(……集中できない)
はぁ、と溜め息を零して読んでいた本を閉じる。昨日から読み始めているはずなのに差し込んだ栞はまだ半分も進んでいない。普段なら同じ時間で読み終わっているというのに。諦めてかばんに本をしまって机に突っ伏す。
ここ数日、何をやっても上手くいかない。数学の課題は家に忘れてくるし、体育の授業でバレーボールを顔面に受けた。誰かに振り回される性格ではないと思っていたのに――未だに先日の出来事に振り回されている。
(調子狂うなあ)
ふと気を緩めればあの時の今にも泣きそうな表情が蘇ってくる。人生で初めて告白されからというのもあるかもしれない。けれどそれ以上に自分がそういう状況に立たされている驚きの方が強かった。この状況は何? 混乱が頭の中を駆け巡る。
今まで、あの人と関わることなど一度もなかった。今回の邂逅だってローウェルさんから頼み事さえされなければ絶対にあり得なかったのだから。
(……もし、)
私があの日に生徒会室に向かわなかったら、あの人はずっと想いを胸の内に抱えたままだったのだろうか。私から会いに行く可能性は限りなく低い。そして向こうも自分から会いに来るつもりはない。それを分かった上での告白だったのだろう。返事はいらないとこの耳ではっきりと聞いた。
……だからたぶん、私はここまであの人のことを気に留める必要はないのだと思う。考えたってきっと何も解決しない。それでもつい考えてしまうのはこの面倒な性格の所為なのだろう。またひとつ、溜め息が零れる。
「名前、具合でも悪いんです?」
昼休み。頭上から降ってきた声にちらりと視線を持ち上げると不安げに眉を下げるエステルが私を見下ろしていた。上体を持ち上げ首を軽く横に振るとほっとしたように胸をなで下ろす。その手には可愛らしいランチトートバックが握られていた。自然な流れで私の前の席に座った彼女は身体をこちらに向けて机にお弁当箱を広げ出す。それをぼんやりと眺めふと考える。そういえば、最初にあの人の名前を聞いたのは彼女からではなかっただろうか。
(――ああ、そっか)
そういうことだったのなら、あの時の唐突な質問もその後の言動も全てが一本の線に結びつく。エステルとあの人にどんな繋がりがあるのかは全く分からなかったが、お節介焼きな彼女の意図なら簡単に読めた。そして私の隣で本に読みふけるリタもおそらくは関わっているのだろう。エステルが絡むことには大体彼女も関わっている。
「エステル」
「はい?」
「シーフォさんのこと、知ってたんだね」
何が、とは言わなかった。口にするのは気恥ずかしかったから。けれど表情の変わらなかった私を見て言葉の意味に気付いたらしいエステルは眉を下げ長い睫毛を伏せた。ごめんなさい、と形の整った唇から紡がれる。
「いいよ、別に謝ってほしかった訳じゃないから」
「でも私、名前とフレンってお似合いだと思うんです」
「……いやエステル、今はそういう話じゃなくてね」
「なに、とうとう告白でもされた?」
「えっ!? そうなんですか名前!」
ああもう、余計なことを。
じろりと隣を睨みつけたけれど彼女は何事もなかったかのように活字を追いかけている。しかも図星なだけに何も言い返せない。だからきらきらと瞳を輝かせながら詰め寄ってくるエステルから目をそらして、リタに話を振る。
「リタ、話の内容拗らせないでよ」
「で? 事実なの、事実じゃないの? はっきりしなさいよ」
「それは、」
「よう」
軽い調子で話の輪の中に入ってきたのはローウェルさん。この人は他学年だというのに教室に入ってくることに躊躇いはないのだろうか。ふと耳を澄ませばあちこちで小さな黄色い歓声が聞こえる。どうやらこの人も余程の有名人らしい。ユーリ! とエステルが嬉しそうに胸の前で両手を合わせた。
彼らの関係を私は詳しくは知らないが、目の前で仲良く話をしているのを見ると友達というのは本当らしい。その中にリタも加わるものだから驚いた。意外な繋がりだ。でも、これでエステルの意識は完全にローウェルさんに向けられた。腕時計に目を落とせば昼休みが終わるのも残り半分を切っている。このまま授業が始まればさっきの話題が再び振られることはほとんどないだろう。ほっと安堵の息を吐いていると、不意にローウェルさんに名前を呼ばれる。
「この前はさんきゅ。助かったわ」
「……いえ」
その代わりにとんでもない経験をしましたけどね。
皮肉を懸命に飲み込んだ声はいつもより淡々としていた。なんて幼稚な反応をしてしまったのだろう。気まずくてローウェルさんから目を反らすとふうん、と明らかに挑発的な返答。エステルのように素直に踏み込んでこないところが余計に厄介。どうせこの人もエステルたち同様、共犯の一人なのだろう。下手したら確信犯だ。
「やっと見つけたよユーリ」
教室の雑踏に紛れ今、一番聞きたくなかった声にぎくりと心臓が跳ねる。なんてタイミングの悪い。恐る恐る顔を向ければ教室の扉に手をかけたシーフォさんがそこには立っていた。第一ボタンまできっちり締められた制服が彼の性格をそのまま表しているように感じる。隣にいるローウェルさんとはえらい違いだ。ところが、躊躇のなさは彼と全く同じようで躊躇うことなく教室に足を踏み入れてきた。再び有名人の登場にクラスの女子の歓声が上がる。
(逃げたい)
今すぐにこの場から逃げ出したい。適当な理由を作って教室から出ようと思ったけれど、考えつく頃にはすでにシーフォさんはローウェルさんの傍で説教を始めていた。内容なんて全く頭に入ってくるはずもなく。近くで聞こえる彼の声を俯くことで必死に存在を押し殺す。どんな顔をすればいいのか、分からなかった。
「――だろ、苗字?」
「え?」
不意にローウェルさんに名前を呼ばれて反射的に顔を上げてしまったのがいけなかった。ばっちりと碧眼と視線が交じり合い、思わず頬がひきつる。(何せ視界の端でローウェルさんがにんまりと笑っていたことにも気付かなかいくらいに焦っていたのだ)何にも話を聞いていなかった上に目が合ったのがシーフォさんときたら頭の中は軽くパニック状態。目を合わせたまま何秒間続いただろうか。やがて表情が動き出したのはシーフォさんの方だった。
「こんにちは、苗字さん」
(――え、)
ゆるりと持ち上がる口角。まるでおとぎ話の王子のような微笑みを浮かべるシーフォさんに私は思わず瞳を瞬かせる。脳裏に浮かび上がってくるのは先日、生徒会室でみた夕焼けに染まるあの表情。また、同じ顔をさせてしまうと思った。それなのに彼は何事もなかったかのように笑う。こっちの気持ちを知らずに。
それを見た途端、静かにふつふつと湧きあがってくる感情。あの日以来、悩みに悩んだ私の苦労はなんだったのだろうか。
「それよりユーリ、」
「シーフォさん、ちょっといいですか」
再びローウェルさんへの説教が始まりそうだったのを無理矢理打ち切る。椅子から立ち上がってシーフォさんと向かい合う。さっきまでの緊張が嘘のようにいなくなっていた。頭一つ分ほど高い相手をまっすぐ見上げる。僅かに碧眼が揺れるのが分かった。
「先日のお話の件ですが」
話を切り出した途端、シーフォさんの瞳が泳ぐ。えっと、それは……。言葉を濁されても伝えないつもりはない。本当ならもっと人の少ないような所で話す内容なのかもしれないけれど――そんなの私が知ったことではない。
「ちゃんとこっちを見て下さい」
はっきりとした声色で伝えればシーフォさんは諦めたように碧い瞳をこちらに向けた。不安げに揺れるそれの中に眉間に皺の寄った自分の顔が映る。ふ、と小さく息を吐いて呼吸を整えてから口を開いた。
「自分だけ言いたいこと言って勝手に満足するなんてそんなの不公平です。私には考える時間もくれないんですか?」
結局、うやむやになるのが一番許せなかった。けれど仮に受け止めるにしても断るにしても、ちゃんと返事をするにはあまりにも判断材料が少なすぎた。だって相手はまだ一度しか会話したことがない。ましてや"生徒会長"というフィルターがかかっている時点で私はシーフォさんを真正面から見れていない。たとえばどうしてシーフォさんとローウェルさんがそんなに親しげなのか。そんな些細なことすら私は知らないのだ。
「延長期間、くれませんか」
これは私の我が儘だ。返事をする必要はないと言われたのに、どんな答えをするか分からないが待ってくれと言っているのだから。
固まったまま動かないシーフォさんを何秒間見つめ続けていただろうか。少し、自分の感情に任せすぎたかもしれない。すみません、そう言って視線を足下に落とす。ぼんやりと力なく垂れ下がる自分の手を見つめていると視界の端からするりと細長い指先が伸びてきて自分のそれを包み込んだ。先日の時より熱を帯びているような気がするのは私の思い違いだろうか。持ち上げた視線の先には柔らかく微笑むシーフォさんがいた。
「――構わないよ」
君が待つ春を待つ
(向日葵:私はあなただけを見つめる)
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