感情エラー、修復不可能


「アニスいる?」

 穏やかな日差しが降り注ぐ昼休み。お弁当も食べ終わりぼんやりと窓の外を眺めていた私は友達の名前を呼ぶ声で視線を持ち上げる。それは男子生徒の声だった。入り口からひょっこりと顔を覗かせた彼は私と向かい合うように座っているアニスを見つけるとこちらに向かって歩いてくる。彼が教室に入ってくると教室にいる女子たちから小さな黄色い歓声が上がった。彼が私の教室に現れるのは非常に珍しい。
 鮮やかな朱色の髪を揺らしながら向かってくる彼を横目に私は未だに自分が呼ばれていることに気付いていないアニスの肩をそっとつつく。私の向かい側で机に突っ伏しながらスマホを弄っていたアニスは視線を持ち上げると軽く首を傾げた。

「どうしたの、柚希?」
「ファブレくん、来てるよ」
「ルークが?」

 私たちが使っていた机のちょうど隣に立ったファブレくんは人懐っこい笑みを浮かべ軽く片手を持ち上げる。わざわざアニスを尋ねに来る理由と言えば生徒会絡みだろうか。ちらっとアニスを盗み見たけれど、気だるそうにファブレくんを見上げているあたり、もともと会う約束をしていたわけではなさそうだった。この間にもアニスはスマホから手を離さない。
 今度はファブレくんをそっと見上げる。生徒副会長のルーク・フォン・ファブレくん。生徒会長のアッシュくんの双子の弟。私が写真部の部長になったことで関わるようになった人の一人だけど、私はまだあまり話をしたことがなかった。アニスやティアからたまに会話の中で名前が上がる程度でまだまだ雲の上のような存在だ。私は二人の会話の邪魔をしないように唇を引き結ぶ。

「アニス聞きたいことがあんだけど」
「なに?」
「頼む! 数学の教科書持ってたら貸して!」

 なるほど、教科書を借りにきたのか。
お祈りをするようにパンっと両手を合わせたファブレくん。彼の動きに合わせて髪の毛が日差しに反射して柔らかく光る。

「残念でした。今日は数学の授業がないから持ってきてないでーす」

 おそらくアニスが頼みの綱だったのだろう。明らかにショックを受けた顔でファブレくんはその場にしゃがみこんでしまった。「マジかよ……」と小さく呟いたのが私の耳にも届く。確かにアニスの言ったとおり、今日は私たちのクラスで数学の授業はなかった。

「そもそも一組と三組じゃ授業の組み方が全然違うじゃん。二組に聞いた方が良いと思うけど?」

 ようやくスマホから手を放したアニスは落ち込むファブレくんをにやにやとした表情で見下ろす。私たちのクラスは言うなれば文系で隣の二組と三組は理系のクラスだ。文系と理系では学ぶ学問も異なってくるから必然的に授業の組み合わせも変わってくる。三組のファブレくんがあえて一組のアニスのところまで足を運んでくるのはちょっと不思議な話だ。

(二組ならアッシュくんやナタリアちゃんだっているだろうに)

 いや、無理に生徒会で絞る必要もない。きっとファブレくんが今ここで「誰か数学の教科書貸してほしい!」と大きな声で言ったら喜んで差し出してくれる生徒はたくさんいるだろう。それなのに彼はアニスから借りれないと分かってすごくショックを受けている。他にあてがないのだろうか。
 のろのろと顔を上げたファブレくんは気まずそうに頬を掻いた。

「だって……アッシュやナタリアに貸してって言ったらぜってー文句言われるだろ。もっと副会長として自覚を持て、とか」
「ああ、確かにねー。あの二人は絶対言うわ」

 ファブレくんには申し訳ないけれど、その想像は間違ってなさそうだなあ。口を尖らせるファブレくんに気づかれないようにひっそりと笑う。確かにあの二人は完璧を絵にかいたような性格だ。二人に叱られてしょんぼりとしてしまうファブレくんの姿が目に浮かんでしまった。彼もそれが嫌だったからわざわざアニスの元まで足を運んだのだろう。
 ただ、残念なことに今日の一組に数学の授業はなかった。ファブレくんはいよいよ頭を抱える。

「またガイに怒られるー」
「忘れたルークが悪い。お疲れさまでしたぁ」
「……確かに忘れたオレが一番悪いんだけど、なんかむかつく」

 じとりとした目でファブレくんはアニスを見上げるけれど、当人は気にする様子もなく再びスマホを弄りだす。とうとうファブレくんは机に突っ伏してしまった。耳を澄ますとぶつぶつと何か呟いている。必死に教科書を借りる方法を考えているんだろうか。

(あれ? そういえば……)

 ファブレくんの綺麗な旋毛を見下ろしながら、ふと思い出す。机の横にひっかけてあるかばんを開いて厚さの違う背表紙を指先でなぞる。私の思い違いでなければ……あ、あった。昨晩、今日の授業に合わせて教科書を入れ替えたつもりだったが、どうやら抜き忘れていたらしい。

「あの、ファブレくん」

 名前を呼ぶと宝石みたいに透き通った翡翠色の瞳がこちらを向く。そして私の手に持ったものに気が付くとどんよりとしていた表情が一気に華やいだ。

「もし私ので良かったらなんだけど……」
「いいのか⁉」
「良かったじゃん、ルーク。柚希が持ってて」
「大丈夫だよ。ちょっと待ってて、付箋外すから」

 何か所か教科書の端から飛び出した小鳥の描かれた付箋。男子が使うには絵柄が可愛らしいから少し抵抗があるだろう。復習の目印にと貼っていたものだったけれど、ノートと照らし合わせればすぐに分かることだ。そう思って付箋を剥がそうと開きかけた教科書にすらりと細い指が伸びる。視線を持ち上げると満面の笑みを浮かべるファブレくん。きゃあと黄色い視線が教室のあちこちから小さく湧き上がっていることに彼は気が付いているのだろうか。まるでアイドルみたいだ。
 そのまま引き取ろうとするファブレくんに私は慌てて「そのままでいいの?」と尋ねる。ファブレくんは人当たりの良い笑みで頷くだけだった。

「大丈夫! マジで貸してくれるだけで十分だから」
「ファブレくんが気にしないならいいんだけど……本当にいいの?」
「さんきゅ、柚希!」

 付箋が飛び出した数学の教科書を抱えるファブレくん。その姿がどうしても不釣り合いな気がして私は眉を顰める。やっぱり一度返してもらおうと手を伸ばしかけた時、校内に昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。なんてタイミングの悪い。チャイムの音を聞いたファブレくんは「今日中には返すから!」と足早に教室を出て行ってしまった。あっという間に赤毛は見えなくなってしまう。
 私は行き場のなくなった手を静かにおろした。

「……行っちゃった」
「いいんじゃない? ルークも気にしてないみたいだし」
「だったらいいんだけど……」

 スマホを制服のポケットにしまってアニスは私を覗き込む。私が付箋を外そうとしていたことに気が付いたんだろう。「大丈夫だよ。柚希は気にしなくて」とひらりと手を振りながら自分の席に戻った。アニスがそういうなら、大丈夫だということにしておこう。
 次の授業は古典だったはず。アニスを見送り開けっ放しだったかばんを膝の上にのせて授業に必要なものを取り出す。教科書、ノート、参考書。がさごそとかばんの中を探っていると内ポケットの中に白い封筒を見つけた。ぴたりと、手が止まる。数日前に突然と自分の前に現れた一通の手紙。誰に宛てたものなのか分からなければ、誰が送ったのかも分からない。そして、誰に送ろうとしていたものなのかも分からない宙ぶらりんのそれ。

(あれからなんにもないな)

 あの日、「間違いではありません」と書かれた付箋と一緒に返ってきた封筒。どうしていいのか分からずにそのままにしていたけれど、特にその後送り主からのアクションは全くなかった。まだ送る相手を勘違いしているのか、それとも本当に私宛てだったのか……今ではその真意を知る術はどこにもない。一体、送り主は何を思って封筒だけ下駄箱に入れてきたのだろうか。
 自分にはきっと関係ない。それならさっさと捨ててしまえば良いのに、何故か手放すのを躊躇してしまっている自分がいる。忘れてしまえば手放せるだろうか。メッセージカードの筆跡も、なにもかも。
 そしたら、胸に残っている僅かな期待も消えてくれるだろうか。
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