアも一緒にいるから」
「これから三人で何かやるのか?」
「テスト対策。赤点取ってアッシュに怒られたくないもん」

 来月の上旬に行われる中間テスト。部活動に積極的なこの学校でもテスト期間が近くなると自然と活動は自粛される。学生の本文は勉強。部活動ばかりに気を取られるなということなのだろう。写真部は違うが、中には独自にボーダーラインを定める部活もあるらしい。生徒会ももちろん例外ではなく、そこそこに厳しいノルマが課されているのだという(ティアが言うには大したことないらしいが……)。
 アッシュくんに直々言われ、危機感を覚えたアニスが勉強を教えてほしいとお願いしてきたのはつい最近のこと。私も右に同じく部活動はなかったからティアも含めて三人で勉強会をするつもりだったのだ。

「ルークも一緒にやる?」
「女子に混ざれと?」
「いいの? 柚希の数学すっごい分かりやすいよ」
「アニス、オレの席も確保しといて!」

 とんとん拍子に事が進んでいったのであっという間に置いていかれてしまった。ようやく理解が追いついたのは勢いよく駆け出したファブレくんが教室に消えていった頃で。おそらく荷物を取りに戻ったのだろうけど、わざわざ飲み物を買いに行ったのは放課後に残る用事があったのではないだろうか。
 ペットボトルを抱えたまま立ち尽くしているとファブレくんと入れ替わるようにアニスが隣に立つ。

「その紅茶、気になってたやつだ。美味しかったら教えてね」
「分かった……ねえ、アニス。ファブレくんって、」

 そう言って、続けようとした言葉が止まる。仮にアニスに尋ねて答えが返ってきたとして、私はそれを聞いてどうするのだろう。きっと答えは見つからない。それなら、わざわざ自分から相手の領域に踏み込む必要はないのではないか。
 不思議そうにこちらを見上げるアニス。続きの言葉を待つ彼女に私は静かに首を横に振った。

「ごめん。やっぱり、なんでもない」
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