たったひとつの孤独な心臓


「なあ、立花。これってどうやって解くの?」

 ひそひそと囁くような小声が耳に届いてノートに落としていた視線を持ち上げる。
 図書室の奥に隠れるように設置された自習室。入り口の近くに設置されている私語厳禁のスペースとは違って、ここでは普通に会話をしても問題はない。だからあえて声を潜める必要はないのだけど、私の斜め向かいに座るファブレくんは気になって仕方がないようだ。いつも周りの注目を集めている人間がちらちらと周囲の目に気にするというのは不思議な光景だった。

「……どの問題?」

 本来はアニスの赤点を回避するためにティアとの三人で始めた勉強会。ひょんなことからファブレくんも参加するようになって以来、彼は放課後に私たちの教室にやってくるようになった。その手に数学の教科書を抱えて。
 今日も本当なら四人でやるはずだったのだが、アニスもティアも用事があると言って帰ってしまった。いくら放課後だからと言ってファブレくんと二人だけで教室に残るのは気が進まなかった。周りの目が気になってとても勉強になるとは思えなかったからだ。だからって「二人だけだと気まずいから今日は中止にしましょう」なんて、言えるはずもなく。それならいっそのこと場所を変えてしまおうと選んだのが図書室の自習室だった。ここなら教室の時と同じように勉強を教えることができるし、なによりもここの存在を知っている人が少ないから集中できる。予想通り、自習室にいたのはほんの二、三人の生徒だけだった。

「その問題だと先にこっちの式を代入して……」

 ファブレくんが差し出してきたプリントを覗き込んで解き方を教えていく。口頭で簡単に説明すれば彼はひとつ小さく頷いてシャープペンシルを走らせ始めた。それを横目で見ながら私も再びノートに視線を落とす。しばらくしてファブレくんにまた名前を呼ばれた。今度はさっきよりも少し声が大きくなっている。

「合ってた! ありがとな」

 勉強会をするようになって、ファブレくんと関わるようになって、少しだけ分かったことがある。意外とファブレくんは気が短い性格のようだ。子供っぽいと言ったほうがいいのかもしれない。集中力も長続きしないタイプでティアによく注意されていた。もしかしたらティアやアニスがいたから、素の性格が強く出ているだけなのかもしれないけれど。今のファブレくんは私が認識しているファブレくんに近い。生徒会副会長で学校でとても有名なルーク・フォン・ファブレくん。
 そのファブレくんが私に向かって「ありがとう」と言っている。今までの学校生活ではありえなかった光景だ。

「――どういたしまして」

 そう言って、ファブレくんに笑いかける自分も十分にありえないのだけど。


***


 図書室の閉館時間で今日の勉強会は終了した。いつもよりも暗く感じる廊下を並んで歩いていると、窓の外に張り付いた雨粒を見つめながらファブレくんがぽつりと呟く。

「雨、止みそうにないな」

 どんよりとした鈍色の空から降り続く雨。今朝からずっとこんな感じで夕方にもなれば少しは落ち着いてくれるかと思っていたのだが見当違いだったようだ。「そうだね」と同じように外を見つめながら応える。明日も雨が降るのだろうか、なんてのんびり考えていると不意にファブレくんが私の名前を呼んだ。

「なに?」
「立花は雨好き?」
「……雨?」

 ちらりとファブレくんを見たけれど彼の瞳は外に向けられたまま。私も視線を戻して降り注ぐ雨を見つめた。

「どちらかというと、好きかな」

 もちろん、嫌いなことも多い。湿気が多くて癖のある髪の毛はまとまりにくくなるし、雨の日のバス通学はいつもより人が多くなって窮屈だ。外を歩いていても濡れないように水たまりを避けて歩かないといけないし、ただでさえ重たいかばんに加えて傘という荷物がひとつ増える。じめじめとした空気も得意ではなかった。
 だけど、雨は嫌いじゃない。濡れたばっかりのコンクリートの匂いが好き。色彩に溢れた傘を眺めるのは楽しい。雨が降る音を聞いていると集中ができる。なにより、晴れの日には見えていなかった新しい世界を作ってくれる。

「いつもと同じ景色が変わるのが好き」

 一階へと続く階段を降りて玄関に向かうと壁に飾られた写真が自然と目に留まる。思い返せば、あの一枚も通り雨が過ぎた一瞬を切り取ったものだった。高校生になって初めて賞を貰ったもの。そして……アッシュくんが好きだと言ってくれたもの。不意に彼の言葉が脳裏に蘇ってきて胸の奥が鈍く痛む。ごまかすように写真から目を反らして、肩にかけたかばんの紐を強く握りしめた。
 ふと隣を見やるとファブレくんは細い指を顎に添えぶつぶつと繰り返し何かを呟いている。「ファブレくん?」と声をかけたけれど聞こえていなかったようだ。私は密かに首を傾げる。
 やがてファブレくんは「そっかあ」と感慨深げに呟いたと思ったらこちらを向いてくすぐったそうに笑った。

「立花みたいに考えられたら雨も好きになれるかもしれないな」


 互いに靴を履き替えるために自分の下駄箱へと向かう。ローファーに履き替えて玄関近くに設置された傘立てから自分の傘を引っ張り出す。玄関をくぐって外に出ると雨音が一層と強くなったような気がした。まだまだ雨が止む気配は感じられない。ふう、と小さく息を吐きながら傘の留め具を外した。ぽんっという軽い音と同時に傘が開く。

「あのさ、立花っ」

 ぱたぱたと傘に叩き付けられる雨粒に混じって聞こえたファブレくんの声。ゆっくりと背後を振り返る。翡翠色の瞳はどこか気まずそうに彷徨っていて内心首を傾げた。図書室に忘れ物でもしてしまったのだろうか。口を開きかけたその時、ファブレくんから思いもよらない発言が飛び出す。

「ラブレターもらったって、本当……?」

 ひくりと頬が引きつったのが自分でも分かった。どうしてこの人が手紙のことを知っているのだろう。動揺したのも一瞬ですぐにその答えは見つかった。脳裏に浮かび上がってくるおしゃべりな私たちの共通の友人。てっきりティアだけにしか話が伝わっていないものだと思っていたのに。零れそうになるため息をなんとか飲み込んで私は頷く。

「……もらったのは本当だけど、多分、間違いだと思うよ」
「間違い?」
「前にも別の人に宛てた手紙が私のところに届いてたことがあってね。今回もそうなんじゃないかなって」

 先日の一件は送った相手も分からなければ送られた相手も分からないのだ。普通なら自分に送られたものだと思えばいいのかもしれないが前回のことがある以上、素直に受け止めきれないのが現実だった。きっと相手は勘違いに気が付いたのだろう。あれ以来、手紙らしい手紙は送られてきていない。封筒はまだかばんの中に残っているけど今まですっかり忘れていた。やっと記憶からなくなったと思ったのにファブレくんの一言でまた頭の中を支配し始める。

「もし、本当に立花に向けたものならどうすんの?」

 例えば、あの手紙が本当に私に送ったものだったとして。私は相手の気持ちには応えられない。だって、その手紙を送ってくれたのは絶対にあの人ではないのだから。過剰に期待して傷つく位なら期待なんてしたくない。
 どこか真面目な表情をするファブレくんに隠れるように傘で自分の顔を隠す。大丈夫、唇を嚙み締めたのを彼には見られていないはず。

「……帰ろう、ファブレくん」

 多くは望まない。ただ遠くから眺めているだけで十分、幸せ。
 だからお願い。これ以上、苦しみたくない。
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