君が美しく笑ったせいだ


 カメラのシャッターを押すタイミングは人によって違う。一瞬を逃さないようにと何回も押し続ける人もいれば、一瞬の為に精神を極限にまですり減らす人もいる。私は、どちらの人間なのだろう。
 もしかしたら、その大切な一瞬すら私は見逃してしまっているのかもしれない。


 夏用の制服ではそろそろ肌寒くなってきた秋の始まり。毎年、体育館では全校生徒を集めて新しい生徒会の就任挨拶が行われる。生徒の自主性を重んじるこの学校の中でも生徒会の役割は特に大きい。それ故なのか、必然と生徒会に選ばれる生徒は有名かつ優秀な顔ぶれがずらりと並ぶ。しかも今年はメンバーのほとんどが私と同じ一年生で構成されているらしく、非常に珍しいことなのだと当時の部長が教えてくれた。
 クラスの列から離れ、体育館の左端で一人カメラを構える私。壇上に上がっている順番からするとそろそろアニスが呼ばれる頃だろう。「どうせ広報誌に載るなら柚希の撮った写真がいい!」と就任挨拶の数日前に言われた記憶が蘇る。どの写真を使うかは広報部が決めることだからと言ってはあるけれど──あのアニスのことだ。色々な情報と権力を使って私の撮った写真を広報誌に載せる可能性は十分にあった。実際に広報誌に載るかどうかは別としても自分の納得できる写真を撮らないと。カメラを持つ手に自然と力がこもる。

「次は新しい会計を紹介します。一年、アニス・タトリン」
「はいっ……!」

 決して多いとは言えない友人の一人。前生徒会長に名前を呼ばれたアニスは短く返事をすると壇上の前に設置されたマイクの前に立つ。スカートのポケットから小さな紙を取り出すとそれを見ながら就任の挨拶を始めた。人前に立つことを臆さない方だと思っていたけれど、今日は流石に緊張しているのか表情が硬い。それでもたまに現れる柔らかい表情を見つけては瞬時にシャッターを押す。パシャリ。マイク越しに伝わるアニスの声にシャッター音が混じって消えていった。
 例えば、文化祭や体育祭。学校の行事が行われる時、大抵私の所属する写真部はスタッフとして駆り出される。主に広報誌に載せる写真の為だ。本当は広報誌を作成する広報部にも写真を撮る生徒はいるはずなのだが、なんだかんだと写真部が撮った写真が使われることが多いらしい。そのことで広報部と写真部の中でちょっとしたいがみ合いのようなものがあるらしいのだが……私も詳しい話は良く知らない。ただ部長があまり広報部に良い印象を抱いていないのをなんとなく知っているというだけだ。
 とにかく「可能なことはなんでも自分たちで」が教訓のこの学校で行事スタッフに生徒が関わることは少なくなかった。

(私だったら絶対足震えてるだろうな)

 昔から人前に立つことには慣れていない。アニスでもあんなに緊張してしまうのだから、私が同じ場所に立ったら頭が真っ白になってしまいそうだ。台詞を書いた紙から顔を上げることなどできずにきっと最初から最後まで視線を落としたままになるだろう。時々は下に視線が落ちることもあるけれど、それでも全く上げられないよりずっといい。私はチャンスを逃してしまわないよう黙々とシャッターを押していった。
 アニスの挨拶が終わると次は新しい書記が呼ばれる。凛とした立ち姿のティアは本当に綺麗で他の場所で撮っていた部員からもたくさんのシャッター音が聞こえてきていた。まるで芸能人の記者会見のようだ。流石は"学園の女神"と呼ばれる人は違う。多分、ティアの写真は私が撮ったのは使われない可能性が高いだろうな。アニスよりもシャッターを押す回数を少し減らしながら写真を撮っていく。
 それからもう一人の書記、副会長と呼ばれ、最後に新生徒会長の名前が呼ばれる。アッシュ・フォン・ファブレくん。前生徒会長が彼の名前を呼ぶと生徒たちが少しざわめいたのが分かった。そんなに有名な人なのだろうか。新しい生徒会長が隣のクラスなのは知っていたけれど、実際に見たことはないから良く知らない。ただ、広報部との事前の打ち合わせで「新しい生徒会長の写真を一番多く使いたい」との要望を聞いていたのでたくさん撮らなければとは思っていた。写真部の写真が広報誌に載れば、それは少なからず部の宣伝に繋がる。今の写真部に二年生は在籍しておらず今回で三年生が引退してしまうので、必然的に残るのは私と同じ学年の一人だけ。来年の部員確保の為にも一枚でも多く部の写真が採用される必要があった。
 ちらっとカメラの容量がまだ残っているのを確認して、私は壇上を見上げる。ファインダー越しに新生徒会長を見て息を呑んだ。

(う、わ……)

 目を引くのは燃え上がる炎のような真紅の髪。反対に肌はきめの細かく、高い鼻筋に薄い唇が添えられている。長い睫毛に縁どられた翡翠の瞳は今にも吸い寄せられてしまいそうだった。彼が新生徒会長のアッシュ・フォン・ファブレくん。こんなにも顔立ちの整った人がいたなんて知らなかった。入学してから今までどうして気付かなかったんだろう。
 無駄にどきどきと跳ねる心臓に思考を乗っ取られそうになりながらも私はシャッターボタンに指を添える。無意識に写真を撮ろうとしたのだろう。だけど、できなかった。シャッターを押すタイミングが分からなくなってしまったのだ。ファインダー越しに見えるアッシュくんがあまりにも格好よくて、ずっと見ていたくて、とうとう彼をカメラに収めることが出来なかった。
 高校一年生の秋、生まれて初めての一目惚れだった。
 

***


「どうして……」

 次の日の朝、下駄箱を開けて愕然とした。昨日、肝を冷やしながら屋上階段に置いてきたはずのそれが当たり前のように鎮座しているのだ。
 どくりと心臓が大きく脈を打つ。なんで? どうして? ぐるぐると思考が駆け巡る。少し早めに登校してきて良かったと心から思った。今の時間ならまだ登校している生徒も少ないはず。きょろきょろと周囲に人がいないことを確認し下駄箱から取り出した。昨日と全く変わらない無地の封筒に端に描かれた小枝をくわえた淡い黄色の小鳥。間違いなく付箋を貼って屋上階段に置いてきた手紙だ。もしかして相手はその存在に気が付かなかったのだろうか。もっと分かりやすいようにしておけば良かったと後悔しながら手紙をひっくり返す。ちょうど小鳥のプリントの近くに淡い緑色の付箋が貼ってあるはずだった。

(え?)

 ところがそこにあったのは淡い黄色。裏面の小鳥と同じ色だった。そして付箋には小さな文字が書いてある。昨日読んだ文章と同じ、少しだけ丸みを帯びた丁寧な文字。慌てて書いたのかほんの少しだけ右上がりに綴られていた。
 ――間違いではありません。
 付箋を見る限り手紙の送り主はちゃんと私のメッセージを読んでくれたことになる。だけどこの言葉の意味はどういうことだろう。もしかして、彼はまだ勘違いをしているのではないだろうか。手紙を送る相手を間違えていることに。
 なにか、なにか、手掛かりになるものはないだろうか。これが誰に宛てたものか分かるような。封筒には相変わらず宛名は書かれていない。それならばと糊が張られていない封を開く。

(ない)

 封を開けても中身は空っぽ。紙切れひとつ入っていない。慌てて入れ忘れてしまったのだろうか。ぺらぺらの封筒だけを渡したって何にも意味がないだろうに。さかさまにひっくり返してみてもやはり肝心のメッセージカードは姿を現さず途方に暮れる。手掛かりどころか最早、手紙の存在価値すら分からなくなってしまった。これを私にどうしろというのだろう。手元に残ったのは封筒と付箋の二つだけ。しかも片方は送り主を辿る軌跡すら残されていない。付箋の筆跡を辿るという方法も残されてはいないが、この学校全員を調べるなんて不可能に近かった。こうなると完全にお手上げ状態だ。私にはどうすることもできない。

(せめて誰に宛てたものだったか分かれば良かったのに)

 一番、可能性があるとしたらやっぱりティアだろうか。他にも候補はいくつか浮かび上がったが、確信には結びつかない。あまりにも情報が少なすぎる。私は手紙を見下ろし途方に暮れた。
 生ぬるい風が頬を撫でる。今日は午後から雨が降るらしい。傘を持ったお天気お姉さんが明るい声でテレビで伝えていたのを思い出した。
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