近くの川のせせらぎを聞きながらせっせと手を動かす。もこもこと空中に舞い上がる白い泡。それは青空に反射してきらきらと輝いていた。

「……ずるいです、名前」

 膝を抱えながらじいっと羨ましげにこちらを見つめてくるエステルちゃん。顔だけをそちらに向けわたしは無理矢理薄い笑みを浮かべる。あくまでも動かす手は止めないように。視界の端で小さな泡がぱちんと弾けて消えた。

「どうしてそんなにラピードと仲がいいんですか……!」

 どうやら彼女にとってはラピードに触れていること事態が仲の良い証拠になるらしい。ただ、わたしはラピードの身体を洗っているだけなんだけど。これが信頼の証かと聞かれると自身を持って答えることは出来ない。
 いつもは首に巻いたチェーンや口にくわえたキセルも今だけは外してもらっている。洗うにはどうしても邪魔になってしまうから。彼女にはそれすらも不服のようだ。始める前からなんだか視線は感じるなあ、とは思っていたが。

「どうしてって言われても……下町にいた時も時々やってたから、慣れじゃないかな?」

 下町でもこうしてラピードの身体を何回か洗っていた。きっかけはわたしが宿屋の手伝いで外で洗濯をしていた時にラピードがやってきたから。動物の身体を洗うなんて初めてで最初は戸惑ったけれど、慣れてしまえば案外楽しかった。ラピードも大人しくしてたのもあったのだろう。水が苦手で逃げ回る動物も多いと聞く。今回もぼんやりと川を眺めていたら隣にやってきたから尋ねてみたのだ。
 エステルちゃんに向き合っていたらいつの間にか手が止まっていたらしい。ラピードが終わったのか? とでも言うかのように一吠えしたので手を再開させる。首もとを包み込むように洗うとほんの少しだけ彼は目を細めるのだ。この時だけはいつもの鋭い表情が欠片も見えなくてちょっぴり笑ってしまう。

「私もやっていいです?」

 腕まくりをしながらエステルちゃんが尋ねてくる。貴族のお姫様にやらせていいのだろうか、と疑問には感じながらも特に断る理由もなかったのでどうぞ、と自分がいた場所を譲った。後は彼が許すかどうかだ。彼女が触れようと手を伸ばした瞬間、ラピードはその場からすたすたと離れてしまう。

「あ、」

 明らかに沈んだ横顔。身体を泡だらけのままにしても彼女には触れてほしくないようだ。そこまで頑なな理由にはわたしには分からなかったが。しょんぼりとうなだれるエステルちゃん。今はどんな声をかけても効果がないような気がした。

「やっぱりずるいです名前!」

 若干、瞳に涙を浮かべながらこちらをにらみつけてくる彼女。上手く返す言葉が見つからずにわたしは苦笑いを浮かべるばかりだ。視界の端でラピードが居心地悪そうに全身を震わせる。きっと泡がまとわりついているのが嫌なのだろう。川でバケツに水を汲むといそいそと元の位置に戻ってきた。

「きっと、いつかやらせてくれるよ」
「それっていつです?」
「う、うーん……いつかなあ?」

 バケツいっぱいに溜めた水でゆっくりとラピードの身体を洗い流していく。かけるよ、と最初に声をかけながら。白い泡が地面に流れていき代わりに全身水浸しになったラピードが現れる。いつもより一回り小さくなったその姿を見る度についくすりと笑みが零れてしまうのだ。身体に泡が残っていないのを確認してから外していたチェーンを巻き直し、キセルを渡す。身体を拭くのはどうしても嫌がるからいつもここまでしかやらない。

「どうして、名前は良くてわたしは駄目なんでしょう」

 エステルちゃんが近づこうとするとラピードはいつも離れてしまう。出会った頃からそれはずっと変わらない。反対にわたしは出会った当初から触ることを許されていた。自分から進んで彼に近づくことは滅多にないのだが、拒否されたことはない。それが何故かはわたしにも分からない。彼だけがその理由を知っている。

「名前のだけは安心するんだと」
「ユーリ!」

 ふっと頭上に陰が落ちて顔を上げる。綺麗な紫黒の瞳がわたしを見下ろしていて思わずぱいぱちと瞬きをした。全然、気配に気がつかなかった。にんまりと口角を持ち上げたユーリさんはそのまま視線をラピードに向ける。

「綺麗になったなラピード」
「ワンッ!」
「ユーリ今のってどういう意味です?」
「こいつ、ほんとは水苦手なんだよ」
「え?」

 水が苦手だったら身体を洗うのだって嫌がるものではないのだろうか。今までそんな素振りを見せたことはない。思わずラピードを見つめる。彼はずぶ濡れのままで暢気に欠伸をしていた。

「オレがやったって嫌がるけど、おまえのだけは平気なんだと」

 特別に何かをしてるつもりはなかった。ラピードも嫌がったりしないから。ま、喜んどけよ。ユーリさんがそう言ってわたしの肩を叩く。きっとラピードなりの理由があるのだろう、彼はすごく賢いから。

「……そうですね」

 ユーリさんを見上げ薄い笑みを浮かべる。嫌われているよりずっといい。中には距離を置かれてしまう人もいるのだから。
 やっぱりずるいです名前! エステルちゃんは唯一不服そうに口を尖らせた。


滲んでく温かな日々
(例えば、こんな日もある)

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