君が美しく笑ったせいだ


 悩みに悩んで、結局、私は小さなアクションを起こすことにした。
 ホームルームが終わり教室に活気が宿る。いつもの私ならアニスやティアと軽い挨拶を交わしているところだが、今日に関しては二人に見向きもせずかばんを持って一目散に教室を出た。二人に捕まってしまえば大幅なタイムロスになってしまう。

(ごめん、二人とも)

 きゅっとかばんの紐を握りしめる。心の中で謝りつつも私はひたすらに目的地へと足を動かした。
 手紙に書かれた屋上階段は私たちの教室がある三階から一年生の教室の並ぶ四階に移動する必要がある。去年まで過ごしていた場所に向かって階段を使って上の階へ。まだホームルームが終わったばかりだからか廊下にはまだ生徒は少ない。ちらほらと見える真新しい制服を着た生徒たちを横目に廊下をまっすぐ進む。指定された屋上階段とは校舎の外れにあり、屋上は出入りも禁止されていることから人通りも多くない。まさに呼び出しをするにはぴったりの場所なのだ。だからこそ相手はそこを指定したのだろうけれど、私としてはあまり有難くなかった。私の学校は学年ごとに制服のネクタイの色と上靴のラインの色が指定されている。三年生は赤、二年生は青、一年生は緑。つまり、緑のネクタイが大半を占める一年生の廊下で青のネクタイの生徒が歩いていたら意外と目立つのだ。不思議そうにこちらを見てくる一年生の視線を俯くことでかいくぐり私はなんとか屋上階段の手前までたどり着いた。
 ここまでくれば一年生の姿もほとんど見当たらない。私は足を止めてゆっくりと深呼吸をする。どうかまだ来ていませんように。おそるおそる階段を上って屋上へと続いている踊り場を覗き込んだ。

(良かった。誰もいない)

 まだ相手は来ていないみたいだ。ひっそりと安堵の息を吐く。確認の為に踊り場まで登ってみたが、そこあったのは屋上に続く鍵のかかった扉と壁に沿って置かれた椅子だけ。隠れる場所はなさそうだし人の気配もしない。それなら後はろくに授業も聞かず悩みに悩んだ計画を遂行し、相手がやってくる前までにここを去るだけだ。
 私は今朝からずっとかばんの前ポケットにしまっていた手紙を取り出す。中身も入っているのをしっかりと確認して静かにそれを片方の椅子にそっと置いた。そして、かばんからペンケースを取り出し中から付箋を引っ張り出す。端に小鳥のイラストが描かれたお気に入りの付箋。そういえば封筒にも小鳥のイラストが描いてあった。もしかして相手はティアが可愛いものが好きだと知っているのだろうか。頭の片隅で考えながら淡い緑色の付箋を一枚剥がす。"渡す相手を間違えていませんか?"と授業の合間にあらかじめ書いておいたものだ。
 相手より先に目的地に向かって手紙を置いて立ち去る。これが私の考えた作戦だった。私だって人の恋路を覗く趣味は持ち合わせていない。剥がした付箋を封筒の上に貼った。よし、後は誰にも気づかれずにこの場を立ち去れば、

「やっぱ屋上は行けなさそうだな」
「当たり前だろ。お前ホント話聞かねえよな。屋上は出入り禁止なんだって」
「っ……!?」

 立ち上がろうとしたその瞬間、耳に届いた男子生徒たちの声で身体がビクッと飛び跳ねた。咄嗟にかばんを抱えて踊り場の隅に身を隠す。声はどれくらい近かっただろうか。全然聞き取れなかった。ここには隠れられるような場所はどこにもない。彼が踊り場まで登ってきてしまえば自分も、手紙の存在もばれてしまう。喉から飛び出そうになる声を両手で必死に塞いだ。どくんどくんと心臓の音がうるさい。
 屋上の出入りが禁止されているのは在校生では周知の事実。ましてや教室から離れたこの場所に用事がある生徒などほとんどいない。大方、一年生が興味本位で覗きにきたというところだろうか。なんてタイミングの悪い。耳をすませばきゅっきゅっと大きくなっていく靴音。つられるように私の鼓動もどんどん早く大きくなっていく。お願いだからそれ以上こっちに来ないで。かばんを抱えてぎゅっと私は強く目を瞑った。

「けどよ、もしかしたら鍵とか開いてるかもしんねーじゃん」
「んな訳ないだろ。現実は甘くないの。ほら、教室戻んぞ」
「ちぇー」

 その会話を最後に男子生徒の声は聞こえなくなる。次第に小さくなっていく靴音。低い姿勢のままそろりと踊り場から階段を見下ろし、誰もいないのを確認してから大きく息を吐いた。未だに心臓がばくばくしている。彼らが途中で諦めてくれて本当に良かった。ちらりと椅子にのせたままの手紙に視線を向ける。不本意とは言え、人の恋愛事情を勝手に広めてしまうのだけはなんとしても避けたい。せっかくの作戦がそれこそ水の泡になってしまう。
 もう一度、階段に誰もいないのを確認して私は早々にその場を立ち去った。もしかしたらさっきのような物好きな生徒がまたやってくるかもしれないという不安はあったが、今回は例外中の例外と考えていいだろう。人気がないところを選んだと考えるならあの場所に用事のある生徒は手紙の主のような人しかいないのだから。後は、相手が付箋を読んで届け先を間違えていたことに気が付いてくれれば作戦は成功だ。
 足早に四階の廊下を歩きながらちらりと腕時計に目をやる。ホームルームが終わってから五分も経っていない。万年文化部の私にしては機敏な行動が出来たのではないだろうか。ひっそりと自分で自分を褒めながら三階に戻るため階段を下りる。ここまでくればひとまず安心だ。

(アニスとティアはまだ教室にいるかな……)

二人を探しに教室に向かおうと足を動かそうとした時だった。

「立花」

 不意に背後から降りかかってきた鼓膜に触れる低い声。急に名前を呼ばれたからびくりと肩が跳ねてしまった。部長になってから関わる機会が圧倒的に増えたけれど、やっぱりまだ名前を呼ばれることに慣れない。ゆっくりと後ろを振り返ると目の眩むような赤い髪が視界に飛び込んでくる。目の眩むようなその赤は誰かが血みたいだと言っていた。不気味な程に鮮やかな赤色だと。
 彼は驚く私を見て宝石のように輝く翡翠色の瞳を僅かに見開いた。

「……アッシュ、くん」
「悪い、驚かせた」
「大丈夫。ちょっと、びっくりしちゃって」

 ぴくりと眉間に皺が寄ったのは苛立ちからではなく心配からの表情の変化だと知っている。ふるふると首を横に振ると「そうか」と短い返事が返ってきた。伏せられた睫毛が瞳に影を作る。その何気ない仕草にすら心が震えて小さく息を呑み込んだ。動揺を悟られないように薄い笑みを浮かべながらアッシュくんに「どうしたの?」と尋ねる。上手く笑えているといいんだけど。

「何か用事があったんだよね?」
「ああ。七月の体育祭の話なんだが、他の部も集めて何回かミーティングがしたいんだ。都合のいい日を教えてほしい」
「いいよ」

 廊下の真ん中で話すのは邪魔になるだろうと二人で窓際に移動する。若干、周りの目が気になるところではあるけれどこればっかりは仕方がない。彼は有名人だから。ちくちくと刺さる視線をかばんの紐を握りしめることで堪えているとアッシュくんは制服の胸ポケットから小さな手帳を取り出した。一瞬、どきっと胸が跳ねる。朝からずっと私の頭の中を占領していたあの手紙。少し丸みを帯びた文字が脳裏を過ぎった。

(期待しちゃダメ)

 アッシュくんがぱらりと手帳を開いて私に差し出してくる。マンスリー型のカレンダーには黒い文字で何か所かにアッシュくんの文字が刻まれていた。私はあまり書かれた文字を追いかけないようにしながら、手帳を覗き込んで自分の都合のいい日を指さす。中には部活がある日も含まれていたけれどミーティングだけ参加していれば問題ないだろう。大会も控えていないし、まだ忙しい時期でもない。今の時点で可能な日を伝えるとアッシュくんは「分かった」と短い返事をして手帳を閉じた。

「日にちが決まったらまた連絡する。アニスかティア経由で問題ないか?」
「うん、大丈夫。さっきの手帳は生徒会用?」
「ああ。その方が俺も分かりやすいからな」
「そうなんだ……すごいなあ」

 アッシュくんの手帳をじっくりと眺めたわけではない。それでもカレンダーのあちこちに書かれた文字が全て生徒会に関わることなら、彼の役職はかなり忙しいのではないのだろうか。アニスも学校行事が近くなると「めんどくさい、帰りたい」とよく愚痴を零すようになる。普段の仕事の他にイベントが重なるとなるとやらなければならないことが格段に増えるのだろう。
 口から零れた言葉は、ただ、純粋な感想だった。

「そうでもないだろ」

それは本当に微かな変化。口元がほんの少しだけ緩んだだけのものだったけれど、私の心臓を締め付けるには十分すぎた。きゅうっと心臓が締め付けられるような感覚。私は苦い笑みを浮かべ「そんなことないよ」と返すので精いっぱいだった。
 屋上に置いてきた手紙。正直、送り主が羨ましかった。相手に想いを伝える勇気を私は持っていないから。話をしていること自体が奇跡に近い今の関係を壊せるほど、私は強くない。きっと、この胸に秘めた想いを彼に伝えることはないだろう。

 ──この恋は決して叶わないものだから。
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