丸い月を見上げる。あの夜こんな月が浮かんでいたっけ。今夜もおつきみやまでピッピたちはダンスを踊っているのだろうか。ぼんやりと夜空を眺めていた私の背後に、羽ばたきが近づく。振り向けばカイリューに乗ったワタルくんがその背から飛び降りるところだった。
彼は相棒へねぎらいの言葉をかけ、ボールへ戻す。私の名を呼ぶその表情は、少し不機嫌な様子が見えた。
「夜にここへ呼び出すなんていただけないな」
「大丈夫だよ。私に野生のポケモンは近づいてこないし」
「――フスベのポケモンは違うだろう」
「イブキちゃんに送ってもらったから」
彼女の名を出しても渋い顔のままなワタルくんは「それで? ここに呼び出した理由は?」と尋ねてくる。
私を射貫く鋭い視線にすぐさま心の奥が縮みあがった。ワタルくんとバトルするトレーナーはいつもこんな気持ちになるのだろうか、と頭の片隅で考える。乾いたくちびるを舐め、声が揺れぬよう慎重に喉を震わせた。
「ワタルくん、私、この前ナツメさんに会ったんだ」
「ああ、ヤマブキの。それがどうしたんだ?」
「そうしたらね、私にマーキング≠ェされているんだって。野生ポケモンの群れで見られるような」
やっぱり私にはポケモンに攫われた記憶は無い。あのあと念のため両親にも確認したが、
隠している様子はなかった。つまりナツメさんが言った「野生ポケモンに攫われ、マーキングをされた」ことはないといえる。
「それでいろいろ考えたんだ。考えて、ワタルくんに直接話を聞かなきゃって思ったの」
私たちの視線は交わったままだ。だから気づいていた。彼の瞳孔が細くなり、鋭さを帯びていくことに。冷たい焔が宿っていくのを見ながら、背筋に走った寒気に気づかぬふりをする。
怖い。それが私の抱く感情だ。
ワタルくんはいつだって私に優しい。しかし今の彼から発せられる圧は、私を押しつぶす勢いで迫っていた。回りくどいことはいい、と言っている。
「ここで刺青を前に見せてくれたよね?」
彼は頷きもしない。ただじっと私を見つめていた。なんの感情も乗せていない表情で、見下ろしている。月を背おうワタルくんは、ぞっとするほど綺麗だ。
綺麗すぎて、怖い。
「ワタルくん、私は囚われているの? 契りを結んでしまったの? 一族の掟や、竜や」
あなたと。
「――まいったな。
彼は笑った。にっこりと、私を安心させるかのように。声音も暗くなくて、どこか優しい。今にも肩を竦め、「冗談だよ」と言ってくれそうな……そんな雰囲気を纏っている。私を甘やかしてくれる『幼なじみのワタルくん』がそこにいた。
しかし今の私には逆効果で、言い知れぬ不安しか感じない。目の前にいるのは『幼なじみのワタルくん』なのに、まったく別の人に見えた。
「きみに話をしたのはイブキか? でも自分から言うやつじゃないよな」
探るように私を見る。依然として瞳はあの冷たい色のままだ。人離れしたような、瞳。
「……私から訊いたの。イブキちゃんは何も知らないよ」
「なるほど。おれにしては詰めを誤ったようだ」
喉の奥を響かせる。くしゃりと髪を乱し「何を訊きたい?」と首を傾けた。
「こうなることをわかっていて、私に見せたの?」
「……どうだろう。そうなってほしい、という気持ちがあったことを否定はできない。まさか『ポケモンに怯えられる』といった形で表れるとは思わなかったが」
彼は言う。
刺青を刻んだとき、掟についても聞いていた。しかし幼いワタルくんは、その意味をしっかりわかっていなかったのだという。厳密に言うと、あまり重要視していなかったらしい。今でこそ一族の掟や歴史の重さを理解しているが。
「おれは意外と不真面目なんだ。幼心に『こんな痛い思いをするなんて』という反抗心もあったしね」
だから私に見せることもそこまで躊躇いがなかった。同時に隠し事をしたくないとも。あそこまで心配させておいて、内緒にすることを自分自身が許せなかった。
「ワタルくん……」
「そんないかにも『信じていた』なんて声を出さないでくれ。――囚われてくれればいい、ともたしかに思っていたのだから」
苦笑をこぼす彼は心の内を吐き続ける。
『囚われればいい』とは言うが、単純に引っ越しが取りやめになったり、なんらかの理由で私だけがフスベに残ったり……つまり私がここに、ワタルくんのそばに居続けることができるかもしれない、と幼い彼は期待した。
しかしそれは無理だった。カロスへ行く私を見て、落胆した。拘束力なんてものはない、と。なら次は「迎えに行こう」と考えた。二人にしかわからないこの繋がりをたどり、必ず迎えに行く。契りを導に必ず会いに行く。そう誓ったという。
「きみと一緒にいたかったんだ。どんなことがあっても傍らにきみがいてくれていたら、と願っていた。――幼子が駄々をこねるようにね」
「わがままだなんて……」
「今は己の立場を理解しているから、滅多なことは言わないさ。言うとしてもきみにだけだ」
それは暗に、私のことを「特別」と言っているのだろうか。抱く疑問を当たり前のように見抜いたワタルくんは、ここに来てから初めて力を抜いた甘い笑みを浮かべた。
とろりとした蜜のような声が、夜風に乗って私へ届く。その瞬間、また心が盗まれたような気がした。
「きみが好きだ。きみだけがおれの特別」
初恋なんだ、おれの。
「え……」
「笑うかい? このワタルが、初恋をずっと引き摺って拗らせていると」
笑わない。いや、笑えない。
ワタルくんは今なんと言った? 私のことが好き?
どくん、と一際大きく鼓動が鳴って、途端に身体中の熱が沸騰した。頭からつま先まで、熱くてゆだっていく。顔を赤くする私の頬にワタルくんが触れた。優しい指先から生まれた甘い痺れは、全身をかけめぐる。
「顔が赤い」
「だ、だって!」
「嬉しいよ。おれの言葉でそうなったんだよな。興奮する」
彼の目元へ浮かぶ恋の色に気づき、心が締め付けられる。私のすべてを彼に盗まれてしまった。視線を逸らしたくても逃げられない。か細い声で気づかなかった、と絞り出せば「おれにしてはわかりやすかったと思うが」とさらりと返ってくる。
「好きだよ、ずっと。子供の頃から、きみだけが」
「も、もういいよ! わかったから!」
「おれは言い足りない」
でも、申し訳無さもある、と呟く。
「きみのポケモントレーナーとしての道を奪ってしまった。おれの恋のせいで」
「それは……」
「本当にすまない」
ポケモントレーナーとして生きる彼にとって、その道が絶たれてしまうことは筆舌に尽くしがたいのだろう。わかっていれば見せなかった、と先ほどとは打って変わって、苦しそうな表情と痛みを感じる声で謝罪を繰り返す。
自分を責めるワタルくんに「もういいよ」と声をかけ、彼の腕に手を当てた。
「私自身のせいじゃなくて、コレのせいだってわかったから、もう充分」
「だが……」
「本当に大丈夫! ――もうワタルくんが痛くないのなら、それでいいんだよ、私は」
実際、ワタルくんを責めるために呼び出したのではない。隠されたままなのが嫌だっただけだ。私だけが三人の中で除け者にされるのは寂しい。ただでさえ、二人とは血が繋がっていないのだから。わずかな思い出と、過去の時間が私の信じられる繋がりだ。
「理由も、ワタルくんのことも、知られてよかった。謝ってもらえたし、充分」
「……もっと怒ってもいいんだ、きみは。おれを批難して、嫌いになる権利がある」
「それは無理だよ。ワタルくんのこと、嫌いになんかなれないよ」
彼は一つ大きな勘違いをしている。私は別にポケモントレーナーになりたいわけじゃない。バトルとか、そういうのに向いていないというのは性格上わかっている。見るのは好きだけれど、いざ自分がその立場に立つことは想像できない。だから、ワタルくんのカイリューと遊ばせてもらうだけで充分満足しているのだ。
体質の有無に関わらず、遅かれ早かれ私はこの結論に行き着いていたと思う。幼い頃からワタルくんとイブキちゃんを見てきたのだから。なにより生半可な覚悟でトレーナーを目指すのは、恐れ多い。ちょっと行く道が異なっただけで、結末は変わらない。それにポケモンと一緒に生きる方法は、私が知らないだけでたくさんあるはずだから。
ただ、これで、あの日のエリキテルにようやく「さよなら」を言える。
「だからこの話はおしまい! あ、でももう隠し事は無しだからね! いい?」
「……ああ、わかったよ」
きみには本当に敵わないな、とワタルくんは困ったように眉を下げ、笑った。
❖
じゃあおやすみ、とマンションの階段を数段上ったタイミングで、彼は思い出したかのように言った。
「そういえば、おれの告白に対する返事は?」
「…………えっ?」
「一応、きみに伝えたはずだけど? 好きだって」
段差のせいで、私たちの身長差は埋まっている。同じ目線にある瞳の奥が細くなっているのがわかった。
「もう一度言おうか」
「い、いっ、いいです!」
からかわれているのはわかっている。いつだって私はワタルくんの手のひらの上なのだから。しかし、困った。返事と言われても、急すぎる。彼のことは好きだし、嫌いではない。でもこれは幼なじみとしての彼への気持ちに違いない。――そう、思いたい。
首のうしろでじりじりと潜む予感が囁く。「その感情さえも、一族に囚われたゆえのものだったら?」と。だから私はワタルくんにそういう気持ち≠ヘ抱いていない、はずだ。昔も、今も。胸を張って自分の感情であると言えない限り、向けられた想いには応えられない。
ぐるぐると悩んでいると、彼は返事に迷っていると思ったらしく、肩をすくめながらさらりと言った。
「おれのことが好きなのに、そんなに悩む必要があるか?」
「へぅっ!?」
変な声が出た。
「だって、きみの初恋はおれだろ?」
表情を動かすことなく、当たり前に。とっくに「きみの恋なんて知っている」と言わんばかりだ。限界まで目を見開き、言葉を失う私に彼もさすがに驚いたようだった。
「おっと、まさか無自覚だったとは思わなかった。きみに関して、おれはとことん詰めが甘いようだな」
ふむ、と手を顎に当て考え込む仕草を見ながら、私の脳はフル回転。そしてオーバーヒート。もう考えるのをやめたい。
「それこそ刺青を見せる前から、おれに惚れていただろ? あんな愛らしい恋に気づくなというほうが無理だと思うんだが」
特におれはきみのことが好きだったし。
「い、イブキちゃんのほうが好きだもの!」
苦し紛れに親友の名を口にすれば、彼は意味深に笑うだけ。そういう『好き』じゃないということは、私が一番わかっているから笑うのをやめてほしい。
「おれが修業に行くって言って、泣いていたのに?」
「泣いてない! ワタルくん、もうやだ!」
「けど、嫌い≠カゃないよな」
それを言われると弱い。おっしゃる通り、ワタルくんを嫌いにはなれない。私の中で、彼は特別なのだから。何も言えなくなり、最後の抵抗とばかりに睨みつけていたのだが、それさえもワタルくんに効果はないようだ。「今はそれでいいよ」と甘い囁き声が聞こえてくる。
「これでもう、きみはおれのことを幼なじみ≠ナはなくて男≠ニして認識する。それだけで、今は充分だ」
長い足で音もなく近づき、大きな手が私の頭を撫でた。その行為を拒否できない時点で、すっかり彼にほだされているのだと痛感する。
「おやすみ。――許してくれて、ありがとう」
「……どういたしまして」
ワタルくんは私が部屋に入るまで、ずっと外で待っていた。ドアを閉めてしばらくしてから、カイリューの羽音が響く。彼も帰路についたのだろう。
――なんて、とても、長い夜。ミニリュウのストラップがついた鍵を定位置に戻し、私はようやく大きく息を吐き出すことができたのだった。