ふわりと前髪をさらう指先にぴくりと肩が震える。頭の中では理解できていてもやっぱり身体は素直で。きゅっと瞼に力を込めると真っ暗な視界の中でくつくつと笑い声が聞こえた。相手には自分の反応が丸見えなだけに余計に羞恥心がこみ上げてくる。

「わ、笑わないでください……っ」
「悪い悪い」

 苦笑まじりな返答。絶対に面白がってる、と思わず唇を尖らせたがあまり効果はなかったようだ。未だに耳に届く微かな笑い声を聞きながら再び指先が髪に触れるのを待つ。今度は意地でも身体を動かさなかった。ほんの少し引っ張られる前髪。さくり、と音を立てるはさみ。切られた前髪が自分の顔にかかったのが分かった。

「いつも自分で切ってたのか? あの長さなら邪魔だっただろ」

 はさみを動かしながら器用にユーリさんが話しかけてくる。しんと静まりかえった部屋では彼の声が良く聞こえてきた。二人きりで留守番をしているから当たり前と言えば当たり前なのけれど。カロルくんたちは夕食の買い出しで少し前に出かけたきり、まだ帰ってきていない。
 黙って首を横に振ろうとして、彼に前髪を切ってもらっていた最中だったことを思い出し口を開く。

「そういうわけでは、ないですけど」

 正確に言えばこっちに来てからずっと伸ばしっぱなしにしていた。自分の髪型まで気にする余裕がなかったというのもある。そんなことより生き延びる方がよっぽど重要だった。
 ユーリさんに指摘されなければきっと意識すらしなかっただろう。確かに真っ直ぐにすれば視界を半分隠してしまう程、前髪は伸びていた。無意識の内に分け目を作って邪魔にならないようにしていたのだろう。

(それにしても……)

 変な状況だなあ、とぼんやり思う。まさかユーリさんに前髪を切ってもらうことになるなんて。自分でできると最初は断ったのだけれど、いつの間にかはさみを持った彼と向かい合っていた。問答無用で膝の上に新聞紙っぽい紙を置かれ、大人しくするしかないなと諦めたのがついさっきのこと。
 さくり、さくり。静寂に包まれた部屋に、はさみの音だけが響く。時々額を掠める指先がくすぐったい。ぴくりと動いた眉にユーリさんがまた笑ったような気がした。目を瞑っているから実際には分からないのだけれど。

「……ユーリさんは」
「ん?」
「ユーリさんは、自分で切ってるんですか?」

 艶のある長い紫黒の髪。羨ましい、の一言に尽きるそれはいつも一定の長さで綺麗に切り揃えられている。いくらゲームの世界の人間とは言え、全く伸びないというのは流石にないだろう。ユーリさんは軽い調子でまあな、と答えた。それもあってかはさみの動きに迷いは感じられなかった。
 それからしばらく大人しくしていれば、彼の手が前髪を軽く払う。ある程度終わったのだろうか。ゆっくりと持ち上げそうになった瞼を止めたのは他でもないユーリさんの声だった。

「ちょい待った」
「え?」
「切ったのが目に入ったら大変だろ?」

 別に顔についた髪の毛くらい鏡があれば自分で払える。そう思って開きかけた口はすぐにまた閉ざすことになった。ユーリさんの指先が唇の端を掠めたのだ。いきなりのことにびっくりして身体が硬直する。そのまま彼の指が頬を滑るものだからますます頭が混乱した。明らかに髪の毛を払う指の動きではない。

「あ、あのっ、もう大丈夫、なので」
「大人しくしてろよ名前」

 さっきよりも近くにユーリさんの声を感じる。視界が遮られているからなのだろうか。他の感覚がいつも以上に研ぎ澄まされている。自分でも訳が分からない状態にくらくらと目眩がした。今すぐにでもその場から逃げ出したかったけれどユーリさんははさみを持っている手前、急に動いて怪我をさせてしまったら大変なことになる。そう思ったら指一本動かすのも躊躇われた。

(もう、だめ)

 ユーリさんの細い指が頬を撫で、髪を梳き、耳たぶに触れる。ぞくりと背中が粟立つ。身体の底から込み上げてくる何かにいよいよ耐えきれなくなりそうだったその時、ふっとユーリさんの指が離れた。

「ただいまー。あれ、ユーリと名前は?」
「奥にいるんじゃないですか?」
「はっ、まさか二人きりで……!」
「馬鹿じゃないのおっさん」

 きぃ、と木の軋む音と一緒に聞こえたカロルくんたちの声。静かだったはずの部屋は一気に賑やかなものに変わる。わたしたちのいる場所はちょうど入り口からは死角になっているけれど、流石にこれ以上何か仕掛けてくることはないだろう。そう思ったら一気に身体の力が抜けた。そして、おそるおそる瞼を持ち上げる。ぼやけた視界が最初に映したのは整った眉を潜め、苦い表情をしたユーリさんの姿だった。手を伸ばせば届いてしまう程の至近距離で、また心臓が跳ねる。

「タイミング悪いな、あいつら」

 わたしにとってはすごくありがたいタイミングでした。なんて、言えるはずもなくぐっと口を噤む。カロルくんたちが帰ってこなかったらどうするつもりだったのだろうか。想像したくもない。視線を下に落とすと新聞紙の上には細かい髪の毛が散らばっていた。結構伸びていたんだな、とぼんやり眺めていると前髪をさらりと撫でる手。視線を持ち上げると苦々しい表情とは打って変わってゆるりと瞳を細めるユーリさんがいた。

「ま、こんなもんだろ」

 男の人にしては細いユーリさんの手。その手がわたしの頭の上に乗る。一度意識してしまえばついさっきまで頬や耳たぶに触れられていた感触を思い出し、じわじわと顔に熱を帯びるのが分かった。
 そして、多分ユーリさんがわたしの反応を見て楽しんでいることも。

「っ、あの、ありがとうございましたっ」

 前髪を切ってもらったお礼を言って彼の手を払うように新聞紙を持ちながらその場から立ち去る。一刻でも早くユーリさんを視界から外したかった。
 髪の毛ごとまとめた新聞紙をゴミ箱に捨てる。ちょうど隣には壁に埋め込まれた鏡がありそっと覗き込む。眉毛が隠れるくらいの長さで切り揃えられた髪。確かに視界は広くなったけれど、同時に赤くなった自分の顔もはっきり映ってしまい前髪を押さえる。きっとユーリさんには真っ赤な頬が見えていたに違いない。きゅっと唇に力を込める。

(……確信犯)

 今度、前髪が伸びた時は絶対に自分で切ろう。そう心に決めた一日だった。


リリカルラズベリー
(指先から伝わる)

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