たったひとつの孤独な心臓


 あの後、どうやって生徒会室を出て行ったのかあまり覚えていない。まともにアッシュくんの顔が見れなくて、見たくなくて、とにかく逃げるように生徒会室を離れた。きっと、今の私はひどい顔をしている。教室にはまだアニスやティアも残っているはずだ。こんな状態で二人に会ってしまったら迷惑をかけてしまう。教室には戻れそうになかった。私はかばんをぎゅっと抱きしめ、足を動かす。とにかく何処でもいい、一人きりになりたかった。
 三階から一階。校内の端から端まで。あてもなく彷徨い、どのくらいの時間が経ったのだろう。気づけば私は部室の前に立っていた。ぼんやりとしたまま扉に手を伸ばす。からり、と軽い音が鳴った。今日は部活動もないから案の定、誰もいない。静かに扉を閉めてかばんを机に置いた。窓辺から差し込む夕日が部室内をオレンジ色に染め上げる。まるで世界に一人だけ取り残されたような感覚につい気が緩んでしまって、いよいよ私の涙腺は崩壊した。じわりと視界が歪む。

「……っ、ふ」

 何回も頭の中でさっきの言葉が繰り返される。そのたびに胸が引きちぎられそうなくらいに痛くなった。アッシュくんの柔らかな微笑みが頭から離れてくれない。ひくりと喉が引きつった。
 ただただ、悲しい。自分の想いを伝える気なんて毛頭なかったけれど、あの笑みを見てアッシュくんの中に自分が入り込む余地などないのだと実感させられた。ずっと、気づいていたはずだ。アッシュくんにはナタリアちゃんがいて、私の想いが報われることなどないのだと。痛いほどに現実が胸を貫く。

(これを、失恋というのだろうか)

 分からない。初めての恋だったから。だけど、すごく息苦しい。
 ぼろぼろと涙が目尻に溢れては頬を伝って流れていく。いっそのこと、積り積もったこの想いも一緒に流れ落ちてしまえばいいのに。僅かに残った理性で両手で口元を抑える。廊下まで聞こえてしまわないように必死に声を押し殺した。それでもすすり泣く声は部室に響く。
 辛い、苦しい。どうしたらこの胸の痛みは治まるんだろうか。ぐちゃぐちゃになってしまった思考回路では考えるのも億劫で。私はのろのろとその場にしゃがみ込んだ。

「誰か、助けて……っ」
「立花っ!」

 少し乱暴に扉を開く音。それと同時に呼ばれた自分の名前にビクッと身体が震えた。ひくりと喉を震わせながら私はゆっくりと背後を振り返る。涙で滲んだ視界に映る色素の薄い朱色の髪。どうして彼がここにいるんだろう。私は嗚咽交じりに彼の名前を呟く。

「ファブレ、くん」

 泣いている私を見てファブレくんは驚いているようだった。長い睫毛で縁取られた翡翠色の瞳がこれでもかと見開かれている。

(当たり前、か)

 私だって誰かが部屋で一人泣いていたらびっくりするだろう。「どうしたの?」「なにかあったの?」を声をかけずにはいられない。ファブレくんだってきっと同じだ。そんな正常な判断ができなくなる位には私もいっぱいいっぱいになっていた。
 扉に手をついたまま大きく肩で息をしていたファブレくんは乱れた髪を乱暴にかき分ける。もしかして走ってここまで来たのだろうか。でも、なんで走っていたのだろう。今日は生徒会もないからガイ先生から逃げる必要もないのに。

「なんでファブレくんが、ここに」
「さっき立花とすれ違って声かけたんだけど様子が変だったから、それで──」

 そこまで言ってファブレくんは言葉を切った。苦虫をかみつぶしたかのように唇を引き結ぶ。やがてファブレくんは扉にかけていた手を下して部室に足を踏み入れた。きゅっと床を踏みしめる音が部室内に響き渡る。
 ファブレくんが近づいてることに気づいた私は慌てて目尻に溜まった涙を拭った。

「驚かせてごめんね。大したことじゃないんだ。ちょっと階段で転んじゃって、」
「嘘つくなよ」

 きっぱりとしたファブレくんの言葉に身体が過敏に反応してしまった。こんなの嘘だって言ってるようなものじゃないか。私は何も言い返せなくて口を噤む。しんと部室に沈黙が訪れた。
 靴音が止む。床に視線を落とすと私の足元にファブレくんの靴が見えた。ぐずっと私は鼻を啜る。

「――アッシュとなにがあった」

 それは問いかけではなかった。確信に近いファブレくんの尋ね方に私は目を見開く。どうしてそんなはっきりと言い切れるのだろう。アニスやティアと喧嘩した可能性だって十分にあるのに。私は弾かれたように顔を上げる。ファブレくんはほんの少しだけ眉を下げて「やっぱり」と小さく呟いた。
 聞きたいことはたくさんあったけれど、私を見下ろすファブレくんの瞳の中に自分が映っているのを見たら何もかもがどうでも良くなってしまった。今、彼が私を見てくれているという事実がどうしようもなく嬉しかった。再び滲んでいく視界。震える唇を開けばぽろぽろと勝手に言葉が零れ落ちていく。

「……アッシュくんが」
「うん」
「わたしと、ファブレくんが……似合うんじゃないか……って」

 欲が出てしまった。ただ遠くから見ているだけで幸せだと思っていたのに。生徒会で少しだけ関わるようになって、彼の人柄を知って──手を伸ばしてしまった。私は決してアッシュくんの一番にはなれない、そう分かっていたはずなのに。
 自分でもまとまりのない説明だって分かってる。そして、本来ならファブレくんに話すべき内容ではないことも分かってた。それでも止めることができなかった。

「でも……っ、でも、私は、」

 不意に頭上が陰る。伏せていた瞼を持ち上げるとファブレくんの顔がすぐそばにあった。翡翠の瞳が柔らかく瞬く。彼の優しい眼差しにまた視界が滲んだ。
 それは誰にも話したことがない、私の胸の中でだけ密かに息づいていた気持ち。ずっと心に抱えていた私の想い。

「私が好きなのは、ずっとっ……!」
「知ってる」

 私の言葉を優しく包み込むように降ってきたファブレくんの言葉が最初は信じられなかった。
両頬を覆うように暖かいものが触れる。それがファブレくんの手のひらだと気が付くのにそう時間はかからなかった。ゆっくりと顔を持ち上げられ、視線がかち合う。彼の瞳の中にはぼろぼろに泣き崩れた情けない私の顔が映っていた。目から零れた涙が私の頬を、彼の手を伝って制服の袖口に染み込んでいく。

「立花がずっとアッシュを好きだったの、知ってる」
「どうして、ファブレくんが……」

 一度だってアッシュくんの気持ちを口にしたことはない。あれだけ一緒にいるアニスやティアにだって伝えたことはなかった。誰にも気づかれていないと思っていたのに。どうしてファブレくんが知っているのだろう。呆然とする私を見つめて、彼は涙で濡れる頬を撫でゆるりと微笑む。
 アッシュくんの髪が鮮血の赤ならファブレくんの髪は太陽の赤だと誰かが言っていた。こんな時に何を思い出しているのだろうと思ったけれど、まさにその通りだ。夕日に染められた彼の髪はいつもより柔らかい朱色に染まっていて太陽みたいだと思った。

「オレとアッシュは双子だからな」

 けれど、どうしてだろう。眉を下げて微笑むファブレくんの姿はどこか悲しげに映っていて。分からないまま彼の瞳を見つめていると背中に手が回される。それが「泣いてもいいんだよ」と言われているようで、私は再び視界を滲ませるのだった。
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