さようならは僕の常套句


「中にいるの最低限のスタッフしかいないらしいから好きなだけ写真撮っていいってさ」

 受付のお姉さんから戻ってきたファブレくんはそう言って黒い縁取りのネームホルダーをひとつ差し出した。「ありがとう」と私はお礼を言って受け取ったものを首に下げる。スタッフとの区別を分かりやすくするためなのだろう。蔦のような縁どりのされた紙の真ん中に黒い文字で大きく"ゲスト"と書かれていた。胸元でゆらゆらと揺れるネームホルダー。
 それを見下ろすふりをしながら私はちらりとファブレくんの様子を伺った。ファブレくんも植物園に来るのは初めてみたいで物珍しそうに辺りをきょろきょろと見渡している。その胸元には私と同じネームホルダーが彼の動きに合わせて揺れていた。

(本当に付き合ってくれるつもりなんだ……)

 ガイ先生は私を気遣ってくれたんだと思う。先生との付き合いは決して短くはない。私が中学生の時からお世話になっているから……もう三年近くは経っているだろうか。様子がおかしいと察してくれた可能性はある。それで気晴らしに植物園に誘って、更に話し相手としてファブレくんを呼んでくれたのだろう。どうしてファブレくんを選んだのかは分からなかったけど(個人的に連絡が取りやすかったのではないかとは思っている)なんだか二人とも親しげな様子だったから、昔からの知り合いなのかもしれない。思えば学校でもファブレくんはガイ先生のことを「ガイ」と呼んでいたような気がする。
 ただ、あの日以来ファブレくんと会うのは初めてだった。若干の気まずさもある。いつもどおり明るく振舞ってくれるファブレくんにはとても申し訳ない気持ちでいっぱいだった。おそるおそる彼の名前を呼ぶとファブレくんは不思議そうに大きな瞳を瞬かせる。

「どうした?」
「あの、本当に……いいの?」
「なにが?」

 小首を傾げるファブレくん。私は悩みながらも口を開く。

「その……無理に私に付き合ってくれなくても近くにお店とかたくさんあるし、どこか違う場所で時間潰しててもいいんだよ? ガイ先生も時間になったら戻ってくるって言ってたからどこか合流すれば、」
「立花はオレがいたら邪魔なのか?」

 その聞き方は、ずるい。上目遣いで尋ねてくるファブレくんはまるで捨てられた子犬のようだった。「はい」なんて言えるわけもなく私はぐっと口を噤む。仕方なく黙って首を横に振るとファブレくんは満面の笑みを浮かべた。

「さっきも言ったけど、オレはオレで好きなように見てるから立花も立花で好きなように写真を撮ればいいよ」

 そう言ってファブレくんはカメラを指さす。たくさん撮ろうと思って多めに空けてきた容量はまだ半分近く残っている。それだけ今日は写真に没頭するつもりだった。何も考えずにファインダーを覗き込む一日にしたかったのだ。
 ファブレくんにそこまで言われてしまっては私も何も言えなくなってしまって黙り込む。本当に無理をさせてはいないのだろうか。やっぱり気を使ってくれているだけなのでは……? 悶々と考えてるとポンッと頭に何かが乗せられて顔を上げる。目線を上に持ち上げると小さな冊子みたいなものが私の頭の上に乗っていた。サイズ的に文庫本だろうか。視線を前に戻すとファブレくんが向かい合うようにして立っている。

「最悪、時間潰しも持ってきたから大丈夫だ。ガイが戻ってくるまでにたくさん写真撮るんだろ?」

 せっかくガイ先生が設けてくれた貴重な機会なのだ。お客さんがほとんどいないオープン前の植物園に入れるなんて滅多にないのだから限りある時間を有効に使いたい。

「…………うん」

 渋々こくんと頷いた私を見て満足げにファブレくんは笑う。「行こうぜ」と踵を返して受付の横を通り抜けていった。私も後に続く。
 受付がある場所から植物園までは距離がありそこでも植物が植えられていた。けれど正面玄関のような鮮やかな花のアーチがあるわけではない。どちらかと言えば子どもが駆け回れるような広場に近いだろうか。植物園をぐるりと囲むようにレンガの道も枝分かれになっていて散歩したら気持ちが良さそうだ。休憩できるようにベンチも設置してある。

「アウトレットの休憩場所も兼ねてるんだってさ。シート敷いてご飯食べてもいいんだと」
「そうなんだ、いいね。楽しそう」

 暑すぎず寒すぎず、ちょうど今の時期なら外でピクニックをしても過ごしやすいだろう。オープン前だから人気はないけれどきっと営業が始まればたくさんの人が訪れる。それは植物園内も同じ。周りの目を気にしなくても写真が撮れるという点において、やはり今回は貴重な機会だ。確かめるようにカメラを撫でつける。
 赤土色のレンガを真っすぐ進むと植物園の入口に辿り着いた。天井はガラスだが外壁は曇りガラスになっているようで外からは園内の様子が見えにくい。けれど、曇りガラス越しにうっすらと緑色が生い茂っているのは分かった。ファブレくんが準備中と書かれた扉に手をかける。扉の向こうにはどんな世界が待っているのだろう。想像するだけで胸が高鳴った。

「わあ……!」

 微かに聞こえるのは水の流れる音だろうか。右を見ても左を見ても植物。天井に届きそうなものもあれば私の腰あたりの高さしかないものもある。人が歩くことを許されたのは大人が二人並んで歩ければ良い位の石畳の道で残りは全て植物が支配していた。なんだか違う空間に迷い込んでしまったみたいでどきどきする。澄み切った空気と静寂に包まれた雰囲気がそう連想させるのだろうか。
 とにかく、私たちの前には緑で覆いつくされた見たことのない世界が広がっていた。

「これ建てたファブレくんのお父さんってすごいね」
「親父、趣味で作らせたにしては気合入れすぎだろ……」
「え、趣味?」

 ファブレくんから不穏な発言が聞こえたような気がして見上げていた視線を横に移す。呆然と立ち尽くしていた彼は弾かれたように私を見ると乾いた笑いを浮かべた。そして突然、周りをきょろきょろと見渡すと入口近くに設置されていたパンフレットをひとつ取って勢いよく広げる。強く紙の引っ張られる音に思わず身体が強張った。
 何かまずいことでも聞いてしまったかな。内心はらはらとしているとファブレくんがパンフレットを見つめたまま私に話しかけてくる。

「植物園の真ん中に飲食スペースがあるんだってさ。少し開けた場所みたいだからとりあえずそこまで行ってみようぜ! オレが案内するから」
「う、うん。ありがとうファブレくん」

 ついこちらも戸惑った受け答えをしてしまったがファブレくんは気づいていないようだった。心なしか普段よりも声を張り気味な彼はパンフレットと睨めっこしながら石畳の道を進んでいく。並んで歩くには少し狭い道だったから私は数歩後ろから追った。とりあえず怒ったりしているわけではなさそうで密かに安堵の息を吐く。気まずい雰囲気の中で相手を気にせず写真なんか撮れるわけがないから。歩くたびにひょこひょこと揺れる柔らかそうな赤毛を見つめながら前を進む。
 ……本当のことを言えば、辺りに脇道はなく誰がどう見てもこの道を進めば目的地に辿り着けるのは分かっていたけど、動揺するファブレくんがつい珍しくて余計なことは言わずに大人しくついていくことにした。
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