ベッドから起き上がった瞬間に身体に感じた違和感。ぞくぞくと背筋に走る悪寒、霧がかったようにぼんやりと霞む視界。身体も全身が怠く、なんだか頭もぼーっとする。いつもより鈍く働く思考回路の中でも自分の身に起こっている現象はなんとなく理解出来た。
あー、と思わず呟き前髪をくしゃりと握りしめる。ここ最近ずっと野宿続きで久々に屋根のある建物に泊まれたから油断したのかもしれない。ただでさえ他の人に比べて体力がないから健康管理には人一倍気を付けていたはずなのに。
「名前、起きてるかしら?」
えーっと、今日は何をするって言ってたっけ。ぼんやりと思考の回らない頭で考えていると部屋の扉が開いて同室だったジュディスさんが顔を出した。二人一部屋で借りたこの部屋に残りの女子二人――エステルちゃんとリタちゃんの姿はない。
「おはよう、名前。今日は珍しくお寝坊さんなのね」
「ジュディスさん……」
おはようございます、と発した声は自分で聞いていても弱々しい。薄く笑みを浮かべていたジュディスさんの表情が曇る。ヒールを鳴らしてベッドに寄ってきた彼女はほっそりとした白い指を伸ばしわたしの額に触れた。ひんやりとした感触が気持ち良くて自然と目を瞑る。
「名前、あなた――」
どうやら風邪を引いたみたいだ。
***
一度でも風邪だと意識してしまえば症状は途端に悪化していった。頭痛と身体の怠さ、それに悪寒。心なしか喉にも違和感を感じる。
「あーあ、俺様だって名前ちゃんの面倒見たかったのにー」
「は? おっさんなんかに任せられるわけないでしょうが。ぶっ飛ばすわよ」
「ねえ、最近リタっちの風当たりきつくない? おっさん辛い。どう思うジュディスちゃん」
「うふふ。おじさまがそれだけ親しみやすい人柄ってことじゃないかしら?」
ベッドで横になるわたしを覗き込むたくさんの顔。もともと二人用として用意された部屋に倍以上の人数がいるとやはり窮屈そうだった。
わたしがこんな状態なので今日は街から動かず情報集めをすることになったらしい。個人的にも風邪をうつしたくなかったので同じ空間にいるよりも外出してもらった方がありがたい。
「名前、今日はゆっくり休んで下さい」
「それじゃあ、行ってくるね」
できるだけ表情を明るくして扉が閉まるのを見送る。やがて扉が閉まりしんとした空間でわたしはひとつ息を零した。自分に対する呆れのようなものだった。そうして視線を横に向けて一人だけ部屋に残っていた人物に目を移す。
「すみませんユーリさん。大変な時に……」
「誰だって具合が悪くなることはあるからな。名前が謝ることじゃないだろ?」
どうせ寝てるだけだから一人でも大丈夫だとわたしは主張したのだがユーリさんたちがそれを許してはくれなかった。誰か一人はこの部屋に残ってわたしの様子を見守る。協議の結果、残ることになったのが彼だった。下町に住み始めたばかりの頃、身体が環境に慣れずよく体調を崩していたわたしを知っているからというのが決まった理由らしい。
廊下から聞こえる足音が小さくなっていく中、わたしに視線を落としたユーリさんは薄い唇の端を持ち上げて微笑む。額に乗っかった濡れたタオルの上からそっと手のひらが乗せられた。
「ここ最近ずっと野宿だったからな。悪かった、気づけてやれなくて」
きゅっと眉間に皺を寄せるユーリさんにわたしは慌ててふるふると首を横に振る。ユーリさんが謝る必要は全くない。わたしの体調管理が甘かったのだ。
「あの……ユーリさんも自分の部屋に戻っていいですよ。風邪うつしたら大変ですし」
「オレがそんな柔な体してると思うか? 気にすんなって。それにエステルにも名前の世話頼まれてるしな」
「でも……」
「いいから寝てろ。体力戻さなきゃ治るものも治らないだろ」
エステルちゃんが作ってくれたお粥のおかげでほんのりと身体は暖かい。まだ寒気は残っているけれども寝ていればおそらく良くなるだろう。この世界にきて間もない時によく体調を崩していた頃の具合の悪さに比べればずっと軽い。
まるで子どもにするようにユーリさんの手が前髪を撫でる。若干の気恥ずかしさもあったけど手つきがあまりにも優しかったから。うとうとしながらぬくもりを享受していると不意に手のひらが離れたのが分かって閉じかけていた瞳を持ち上げた。ぼんやりと霞む視界に映るユーリさんの綺麗な顔。頬に触れる艶やかな紫黒の髪がくすぐったい。目と鼻の先にある彼の表情は悪戯に微笑んでいた。
「寝れないなら添い寝でもしてやろうか?」
大丈夫ですっ、と勢いよく布団を被るまでそれほど時間はかからなかった。
***
ふと何かの音が聞こえたような気がして再び目を覚ました時、窓から差し込む光は夕焼け色に染まっていた。額に置かれたタオルはひんやりと冷たい。きっと眠っている間に取り換えてくれたのだろう。軽く身じろぎをすると視界の端でユーリさんがこちらを向いた。その手には一冊の本。さっきの音は紙をめくる音だったのだ。目が合うとユーリさんは読んでいた本を静かに閉じてうっすらと微笑む。
「起きたか?」
「はい……ユーリさんも、本とか読むんですね」
「あのなあ名前。オレのことなんだと思ってるんだ?」
呆れたように肩をすくめながらもくすくすと笑みを零すユーリさん。あんまりイメージがなくて、なんて言ったら怒るだろうか。何の本を読んでいたんですか? と尋ねると小説を読んでいたのだと教えてくれた。お伽噺を集めた短編集らしい。なんでもエステルちゃんが暇つぶしにどうぞ、と貸してくれたのだとか。ちょっと気になるなあ、なんて内心考えているとタオルが外されて代わりに手のひらが乗っかった。
「顔色もだいぶ良くなったな」
「今朝よりずっと身体も軽いです。そういえば、みなさんは……?」
「エステルとリタとカロルは晩飯の調達に行ってる。おっさんとジュディはまだ帰ってきてねえが……まあ、どっかでふらふらしてるんだろ」
晩ご飯という言葉で思わずお腹が反応する。朝にお粥を食べてからずっと何も口にしていないから当然と言えば当然だ。上体を起こしてユーリさんから受け取った水を口に含む。久々に取り込んだ水分はすぐに身体に染み渡っていった。
もう一回眠るか? と柔らかい声色で訪ねてくるユーリさんにわたしは首を横に振る。エステルちゃんたちが戻ってくるのはもう少し先になるらしいがこれ以上眠ってしまったら夜に眠れなくなってしまいそうだ。ユーリさんはほんの少し難しそうな顔をしていたけれど、代わりにベッドから出ないという約束で起きていることを許してくれた。
「あの、ユーリさん……お願いがあるんですけど」
「なんだ?」
「その本、読んでもらませんか?」
布団に潜り込みながらわたしは彼の持つ一冊の本を指さした。わたしが文字を読めないことをこの人は知っている。微熱の影響でいつもより遠慮なくお願いしているのは自覚していた。そしてユーリさんが普段よりずっと優しく接してくれていることも。お願いします。ベッドサイドに肩肘をついたユーリさんは諦めたようにため息を吐いた。
「読み聞かせなんてやったことないからな、あんまり期待するなよ?」
けれど、その微笑みはやっぱりいつも以上に柔らかい。黄昏色に染まる彼の顔はとても綺麗だった。
踊る微笑
(微睡む世界、あなたと二人)
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