さようならは僕の常套句


 どうして行きたいなんて簡単に言ってしまったのだろう。私は後悔の念でいっぱいだった。

「いやあ、ちょうどルークが家に来てて助かった!」

 車のハンドルを握りながらからからと笑うガイ先生。バックミラー越しに映る笑顔に私は曖昧に笑うことしかできない。他人の車(しかも、とても高級そうな)に乗せてもらっているという緊張感ももちろんあったが、それ以上に私の反対側に座る人物の機嫌がいっそう悪くなったのが分かったからだ。頭の後ろで手を組み車の座席に寄り掛かるファブレくんの眉間にはくっきりとした皺が見える。

「朝っぱらから呼び出したのは誰だよ……」

 赤信号に引っかかってゆっくりと停止する車。ちらりと窓の外を伺うと住宅街と比べて随分と景色が閑散としてきた。目的地である植物園は街の外れにできた大きなアウトレットモールに併設されているのだという。ガイ先生はすぐ近くだと言っていたけれどかれこれ十五分くらいは車に揺られているのではないだろうか。それともあまりの車内の気まずさに私の体感時間が狂っているのかもしれない。

「まあまあ、細かいことは気にするな」

 あっけらかんとした態度のガイ先生にいよいよファブレくんが諦めたように大きくため息をつく。どうしたらいいのか分からない私は二人を交互に見て苦笑するばかりだ。彼の大きな瞳が窓の外を向いたのを確認してそっと横顔を盗み見る。機嫌が悪いのは相変わらずで子どものようにむすっと口を尖らせていた。
 ──今のファブレくんはアニスやティアと一緒にいる時の彼に雰囲気が近い気がする。ガイ先生もまたファブレくんが心を許している人の一人なのかもしれない。二人にどんな繋がりがあるのかはさっぱり知らないが。
 考えてみれば学校の外でファブレくんに会うのは初めてだ。カジュアルな格好をしたファブレくんはとても新鮮で、瞳と同じ色をしたパーカーがよく似合っている。

(そういえば、どうしてガイ先生はファブレくんを呼んだのだろう)
「……あ、あのガイ先生」
「おっ、なんだ柚希?」

 ファブレくんに向けていた視線を再びバックミラー越しにガイ先生へ向けた。信号が青になり、低いエンジン音を響かせながら車が発進する。

「えっと、ファブレくんが案内人ってどういう……?」

 スマホ片手にガイ先生が彼を呼び出したのは"ちょうどいい案内人"だったからと言っていた。でも、ファブレくんと植物園。一見すると全く関係がなさそうなだけにガイ先生の人選には首を傾げることしかできない。「ああ、それな」とガイ先生は言葉を続けた。

「今向かってる植物園なんだが、建物自体は完成してるんだが実はまだ一般には公開されていなくてな」
「えっ、それって私が行っても大丈夫ですか?」
「オレの知り合いってことで話は通してるから問題ない。ただ、オレも行ったことがなくてなあ。そこでルークの出番だ。なあ、ルーク?」

 そう言ってガイ先生はファブレくんに声をかける。ファブレくんは視線を外に向けたまま気だるそうに答えた。

「別にオレは植物園に詳しくねえぞ」
「まあまあ、細かいことは気にするなって。植物園のオーナーがルークの父親なんだ」
「だからファブレくんが案内人……?」
「集中して写真を撮るなら周りに人が少ないほうが良いかと思ってな。ルークなら柚希のその辺の事情も分かってるだろうし。それに、柚希だってオレと二人より三人の方が良いだろ?」
「え、いや……その……」

 後になって考えてみれば先生と生徒が二人で街を出歩くことを世間的に考慮した結果だったのだろう──咄嗟に機転の利いた返答が出来ず私はおろおろするばかりだった。見るからに乗り気ではないファブレくんを私の我儘で無理矢理連れ回すのは本当に申し訳ないと思うけれど……かといってガイ先生にファブレくんが可哀想だと抗議する勇気もなくて。
 どちらもフォローできるような言葉が上手く見つからなくて口を開閉させていると、視界の端で急にファブレくんが身を乗り出した。さっきまでの気だるげな目元とはうってかわって鋭いものになっている。

「ガイ。立花を困らせるなよ」
「ははは、悪い悪い」
「ったく……立花、ごめんな」

 こちらを見て眉を下げるファブレくんに私は慌てて首を横に振った。ファブレくんが謝る必要なんてどこにもないのに。
 それからファブレくんはまた視線を外に向けてしまって会話がなくなる。目的地に着くまで私はひたすら膝の上に乗せたカメラを見下ろしていた。


***


 周辺に大型のアウトレットモールが立ち並ぶ中、植物園は少しだけ異質な空気を放っていた。丸いドーム状のガラス張りの天井。正面玄関には色とりどりの花で飾られたアーチ。赤土色のレンガで舗装された道。まるで外国にいるような雰囲気に胸が高鳴る。思わず感嘆の声が漏れた。

「すごい……。大きな植物園ですね」

 入口の手前で降ろしてもらった私はより近くで感じる迫力に圧倒される。これだけ綺麗な外観の中でどんな素敵な花たちが咲き誇っているのだろう。見たこともない植物がたくさんあるに違いない。想像するだけで胸がドキドキする。昨日の内にカメラのデータ容量を整理しておいて良かった。

「それじゃオレは二、三時間くらいしたらまた戻ってくるから、ルークしっかり柚希をエスコートするんだぞ」
「え……?」
「はっ!? どういうことだよガイ!」

 慌てて背後を振り返ると運転席で不敵な笑みを浮かべたガイ先生と目が合った。あ、と思った時にはもう遅い。華麗な運転さばきで車は駐車場を通り抜けて道路に入ってしまう。あっという間に小さくなってしまった車を呆然と見送る私とファブレくん。しばらくして私は恐る恐る隣に立つファブレくんを見上げた。マジかよ、と小さく呟いた彼の表情は心なしか青白い。

「あの……ごめんね、ファブレくん。なんか色々巻き込んじゃって」

 せっかくの休日にいきなり呼び出されてしかも無理矢理道案内まで頼まれて。
 ファブレくんは私の言葉にはっとしたように意識を戻すと。勢いよく翡翠色の瞳をこちらに向けてきた。

「いや、立花はなんにも悪くないだろ」
「でも私が植物園に行きたいなんて言ったから」
「それはガイが誘ってきたからだろ? 立花は行きたいかどうか聞かれたから答えただけ。違うのか?」
「違わない、けど。でも……」

 結局、ファブレくんが私に付き合わされている事実は変わらない。
 ちらりと横に視線を向ける。もともとこの植物園はアウトレットモールに併設された施設。ガイ先生が迎えに来るまでファブレくんはあっちで時間を潰してもらってはどうだろうか。幸いにも店は既にオープンしている。二、三時間なんてぐるりとショップを巡っていたらすぐに過ぎてしまうだろう。ガイ先生は私が来ることを植物園に伝えているらしいから事情を説明すれば中に入れてもらえるはず──よし、そうしよう。
 意を決して提案しようとしたら不意にファブレくんに名前を呼ばれて顔を前に向けたらそこに彼の姿はなかった。さっきまで隣にいたはずなのに。頭に疑問符を浮かべながらきょとんとしていると、もう一度ファブレくんが私を呼んで声が聞こえた方向に目を向けると彼が植物園の正面玄関のアーチを進んでいて思わず呼び止めた。

「ちょっ、ちょっと待ってファブレくんっ。本当に行くの?」
「立花は行かないのか?」
「私は行くけど……ファブレくんは無理に付き合わなくてもいいんだよ? それに……私、写真に集中しちゃうと周りの声が全然聞こえなくなっちゃうらしいから」
「知ってる。オレも好きなように見てるから立花も気にすんな。さ、行こうぜ」

 薄い笑みを浮かべ背中を向けたファブレくんは一人どんどんと長いアーチを進んでしまう。歩くたびに柔らかく揺れる赤い髪。涙で滲んだ世界でもくっきりと目に映った太陽みたいな赤。あの日の記憶が蘇る。
 ――オレは似合うと思うけどな。

(全然、似合わないよ)

 胸に込み上げてきた悲しみを堪える様に小さく唇を噛みしめる。大丈夫、涙はまだ出てきていない。
 そういえば、写真に集中すると周りの声が聞こえなくなるって話。なんでファブレくん知ってるんだろう?
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