たったひとつの孤独な心臓


 大丈夫。私はただ、両手に抱えた資料を生徒会室に届けに行くだけ。
 たったそれだけのことなのにやけに心臓が煩いのは自分の意志で生徒会室に向かうのが初めてだからだろうか。扉の前で一度、深く深呼吸をする。平常心だ、平常心。コンコンと軽くノックをしてから扉を引いた。まるで職員室に入る時のような緊張感は何度来ても変わらない。
 私が生徒会室に一歩を踏み出すのと、アッシュくんが私の名前を呼ぶのと、どっちが早かったのだろう。緊張で下を向いていた視線を持ち上げれば天井まで届きそうな本棚の前でいかにも分厚いファイルを片手にこちらを見つめるアッシュくんと目が合った。

「立花か。どうした?」

 アッシュくんの声にぴくりと肩が反応する。私は口角を持ち上げて「お邪魔します」と僅かに会釈をした。そして一瞬だけぐるりと周囲を見渡し──後悔の念が押し寄せる。失敗した、完全に来るタイミングを間違えた。居心地の良い場所でつい集まってしまうんだとアニスから聞いていたから誰かしら集まっていると思っていたのに。生徒会室にいたのはアッシュくんだけ。急ぐ資料でもなかったし自分で持っていくと言ったけど、やっぱりアニスに頼んで渡してもらえれば良かった。
 ぱたん。ファイルが閉じた音で慌てて意識を戻す。打ち合わせもないのに生徒会室にやってきた私を不思議に思ったのだろう。アッシュくんの表情はいつもより少し険しい。動揺を悟られないように必死に表情を取り繕う。

「えっと……いきなりごめんね。これ、体育祭関係の書類。ミーティングの前に少しでも写真部の資料あった方が良いかと思って」
「そうか。助かる」

 去年の三年生が作った体育祭の資料が部室に残っていたのでそれを見ながら友人と作ってきた簡単な資料。きっと次回のミーティングの時に渡しても問題ないとは思ったけど、早いに越したことはないだろうと持ってきた。緊張しながら私は資料をアッシュくんに手渡す。そっと前髪の隙間から覗き込めば、さっきまで眉間にあった皺はとれていて私は密かに安堵の息を吐いた。
 資料を受け取ったアッシュくんは慣れた動作でホチキスで止めた紙に目を落としパラパラとめくり始める。参加する写真部の人数や各競技への配置、簡単なタイムスケジュール。まだ仮状態のものが多く、調整が必要にはなるだろうがなにもないよりはマシだろう。

「それじゃあ、私は帰るね。邪魔してごめん」
「立花」

 かばんを抱えなおして生徒会室を出ようと踵を返したその時、アッシュくんに呼び止められる。未だに煩い心臓を押さえてゆっくりと振り返った。さっきまで手元の資料に向いていたはずの翡翠の瞳がこちらを向いている。射貫くような視線がまっすぐに自分を見ていた。

「少し、話をしないか?」


***


 アッシュくんに好きな場所に座るように促され、少し迷って出入口に一番近い席に座る。生徒会室に集まる時はなんとなくそこが自分の定位置になりつつあった。かばんを机の上に置き、手のひらをスカートの上に乗せる。この位置からならいくらスカートを握りしめたとしても椅子に座るアッシュくんには見えない。

「ルークと一緒にテスト勉強をしていたと聞いた」
「……え? あ、うん、最初はアニスとティアの三人でやっていたんだけど、途中からファブレくんも教えることになって」

 ファブレくんがアッシュくんに話したんだろうか。この前終わったばかりの中間テストでファブレくんはそこそこいい点数が取れたらしい。嬉しそうに報告しに来てくれた記憶が蘇る。
 わざわざ私を呼び止めてまで話がっていたのだ。てっきり体育祭絡みの話だと思って身構えていたから予想外の話題に戸惑う。アッシュくんは机の上で肘をつきながら言葉を続けた。

「数学の点数が上がったと喜んでいた。立花のおかげだ、と」
「そんなことないよ。ファブレくんが自分の力で頑張ったからだよ」

 もともとファブレくんの要領は悪くなかったように思う。解き方のヒントを少しだけ伝えればすぐに自分で答えを見つけ出していたのだから。きっと、答えを導くきっかけが足りなかっただけ。現にテスト直前の勉強会で問題を解いていてもファブレくんが私に質問してくることはほとんどなかった。
 私が首を横に振って否定すると不意にアッシュくんの瞳がゆるりと細められる。ひゅっと冷たい空気が喉を通った。「あいつの言った通りだな」と彼が小さな声で呟いた言葉は思考の止まった私の耳には届かない。

「ルークが最近、立花のことをよく話すんだ」
「ファブレくんが……?」
「ああ。あいつは今までオレたち以外とは深く関わろうとしてこなかった」

 アッシュくんの言う"オレたち"とはおそらく生徒会のことを指すのだろう。彼らが全員集結した時の生徒会は言葉には言い表せない異様な空気を放つことがある。互いに対する絶対的信頼。見えない力で導かれるかのように彼らの絆は強く、そして固い。他人が入り込む余裕がないくらいに。それもあって生徒会のメンバーは近寄りがたい、と言われることがとても多かった。私も一年の時にアニスやティアと仲良くなっていなかったら間違いなく同じ印象を抱いていただろう。
 しかし、その中でもファブレくんは特殊な存在だった。とにかく人当たりが良くて学校の人気者。ほんの少しだけ関わった私でも彼の人柄が良いのは十分に分かる。一番近い存在であるアッシュくんがそう言うのだから間違いではないのだろうが、なかなか自分の持つイメージとは繋がりにくい。

「信じられない、って顔だな」
「そんなことは……」
「なら、立花から見てあいつはどう見える?」

 アッシュくんの考えている意図が読めない。彼は私に何を言わせようとしているのだろう。
 私は視線を下に落とす。しばらく言葉を考えている間、アッシュくんは静かにこちらを見つめていた。

「……ファブレくんは、」
「立花」

 急に名前を呼ばれ、俯き加減だった前髪の隙間からそろそろとアッシュくんを見上げる。慣れ親しんだ生徒会室でいつもより気が緩んでいるのかもしれない。彼は頬杖をついて少し困ったように笑っていた。自分に向けられる初めての表情に思わず瞑目する。

「オレもファブレなんだがな」

 息が止まったような気がした。私は慌ててアッシュくんから目をそらす。

「わ、私、ルークくんは周りを引き付ける力が強い人だと思ってた。いつも誰かに囲まれててその真ん中で笑ってて、なんでも出来ちゃう器用な人なんだって思ってた」
「思ってた」
「そう、思ってたけど……最近は少し印象が変わってきてる。意外と気が短い所とか。集中力すぐ切らしちゃったりとか。ティアやアニスと一緒にいると子どもっぽく感じる時もあった。きっと、あれが仲の良い人だけに見せる顔なんじゃないかな」
「──立花は本当にルークのことをよく見ているな」

 ざわり。アッシュくんの言葉を聞いたその瞬間、胸の奥を冷たい風が通り過ぎる。どうしてアッシュくんはこんなにもファブレくんについて尋ねてくるんだろう。視線を下に落とすとスカートに随分と皺がついていて、いかに自分の手のひらに力がこもっていたのかが分かった。

「ルークは立花が気に入ってるんだと思う」
「私は、釣り合わないよ」
「そうか?」

 その後に続く言葉を察してしまう。耳を塞ぎたくなる。
 嫌だ、聞きたくない。

「オレは似合うと思うけどな」

 自分に向けられたその柔らかな微笑みが確かな現実を突きつける。分かっていた、分かりきっていたはずなのに。頭の中で何かが音を立てて崩れていく。
 貴方にだけはその言葉を言われたくなかった。
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