あの夜を経たからといって、明確に私とワタルくんの距離が変わることはなかった。強いていうなら、いつもは三人で行く食事が二人きりになったり、メッセージや電話のやりとりが多くなったり……開き直ったワタルくんはこわいな、と他人事のように思う。

そして彼の優しさも変わらない。私の気持ちを優先し幼なじみ≠ニして接してくれている。でもたまに見せる表情はどこか違って、甘さを帯びているような気がして、

――これでもう、きみはおれのことを幼なじみ≠ナはなくて男≠ニして認識するよな。

「うぐっ」
 
つい彼の言葉を思い出して、舌を噛んでしまった。昼食のジャムパンの甘さの奥から、鉄のにおいを感じる。ひりひりとした痛みを誤魔化すように、ステンレスボトルに入れたお茶を流し込んだ。

「……変な顔して、どうしたの?」
 
突然開かれたバックオフィスの扉。やってきたのはカスミさんだった。痛みと羞恥に苛まれていた私を見て、彼女は首を傾げる。

「ちょっと舌を噛んでしまい……」
「あらそうなの? お大事にね」
「ありがとうございます。それでカスミさんはどうされましたか?」
 
尋ねると「ランチ中なら出直すわ」と帰ろうとするので、引き留める。幸い、ここには私しかいない。ちょうど昼食も食べ終わっているし、早めに休憩を切り上げてもいいだろう。
カスミさんは謝罪の言葉を口にしながら、空いた椅子に座る。「たいしたことじゃないのだけれど」と前置きをして、切り出した。

「最近、ワタルさんがハナダのどうくつに来ているみたいで。しかも何度も。だから、あなたがなにか知っていたりしないかな、って訊きたかったの」
「ワタルくんが?」
「ええ。本人に確認をしたのだけれど『個人的なことだから』ってはぐらかされてしまって」
 
プライベートなことが絡むのなら、それ以上の詮索はしない。ただ、自分の街にセキエイのチャンピオンが複数回訪れているという事実は気になるのだろうことが伺えた。だから私に尋ねた。なにかきっかけでもつかめれば、と。あとカスミさんは優しいから、力になりたいと考えているのかもしれない。

「ハナダはあたしの街だしね。それにあのどうくつは普通のどうくつとは違って、いわくつきだから」
 
いわくつき、という単語に引っ掛かったが、そこを突っ込んだところで私にはどうすることもできない。なので、問われたことにのみ素直に首を横に振った。

「ごめんなさい、心当たりがないです」
「そう……。変なこと訊いちゃってごめんね!」
 
今度、お詫びにごちそうするわ、と言い残して、彼女はバトルフィールドへ戻っていった。残された私は先ほどの言葉を反芻する。ワタルくんがいわくつきのどうくつに何回も訪れている。たしかに気になることだ。特に最近まで隠し事をされていた私にとっては「もしかして、またなにかを隠しているんじゃないか」とも考えてしまう。

「ハナダのどうくつか……」

バッグにしまっていた端末を取り出し、検索バーへその名を入力する。もう、隠し事をされるのはこりごりなのだ。





ポケモンを持っていないと不便か? と尋ねられれば、否定はできない。野生ポケモンがいそうな草むらさえも歩くのに警戒しなければいけないし、「なぜポケモンを持っていないの?」という純粋な質問も躱さなければならない。 ああでも、後者はともかく前者について該当しないか。だって私にポケモンは寄ってこない。
だからこうしてちょっとした無理もできた。

「よいしょ、っと」
 
備え付けられていたはしごを下りる。ぎしりと響く古い音に怯えながらも、降りきることができた。つめていた息を吐き出し、ポケットに入れていた地図を広げる。

インターネットの海から手に入れた先人の知恵を導に、私はハナダのどうくつを一人潜っていた。ポケモンの技がなくても進むことのできるルートの研究に、こうして残されているはしご。どれも先に征った誰かのおかげだ。こういう未開の地を切り開くのもトレーナーの醍醐味なのだろう、と顔も知らないどこかの誰かに想いを馳せる。
きっとワタルくんの目的は最奥にいると言われる『強大なポケモン』というやつだろう。

そのポケモンがハナダのどうくつをいわくつき≠ノしている理由らしい。検索サイトで調べるとすぐにそれがヒットした。といっても詳細はわからない。ただ件のポケモンは夜な夜な人を攫うだとか、他のポケモンを複製しているだとか……眉唾な話が多く存在していた。

そんなポケモンがワタルくんの目的になるのは少し意外なところがあるけれど、逆に言えば行き先がわかりやすいともいえる。ただひたすら奥を目指し、歩き続けた。
とはいえ、ただの会社員な私にこの探検はキツいものだったらしく……、最後の水辺を前にして、身体が崩れる。ちょっと休憩しよう。ボディバッグの中から個包装のチョコレートを取り出し、頬張る。疲れに甘さが染みわたった。デボンのお菓子はやっぱり美味しい。

「……?」
 
ふと何かの音を耳が拾った。水音の奥で、強い衝撃音が鳴っている。
もしかして、と閃く。まさに今、ワタルくんがここにいるのでは? そしてバトルをしているのかもしれない。
慌てて準備を整え、水の中に入っていく。(奥へ進むにつれ、足場や橋は無くなり、仕方なく泳ぐしかなくなっていた。万が一を考えて、服の下に水着を着ていてよかった)

なるべく音を立てずに泳いで、向こう岸へたどり着く。音は近くなり、たまに声のようなものも聞こえてくる。やはりというか、その声はワタルくんものだった。影になるような岩の後ろに隠れ、様子を窺う。
カイリューに指示を出す彼と戦う人型のフォルムをしたポケモンは、続けざまに技を放った。それに応じ、カイリューも技を繰り出す。力と力のぶつかる音が鼓膜を焼く。しかし徐々に勝敗が見えてきた。――ワタルくんが敗そうになっている。

「うそ……」
 
あのワタルくんが、敗ける。俄には信じられないが、実際その表情は芳しくなく、カイリューもまた息があがっているように見えた。そう思った瞬間、橙色の身体が地面に堕ちる。ワタルくんの敗けだ。

「……すまないな」
 
先ほどとは打って変わった静寂の中、カイリューへ向けた声だけが聞こえる。ボールに相棒を戻したワタルくんが「また来るよ」と口にした瞬間、彼は消えた。

「ワタルくん!?」
 
あなぬけのヒモを使った様子は無い。その突然の消失に隠れていたことを忘れ、思わず件のポケモンの前へ飛び出す。ワタルくんの居た場所にその痕跡は一欠片も残っていない。背筋を嫌な汗が伝った。呼吸の仕方を思い出せない。

「ワタルくんをどこにやったの!?」
 
あのポケモンは彼に手を翳していた。明らかに、何かをしたということがわかる。叫ぶ私とは裏腹に静かな目をして、こちらを見続けている。紫の色の奥に宿る光は、今までに出会ったどのポケモンよりも異質さを感じた。

『叫ぶな、うるさい』
「!?」
『お前の脳に直接信号を送っている』
 
テレパシー=Bたしか一部のポケモンが使えると聞いたことがある。しかも、かなり特殊なポケモンのみが。目の前の彼(でいいのだろうか)から感じた異質さは、そういうことか、と納得した。

「わ、ワタルくんはどこなの?」
 
再び尋ねると、すんなりと彼は答えた。興味が無いと言わんばかりに、淡々と。

『どうくつの入り口だ。私との勝負を終えたからな』
 
つまり単純に洞窟を出たということか。無事ならそれでいい。ほっと胸を撫で下ろす。変なところへ行ってしまっていないということに、ひどく安堵した。

「ごめんなさい。疑うような真似をしてしまって」
『実際あの男を飛ばしたのは私だ』
「まあ、でしょうね……」
 
きっとテレポート≠フようなものだろう。そうなるとこのポケモンはエスパータイプなのだろうか。言われてみれば、そんな気もしてくる。しかし、同時に疑問もわいてきた。ワタルくんはどうしてこのポケモンとバトルをしていたのだろう。エスパータイプなら、彼の専門ではない。それともドラゴンとの複合タイプなのだろうか。
 
そんな私の思考を読み取ったのか、彼は『少なくとも、私の遺伝子にドラゴンタイプ≠ヘ組み込まれていない』と答えた。
――問いを口にしかけて、飲み込んだ。きっとこれは訊いてはいけないことだろう。彼のあの言葉を額面通りに受け取ると、なんだか『自分は造られた』ように聞こえてしまったのだ。
 
あまり考えないようにしよう。また思考を読み取られては意味が無い。頭を振って、浮かんだ疑問を追い出す。ぴしゃぴしゃと髪についたままの飛沫が飛んだ。彼は舞う水滴を一瞥し、私に向けて手を翳す。ふいとそれが動くと、私の身体は一瞬にして乾いてしまっていた。

「すごい……」
『ポケモンも連れずにやってきたのはお前が初めてだ』
 
彼は表情を変えぬまま私を観察し、さらに続ける。

『なるほど、あの男が言っていたのはお前のことか』
「そ、そうだ! なんでワタルくんはあなたとバトルしていたの? それに、さっきのバトルが初めてってわけでも無さそうだったし……」
 
彼は肯首する。そして『あの男が困ろうと関係ない』と、どうしてワタルくんがここに訪れているのか教えてくれた。
ワタルくんがハナダのどうくつにやってきたのは、ひとえに彼と会うためだったという。本来であれば彼は姿を隠し、トレーナーと会うことをしない。しかし自分に会うためにここへ来たということ、そして並々ならぬ実力を持つということに気づき、現れ出た。それは『ポケモントレーナー』としても、ワタルくんが高みにいる存在であることも関係している。

『私を目にした瞬間、あの男はまず頭を下げた』
 
直接的にワタルくんが何かをしたわけではない。けれど、人として、トレーナーとして、彼にした行いを詫びた。背負わなければいけない罪と償いがあるとわかっていた。――彼は人に造られたポケモン≠セから。
やっぱり、というのが率直な感情だった。

「……ごめんなさい」
『なぜお前が謝る』
「私はトレーナーではないけれど、ポケモンのことは好きだから。それに大切にしたいし……ええと、それで、その……」
 
言葉にできない想いをつらつらと連ねる。最終的にもごもごと口ごもると、彼は初めて表情を崩した。呆れたような顔をして『もういい』と切り捨てられる。

『お前も変わったヤツだな』
「そうでもないと思うけれど……」
 
彼は私の呟きを無視し、話が続く。

『あの男は私に私の自由を保障する約束をし、一つ叶えて欲しいことがあると言った』
「叶えて欲しいこと?」
 
煌めく紫水晶が向けられた。

『お前に刻まれた契りを解いてくれ、とな』
 
瞬間、身体から力が抜ける。へたりと座り込んだ箇所から地面の冷たさが伝わってくる。

「なにそれぇ……馬鹿じゃないの……」
 
気にしないで、と言ったのに。大丈夫だ、と伝えたのに。だからワタルくんは優しいのだ。優しくて、まっすぐで、なんてひどい人。もう隠しごとはやめてほしいと知っているにも関わらず、私に悟られぬように動いている。ひしひしとワタルくんからの愛と謝罪を感じて、胸が痛くなった。
きっとナツメさんに会って、聞いたのだろう。同じくらい強いマーキングであれば、一族の契り≠上書きことができるかもしれないことを。

「なんで言ってくれないの……」
『お前に言ったところで何も変わらないだろう』
「それは、そうだけど……」
 
それとこれとは話が別だ。一人文句を言うが、目の前のポケモンには些末なことなのだろう。同情もフォローもない。

『私に勝てるのなら、その望みを叶えると取引をした』
 
しかもただのバトルではないという。カイリューのステータスを可能な限り低くした、ハンデつき。だから先ほどのワタルくんは敗けていたのだ。

『あの男は強い。それほどのハンデが無ければ釣り合わない』
 
そしてそろそろ危ない、とも言う。たった数回でハンデに慣れ、戦略を組み立てているらしい。日に日にバトルの時間が長くなっているという。さすがワタルくんだ、と称賛するところだろう、本来は。
しかし私は違う。

「絶対負けないで。勝って!」
 
応援するなら目の前の彼だ。絶対に負けないでほしい!

『お前のためにあの男は戦っているのにか?』
「私はとても怒っているので、ワタルくんの味方はしないと決めました!」
 
ワタルくんが私のために何かをしてくれるのは、嬉しい。ちょっと舞い上がるほどに。でも、隠しごとはもうこりごりだ。一族の契りを解くのだというのなら、共にやりたい。

ボディバッグからミニチョコレートをいくつも取り出す。あいにくと私が彼に渡せるのはこれぐらいだ。ミルク、ビター、ウエハースにオレン。積み上がるチョコレートの山に、彼が引いているのを感じる。

「これで一つ、よろしくお願いしたいです。おいしいよ!」
『……変なヤツだな、本当に』
 
じとりとした彼の音に対して「失敬な!」と怒る。今の私は手段を選ばないだけだ。使えるものはなんでも使う。
そういえば、ずっと確認しておきたかったことがあった。

「あなたをなんて呼べばいい?」
 
彼は虚を突かれたように一拍おいて『ミュウツー、と呼ばれていた』と答える。

「そうじゃなくて、あなたの呼ばれたい名前を知りたいな。……きっとそう呼ばれていたときにあまりいい思い出はないと思うから」
 
でないと、そんなに苦しい音は出ないはずだ。だから、彼が彼自身で選んだ、呼ばれたい名を聞きたかったのだけれど――

「そ、そんなに悩まなくても……」
 
悶々と暗いオーラを出す彼に慌てて助言を出すが、黙りこくったままだ。

「じゃ、じゃあ、どうくつにいるから『どうくつ君』とか、」
『ミュウツーでいい』
 
ばっさりと切り捨てられ、言葉が出てこなくなる。そんなに悪かったかな……こうチャーミングでキャッチーないい感じだと思うのだけれど……。
彼――ミュウツーはいじける私を横目にチョコレートの山から一つ取り出し、ぴりりと包装を破く。警戒しつつ匂いを嗅いでいるので「おいしいよ。中にね、オレンのソースが入っているの」と伝えた。
ミュウツーの口に、チョコレートが放り込まれる。

『……まあ、悪くない味だ』
「よかった」
 
少しだけ表情を緩めた彼を見て、私もへにゃりと笑った。


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