終礼が終わった学校は非常に静かだ。それこそ廊下を歩く靴音が聞こえてくるくらいに。校庭側の開いた窓からは野球部の走り込みの声や吹奏楽部が楽器を演奏する音が耳に届く。帰宅部である私には到底出すことの出来ないものだ。窓辺から吹き込む風の音と一緒に聞き流し、両手に抱えた大量の紙束を持ち直し目的の場所へと急いだ。
(生徒会室は、っと……)
図書館に借りていた本を返却し、そのまま帰ろうと玄関に向かっていた最中にちょうど良かったとローウェルさんに呼び止められた。急用が出来てしまったから自分の代わりに資料を届けて欲しい、と。その割には下校時間を過ぎていてもバッグも持っていなかったりと不審な点はいくつかあったが適当にはぐらかされてしまった。無理矢理持たされたプリントを届ける義理なんてひとつもないが――結局、足は生徒会室に向かっている。
(……開いてる)
階段とは正反対の廊下の突き当たり。扉の上には『生徒会室』の四文字がプラスチックの小さな板に刻まれていた。委員会に所属もしていなければ部活動にも入っていない、おそらく今までの学校生活を送っていれば関わることすらなかったであろう場所に足を踏み入れようとしている。ほんの少しだけ隙間の開いた扉から覗き込んでも見えるのは壁に埋め込まれた棚に陳列する大量のファイルぐらい。中に人がいれば声をかけてその場で渡したのだけど――。仕方ない、と息をひとつ吐き出し扉を控えめに叩いた。
「入ってくれ」
薄い壁一枚、隔てた先から聞こえた涼やかな声。ひっそりと落胆したのは自分だけの秘密だ。そっと扉を開ければ自習室で使っているものと同じ、グループワーク用のテーブルが目に入った。そしてその奥にぽつんと置かれた大きめなデスクで作業をする人がおそらく……生徒会長のシーフォさん、なのだろう。その視線は彼のテーブルに大量に並んだ資料に向けられている。おそらく私がローウェルさんに頼まれたものもあれの仲間なのは容易に想像できた。
「すまないねユーリ。そこに置いておいてくれ」
太陽のようにきらきらと輝く黄金色の髪に長い睫毛で陰る瞳は海のような青い色。今はそれも夕焼けに染まって橙色を帯びていた。彼の意識はこちらに向けられることはない。このまま黙って紙束を置いて帰っても問題はなかったのだが、更に用事を追加されても面倒だったので勘違いは直しておくことにした。積み上がった紙を崩してしまわないよう、机に静かに乗せながら口を開く。
「あの、ローウェルさんなら急遽用事が出来たみたいですよ」
「え……?」
自分の想像していた人物の声と違って疑問に感じたのだろう。ゆっくりと顔を上げて私を捉えたシーフォさんはぱちくりと目を瞬かせた。切れ長の瞳が丸く縁取られる。驚きと戸惑いの混じった表情。余程、ローウェルさんではなかったことにびっくりしたらしい。あまりにも長く見つめられるものだから流石に視線が痛く感じてきて声をかけようかと思った時、突然シーフォさんは椅子から立ち上がった。
苗字、さん……? ひとつひとつの単語を確かめるように紡がれたのは間違いなく私の名前だ。私の記憶違いでなければシーフォさんと言葉を交わすのは今日が初めてのはず。だけどどうしてか私の名前はするりと出てきていて。率直に感じた感想は無意識の内に唇から零れ落ちていた。
「そうですけど……どうして私の名前を?」
「全校生徒の名前を覚えるのは、生徒会長として当たり前のことだよ」
軽く首を傾げながらさらりと応えられたが、果たしてそういうものなのだろうか。深く考えるのも億劫でそうですか、と瞳を伏せながら簡素に答える。素っ気ないと思われても構わなかった。どうせ相手は二度と関わることはないであろう生徒会長。ましてや一つ上の学年なら校内で出会うことだって早々ない。さっさと家に帰りたいというのが正直な気持ちだった。
頼まれ事が終わればいよいよ生徒会室に留まる必要性もなくなる。ふ、と小さく息を吐くと視界の端から細長い指が伸びてきた。持ってきた資料を撫でるのをぼんやりと見つめていると頭上から不思議そうな声が降ってくる。
「それで、どうして苗字さんがこれを……? 僕はユーリに頼んだのだけど」
「ローウェルさんに頼まれたんです。急用が出来たとかで」
「ユーリに? 苗字さんが?」
「……ええ、まあ」
シーフォさんはまず、私とローウェルさんが知り合いだったことに驚いていた。知り合いと言っても一度話したことがあるというだけで顔見知り程度のもの。本来だったら頼まれ事を任される程、見知った関係でもないのだ。たまたま廊下ですれ違っただけ、有無を言わさず資料を渡されただけ。それだけの話。
私の曖昧な返事でシーフォさんは事の全体を把握したようで(そういえばローウェルさんとは幼なじみだとエステルが言っていたっけ)呆れたようにため息をひとつ零した。長年付き合っていると相手の行動まで読めてしまうものらしい。眉を下げながらシーフォさんはうっすらと目を細めた。
「ありがとう苗字さん、助かったよ」
「いいえ。では、失礼します」
「あ、待って苗字さんっ」
踵を返し足早に立ち去ろうとしたその時、私の腕をシーフォさんが掴んだ。まさか呼び止められるなんて思ってもおらず肩越しに碧眼を見上げる。当の本人も無意識の行動だったようでハッと我に返ると慌てて手を離した。掴まれた腕が力なく垂れ下がる。
「すまない、驚かせてしまったね」
確かに驚きはしたけれど謝られる程のことでもない。ふるふると首を振っていいえ、と答えれば彼は安心したように細い息を吐いた。爽やかな印象を受けていた顔立ちがゆるりと柔らかいものに変わる。それは心の底から安堵しているような、ほっとした表情だった。
腕を掴んでまで呼び止められたからにはよっぽどの用事があると思っていたのだが、そこからシーフォさんはなかなか口を開こうとしなかった。気まずそうに視線をさまよわせ一向にこちらを見ようとはしない。向かい合うように立ってもそれは同じ。沈黙の時間がしばらく続いた。
「……あの、」
「好きなんだ」
用事がないなら帰らせてほしい。そろそろ我慢の限界が近づいてきた矢先、不意に耳に飛び込んできた言葉はすぐに飲み込むことができなかった。中途半端に開いた口がひゅっと空気を取り込む。間抜けな自分の顔がシーフォさんの瞳に映っていた。
「返事が欲しいとかそういうことではないんだ。ただ、ずっと気になっていて……。こんなこと初対面の人に言われたって困ると思うんだけど、どうしても伝えたかったんだ」
最初は冗談かと思った。だって、当たり前の話。少なくともついさっき初めて対面した同士が交わすやりとりではない。受け取った言葉をどう解釈すればいいのか分からなかった。頭の中が真っ白になってひどく混乱した私はとっさに俯いて失礼します、と答えるので精一杯だった。
「うん、気をつけて帰るんだよ」
必死に視線を上げないように踵を帰して生徒会室の外を目指す。これ以上あの空間にいてはいけないと脳が警告を発していた。ひたすら足を動かしてとんとんと階段を駆け下りる。耳に届くすべての音を遮断したくて急いでかばんから音楽プレーヤーを引っ張りだした。ちょっとでも気を緩めればさっきの言葉が脳裏に蘇ってくる。
(私は何も聞いてない)
だた、オレンジ色に染まったシーフォさんの今にも泣きそうな微笑みがいつまでも頭の中に残っていた。
音を心に、瞳に君を
その言葉は意外にも簡単に唇に乗った。
「好きなんだ」
状況が分からないとでも言うようにぱちくりと瞳を瞬かせた名前にどうしようもない愛おしさが込み上げてくる。ずっと遠くから見つめていた彼女が、ほんの少し手を伸ばせば簡単に届く場所にいる。たとえそれが幼なじみにより仕組まれたものだったとしても構わないと、フレンは手のひらに力を込める。
(きっと、これが最初で最後)
相手にその気がないのは分かりきっていた。だからこそ今を逃してしまえば二度と伝えられないのも感じていた。
名前が生徒会室から出ていったのを確認してフレンは小さく息を吐く。そこでようやく自分がそれなりに緊張していたことに気がついた。
(後悔はしていない)
ただ、彼女の負担になってしまわないか。それだけが気がかりだった。
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