感情エラー、修復不可能


 ファブレくんを見つけるという目的を達成して職員室に戻っていったガイ先生。どうやら本当に彼を探すためだけに駆り出されたらしい。お疲れ様でした。心の中で合掌し彼と一緒に生徒会室を目指す。
 扉を開けたファブレくんに続いて足を踏み入れると即座に感じたひやりとした冷たい空気。彼がこんなにも素直に感情を剥き出しにしているのを見るのは初めてではない。生徒の前に立つ時や教室にいる時は滅多に表情を変えたりしないが、自分の身内のことになるとやはり素の部分が表れてしまうのだろう。彼のそんな一面を知ったのは私が写真部の部長として学校行事に関わるようになってからだった。
 扉と向かい合うように一番奥の席に座ったアッシュくんは腕を組み、不機嫌さを隠そうともせずファブレくんを睨みつけている。彼の周りから真っ黒なオーラが漂っているのは気のせいではない。ファブレくんの背中に隠れるように立つ私でも分かる。現に私たちに近いところで座る見慣れない男子生徒(確か今年から新しく変わった広報部の部長だったはず)は今の凍えた雰囲気に気まずそうに視線を泳がせていた。

「……ルーク」
「悪かったよ遅くなって。そんなに怒るなよアッシュ」

 そもそもファブレくんが生徒会室に現れなかったのは私に教科書を返すためでもあった。事情を話せば少しは納得してくれるのではないかと生徒会室に来る前にファブレくんに提案してみたけれど却下されてしまったのだ。忘れ物をしたことに気づかれてしまうからと。
 結局、私は彼の後ろで余計なことを言わないよう口を噤むしかなかった。

「……立花」
「え?」

 不意にアッシュくんに名前を呼ばれて恐る恐るファブレくんの背中から顔を覗かせる。うるさい心臓を少しでも落ち着かせるためにぎゅうっとかばんの紐を握りしめて表情を繕った。アッシュくんは先ほどよりかは落ち着いた表情で私を見つめている。

「ルークが迷惑をかけたな」
「迷惑だなんて全然……たまたま通りかかっただけだよ」

 生徒会室に向かうのに教室の前を通ったのは本当に偶然だった。ガイ先生に呼び止められていなかったら、ファブレくんが校内を逃げ回っていることすら知らなかったはずだ。それこそアニスの隣に座ってガイ先生が彼を見つけているのを待っていただろう。アッシュくんを皮切りに部屋で待っていたアニスやティア、ナタリアちゃんたち女性陣が口を開く。

「むしろガイが見つけるより早いんじゃない?」
「そうかもしれないわね。助かったわ柚希」
「とにかく、ミーティングを始めませんこと? ルークの所為で予定していた時間はとっくに過ぎてますわ」

 ナタリアちゃんの言葉に腕時計に視線を落とすと確かに約束していた時間より遅い時刻を指していた。彼女たちの小言に気にする様子もなくファブレくんは椅子に座る。私もぽっかりと空いたアニスの隣の席に向かうと「今日の資料だよ」とホチキスで留められた紙を渡される。「ありがとう」と受け取って軽く目を通していると不意に彼女と反対側の肩を突かれて顔を上げた。

「ねえ、生徒会長っていつもあんな感じなの……?」

 背中を丸めて小声でひそひそと尋ねてくるのは新しい広報部の部長。ちらっとネクタイの色を確認すると三年生だった。まだ生徒会の内情について詳しく知らないんだろう。明らかに先ほどより安堵の表情が滲み出ていたが、まだ顔色は良いとは言えない。彼の声が聞こえていたらしいアニスと顔を合わせつい笑みが零れてしまった。そういえば、私も最初の頃アニスに同じこと聞いたなあって。知らない間に随分とここの空気に慣れてしまったようだ。

「そうですね……時々、あんな感じになりますね」


***


「ねえねえ柚希! この前の新入生歓迎会の写真ってあるの?」

 最後に次回の日時を確認し、今日の打ち合わせは終了となった。荷物を持ってそそくさと生徒会室を出ていく広報部長を苦笑しつつ見送り、資料に書き込んだメモを再度確認しているとアニスがツインテールを揺らしながら小首を傾げる。長い睫毛に縁取られた瞳がぱちぱちと瞬いた。

「うん、あるよ。何枚か持ってきた」
「ほんと! 見せて見せて!」

 それはまだ桜が満開に花を咲かせていたころ。毎年、新しく入学してきた一年生に向けて行われる歓迎会。慣れない高校生活に少しでも早く馴染んでもらおうと生徒会主催で色々な催し物が開かれる。メインとなるのは部活動の紹介及び勧誘だ。吹奏楽部の演奏や軽音楽部のライブ、演劇部の即興劇、合唱部のコーラス。ここまで部活動に力を入れている学校も珍しいのではないかと言われる位だけあって勧誘も必死なのだ。かくいう写真部も当時は私と同級生の二人しか部員がいなくて地味に廃部の危機に晒されていたのだが、撮影スタッフとして歩き回っていた甲斐もあって無事に存続できるだけの一年生も入ってきてくれた。
 かばんからクリアファイルに入れた写真を取り出し机に並べていく。少ない人数で撮ったものだから全体の枚数は少ない。それでも、たった二人で懸命に悩んで誰に見せても恥ずかしくないものを選んだつもりだ。

「私も見たいですわ」
「私も」

 背後からひょっこりと顔を覗かせたのはナタリアちゃんで彼女の隣にはティアも並ぶ。くっきりとした鼻筋や薄い唇が間近に迫り、女の私でもついどきっとしてしまう。整った顔立ちの三人に囲まれながら私は若干、緊張した面持ちで写真を並べていった。
 体育館で行われた開会式の様子。ウォークラリーでスタンプを押す女子新入生。部活紹介で連携したダンスを踊る在校生。幸せそうに用意されたお菓子を頬張る男子新入生たち。どの写真も笑顔で溢れている。流石ね、とぽつりティアが呟く中、アニスが一枚の写真に指を置いた。

「これ、柚希が撮った写真でしょ?」

 それは持ってきた写真の中で唯一、人が映っていないものだった。ウォークラリーで使用されたはがきサイズのカード。首から下げられるようにと紐がくくりつけられたそのカードの真ん中に桜の花が一輪置かれている。背景には地面に落ちた花びらも映っていて全体的に柔らかい印象を与える一枚。確かにそれは私が撮った写真だった。校庭へと続く体育館の出入り口に座っていた女子生徒にお願いして撮らせてもらったのだ。日差しに照らされてきらきらと輝くピンク色の爪と桜がとても綺麗だと思って。アニスの問いかけに素直に頷けば「当たった!」と嬉しそうに顔を綻ばせた。

「あたし柚希の写真って好き。一番の瞬間を綺麗に切り取ってるっていうか。上手く言えないんだけど」
「アニスの言いたいこと、少し分かる気がするわ」
「ティアも分かる? あ、後あれも好きだよ。柚希が大会で賞撮った写真。玄関に飾ってあるの」

 それは私が高校生になって初めて学生向けのフォトコンテストに応募して賞をもらった作品だった。空と雲と一輪の花。花びらを滑る朝露にちょうど空の景色が映った一枚だった。受賞を知った校長先生が私の写真をすごく気に入ってくれて玄関に飾ってくれたのだ。わざわざ特大サイズに引き伸ばして。

「まあ、あの写真は柚希さんが撮ったものでしたの? 全然知りませんでしたわ」
「名前は伏せてもらってるから……知らない人も多いと思うよ」

 今でこそ大分慣れたけど、飾られたばかり頃は恥ずかしくてそこを通るたびに写真を視界に入れないようにしていた。流石に撮影者の名前まで見ようとする人なんて稀だろうとは思ったが、顧問経由で校長先生にお願いして一応名前は伏せてもらったのだ。まさか生徒が必ず通る玄関口に飾られるなんて思ってもみなかったけれど。だからこそ極限られた人物しか知らないし、同じ生徒会でもクラスも違って滅多に関わることのないナタリアちゃんが知らないのは当然のことだった。

「アッシュは知ってまして?」

 写真から顔を上げたナタリアちゃんは部屋の奥で資料を見ながらファブレくんと話し合いをしていたらしいアッシュくんに問いかけた。アッシュくんが視線を持ち上げると追いかけるようにファブレくんの目もこちらに向けられる。生徒会長と副会長。そっくりだと言われる二人だけどやっぱり少しずつ違う。夕焼けに滲んだ髪の色も互いに纏う雰囲気も。なにより、締め付けられる胸の痛みが二人は違う人間だと証明してくれている。この気持ちは――アッシュくんにしか抱けない。

「ああ、知ってる」
(え……)
「オレも立花の写真は好きだな」

 最初は私の聞き間違いかと思った。だって、アッシュくんが知ってるなんて思ってもみなかったから。だけど、彼の微かに持ち上がった唇が、ほんの少しだけ細められた瞳が嘘ではないと主張している。彼が滅多に嘘を吐かないことを、知っている。きゅっと胸の奥が疼いた。
 「ありがとう」と私は上手く返答出来ていただろうか。じわりと熱くなった目頭を隠すので必死でよく覚えていない。ただただ、アッシュくんの言葉が泣きたくなるくらいに嬉しくて――哀しかった。
prev | top | next
top