さようならは僕の常套句


 パシャリ。被写体にピントを合わせてシャッターを切る。今日は天気も良いし風も穏やかだから植物たちも派手に揺れなくてありがたい。黙々とシャッターボタンを押す。自分と植物たちだけの空間でシャッター音が静かに響いていた。パシャリ。今、いいのが撮れた気がする。ファインダーを覗き込むのを止めてさっきまで撮っていた写真を一枚一枚確認していく。うん、やっぱり綺麗に撮れてた。

「柚希ー。そろそろ休憩にしないかー?」

 一通り写真を確認し終えたところでガイ先生の呼ぶ声が聞こえてしゃがんでいた姿勢から立ち上がる。花壇の奥のテラスに視線を向けると私に向かって手を振っている姿が見えた。ガイ先生の傍にはお手伝いさんのペールさんも控えていて、テーブルには飲み物がふたつ置いてある。多分、ガイ先生と私の分なのだろう。今日は私ひとりだけだからお構いなくと事前に伝えていたけれど、それでもいつもと変わらないおもてなしをしてくれるガイ先生とペールさんに嬉しさと若干の申し訳なさを感じながら急いでカメラの電源を切った。

「今、行きます」

 丁寧に椅子を引いてくれたペールさんに「ありがとうございます」とお礼を言って腰かける。用意されていた透明なグラスの中にはミントの葉がぷかぷかと浮いていた。なんでも中庭で栽培しているミントで作った自家製のミントティーらしい。ひんやりとしたグラスを手に持つ。こくりと飲むと口の中いっぱいにミントのすっきりした味わいが広がった。「おいしいです!」と思わず零れた声はしっかりと二人の耳に届いていたようで互いに顔を見合わせてにっこりと笑う。

「満足する写真は撮れてるか?」
「はい、とても。祖父にもたくさん写真を撮ってきてほしいと頼まれていたので普段より多めに撮らせてもらっています」
「その後、おじい様の容態はいかがですか?」
「もうすっかり良くなりました。どうやら風邪だったみたいで……ご心配をおかけしました」
「とんでもない。元気になって良かったです」

 元々、親交があったのは私の祖父とペールさんだった。写真好きの祖父がガイ先生のこの庭園のような庭をとても気に入って偶然手入れをしていたペールさんに写真を撮らせてほしいとお願いしたのが始まりだとか。その頃はまだガイ先生の父親が家の主でペールさんが相談したところ、快く受け入れてくれたらしい。数か月に一回、花々が咲き誇る時期を狙って写真を撮りに行く。私も中学生の頃からカメラ片手についていくようになって、そこでガイ先生とも知り合った。まさか高校でお世話になるとは思ってもみなかったけれど。今では祖父とペールさんはすっかり仲良しで直接連絡を取り合う仲になっている。
 そんな今日も本来なら祖父と二人で来る予定だったのだが、二日前に体調を崩して寝込んでしまったのだ。今は熱も下がり本人も元気そうだけど大事をとってベッドで安静にしてもらっている。ペールさんは祖父の容態を聞くとほっとしたように胸を撫でおろしていた。

「ペールさんにまた日を改めてお伺いします、と祖父が言っていました」
「いつでもお待ちしております、とおじい様にお伝えください」
「分かりました」

 口角を持ち上げて返事をして再びミントティーを口に含む。庭をすり抜ける心地よい風が頬を撫でた。日差しも気持ちがよくてこのまま眠れてしまいそうだ。
 そのままぼんやりと庭を眺めていると手元のスマホに視線を落としていたガイ先生が不意に顔を上げ「柚希」と私の名前を呼んだ。お休みの日に会う時はガイ先生は私を苗字ではなく名前で呼ぶ。中学生の時の名残だ。

「なんですか?」
「そういえば、体育祭の写真部の準備は順調か?」
「はい。部員のほとんどが撮影側にまわってくれることになったので大きな問題もなく進んでます」
「そうか。少し前まで柚希と井浦の二人しかいなかったからなあ。広報部にいいように使われてたよな」

 私は当時の状況を思い出して苦笑いを浮かべる。頼りにしていた三年生が抜けてしまって二年生もたまたま在籍していなかった写真部の部員はたった二人。それでも学校行事の写真撮影は手伝ってほしいと広報部の部長に頼まれてしまい断り切れなかったのだ。あの頃は広報部から指示を受けていたから生徒会のミーティングにも参加していなかったっけ。とにかく枚数が欲しいと言われてひたすらシャッターを押していた記憶しかない。

「アッシュが生徒会長になってからは写真部は大分公平に扱われるようになったからなあ」
「……」

 グラスを持った指先に力が込められたことにガイ先生は気づいただろうか。彼の名前を聞くと胸の真ん中がぎゅっと握りしめられたかのように痛くなる。あの日以来、アッシュくんとは顔を合わせていない。たまたまミーティングがなかったこともあって放課後もまっすぐ家に帰っていた。少しでも遭遇を避ける為、週に一回の部活も用事があると言ってサボった。意識的に、アッシュくんを避けていた。きっと彼は避けられているなんて思っていないだろうけれど、それでも今の自分がなんでもない顔をしてアッシュくんと話をする自信がなかったのだ。

「週明けのミーティングこそルークを時間通りに連れて行かねえと。また俺がアッシュに怒られちまう」
(まだ、ファブレくんにもお礼を言えていない)

 放課後の部室でぼろぼろと泣く私の涙をずっと黙って拭ってくれたファブレくん。「泣いた顔のまま一人で帰るの辛いだろ?」と言って、家の近くまで一緒についてきてくれた。ファブレくんにもあの日以来、会えていない。お礼を言いたくて何度か休み時間に教室を覗きに行ったけど見つけられなかったのだ。会ってきちんとお礼が言いたいのに。生徒会のミーティングに参加すれば確実に会えるのだろうが、それはアッシュくんとも会ってしまうことも意味している。

(アッシュくんにはまだ会いたくない)
「──柚希」
「え? はい……?」
「たまには気分転換に外に行かないか? 近くに知り合いが運営している植物園があるんだ」
「植物園、ですか?」

 ガイ先生の誘いに不覚にも心が擽られた。さっきまで沈んでいた気持ちがふわっと持ち上がる。どんな写真が撮れるだろう。自然と私は首を縦に振っていた。

「ご迷惑でなければ、行ってみたいです」
「俺が誘ってるんだから迷惑なわけないだろ。今日はちょうどいい案内人もいるんだ。そろそろ来るんじゃないか」
「案内人……?」

 ガイ先生はスマホを見下ろしにやりと不敵な笑みを浮かべる。もしかしてさっきからスマホを弄ってるのはその案内人という人と連絡を取り合ってるからなのだろうか。それに、ちょうどいいとはどういう意味なのだろう。にやにやと笑うガイ先生を見ながらグラスに口をつけていると突然背後にあったテラスの扉が勢いよく開く音がしてびくりと肩が跳ねた。

「おっ、ナイスタイミング!」
「……ったく、ガイ! 今すぐテラスに来いってなんなんだよ」
(あれ?)

 この声って、もしかして……。
 私はグラスを持ったままおそるおそる椅子越しに背後を振り返る。苛立った声色で扉から現れた人物は呑気にミントティーを飲む私を見て固まった。長い睫毛に縁取られた瞳が大きく見開かれる。
 確かにお礼を言いたいとは思っていたけど、まさかこんな形で会うなんて。

「立花……?」

 あんぐりと開いていたファブレくんの唇がゆっくりと私の名前を紡いだ。
prev | top | next
top