ふんわりと、柔らかい弾力の後に滑り込むように入ったナイフはカチャンと白い食器とぶつかって音を立てる。切り取ったそれをフォークで刺し、口に放り込むとめいっぱいに広がる小麦粉のしっとり感と生クリームの甘さ。頬が緩むようなおいしさに舌鼓を打つ。だけど実際に表に出た顔はしかめっ面で。それを不思議に思ったのだろう。向かい側に座ったルドガーが背もたれに背中を預け疑問符をつけながら私の名前を呼んだ。

「解せない」
「なにが?」
「男のくせに女の私よりお菓子作り上手とか解せない……!」

 パンケーキ食べたい。
 以前、ルドガーの家に遊びに来た時に呟いた言葉。その日はユリウスさんもお仕事がお休みで、三人で私が借りてきた映画を鑑賞していたのだ。確か恋愛映画だったと思う。劇中でヒロインの女の子が相手の男の子とカフェに出掛けたのだ。レトロな雰囲気が漂うカフェで男の子はオレンジジュースを、女の子はパンケーキを注文していた。生クリームたっぷりのパンケーキは甘党の私には相当な魅力で。ソファーの上でユリウスさんとルドガーに挟まれるように座り、ルルを抱きしめながらぽつりと呟いた言葉にユリウスさんは私の顔を覗き込んだ。

「確か駅前に新しい店ができていなかったか? 友達と行ってくればいい」
「まだ開店したばっかりで毎日行列なんです。長時間待ってるの苦手だし、もう少し落ち着いてからでもいいかなって……」

 ルルの喉元を撫でてやるとごろごろと甘い声を鳴らす。パンケーキを食べたいと言ったのは後にも先にも映画を見た時の一回きり。ほんの少しの気まぐれだったそれをルドガーは覚えていてくれたらしい。まあ、それが食べに連れて行ってくれるのではなく自分で作ってしまうというのがいかにも彼らしいのだけど。
 だけど、この出来は少し許せない。ルドガーが料理上手なのは分かっていたけれど、これじゃあまるでお店で出てくるパンケーキと大差ないじゃないか。自分で作ったことがないだけになんだか悔しい。キッと目に力を込めてルドガーを睨みつけたが、本人はきょとんとした表情を浮かべる。

「人並みだろ」
「人並みな男はこんな女子力満点のふわふわのパンケーキなんて作らないんですぅ」

 勢いよくフォークを突き刺してパンケーキをかじる。女子力と言ったのが気に食わなかったのかルドガーはむすっと口を尖らせた。そのナイフは何の為にあるんだよ。どうやら彼が言いたいのは私のテーブルマナーの方らしい。女子か。

「大体お前がパンケーキ食べたいって言ったから作ったんだろうが」
「ここまでのクオリティー求めてないもーん」
「……ふーん」

 あ、と思った時には遅かった。ルドガーは座っていた椅子から少しだけ身を乗り出したかと思ったら、私のパンケーキを自分の手元に引き寄せたのだ。目の前で奪われたご馳走。いつもより細められた瞳が感情の変化を顕著に伝えていた。終始穏やかな笑みを浮かべるユリウスさんと比べれば彼はとても表情が豊かなのだ。ひくりひくりと動く柳眉は僅かに吊り上っている。

「そんな我が儘を言うやつは食べなくていい」
「なにそれルドガー酷い! 意地悪! 鬼嫁!」
「お前、鬼嫁って……」

 呆れたように溜め息を吐いた一瞬を狙ってパンケーキを引き寄せる。もう取られまいと両手で抱え込むようにそれを守ると握っていたナイフがルドガーの方に向いてしまって彼は顔を引きつらせた。よし、あと一押し。更に姿勢を低くしてルドガーを上目遣いで見上げる。うっ、と言葉を詰まらせた彼の眉はみるみる内に下がっていった。

「ルドガーがおいしいパンケーキ作るからいけないんだよ」
「ああもう、分かった。俺が悪かったよ」

 居心地が悪くなったのか、ルドガーは席を立ってキッチンへと向かう。ヤカンに水を入れて火にかけ、そのままコーヒーの豆を挽き始めた。ごりごりごり。要領よく動く背中を眺めながら私は皿に残っていたパンケーキを食べる。既に半分以上は胃の中に収めてしまっていたからヤカンが湧き上がる前には皿はからっぽになっていた。
 ルドガーが私のために料理を振舞ってくれたのは今回が初めてではない。毎回、ルドガーはほっぺが落っこちそうになるくらい美味しい料理を作る。そのたびに私は己の料理スキルの低さを思い知るのだ。八つ当たりだと自分では分かっている。そしてルドガーがなんだかんだと言って私のことを甘やかしてくれていることも。

(また可愛くないことを言ってしまった)
「――名前、ついてる」
「ん?」

 溜め息交じりに呼ばれた名前に意識を戻し顔を上げるとルドガーの手が私の頬に伸びていた。細長い人刺し指が口許の端に触れたかと思うとそのまま唇の方になぞられる。触れるか触れないかの距離で指が離れ、それは彼の口に持っていかれた。指先に乗った白い物体。それが自分がさっきまで食べていた生クリームだと気が付くのに随分と時間がかかった。

「少し甘すぎたな」

 ぺろりと小さく舌を出したルドガーは自然な動作で私を見下ろした。砂糖はいくつ入れる? と当たり前のように聞いてくる。フリーズした頭では一回では彼の言葉を聞き取ることが出来ず、ぽかんと彼を見上げる。砂糖ふたつでいいのか? 問いかける唇がさっき自分の頬についていた生クリームを食べたんだと思ったら急に恥ずかしくなって視線を反らした。

「…………いらない」
「え、いらないのか? 結構苦いぞ。飲めるのか?」
「いい。パンケーキ甘かったから」

 きっとルドガーは意識していなかったのだろう。どうせ手のかかる妹のようにしか考えてなかったに違いない。そうでなければこっちの想いを微塵も気にせず、ずけずけと距離を縮めてくることなんてしないだろうから。再びルドガーが背中を向けたのを確認して、そっと彼の指が触れた箇所に手を伸ばす。そこだけ熱を持っているかのように熱いような気がした。
 考えてみれば妙齢の男女が部屋に二人きり。何度も同じような経験があったはずなのに、一度だってそんな雰囲気になったことはない。いつも表に出てくるのは兄妹にも似たそれ。今の関係も居心地が良くて嫌いではないけど、私が淡い期待を寄せているのはまた違うもの。ルドガーは知らない、胸にしまった想いを吐露すればきっと彼は困ってしまう。そんな顔は見たくない。

「はい、コーヒー」

ことりと目の前に置かれたマグカップ。無糖のコーヒーはやっぱり苦くて顔をしかめるとルドガーは困ったように笑って私にふたつの角砂糖を差し出した。


曖昧な背伸び
(境界線はきっと誰にも分からない)

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