いくら私とイブキちゃんは仲が良いとはいえ、彼女もまたこのフスベに名だたる一族の一員。
いつだって私とばかりいられるわけじゃない。歴史のお勉強や、行儀作法のお勉強。やることは山積みだ。彼女のお爺さまのご厚意で、私もたまに参加させていただくことがあるけれど、一族だけにしか許されない時間もある。
そんなとき、私はだいたい一人で過ごすことが多い。
フスベに一族以外の同年代な子供がいないわけではないけれど、イブキちゃんやワタルくんと仲のいい私はどうも他の子から遠巻きにされがちだ。外の人間からしたら、あの人たちは恐れ多いのだろうと思う。私も、父がイブキちゃんのお父さんと仲良くなければ、彼らと同じ態度を取っていた。だから一人でいることは「仕方ないこと」なのだ。現に、イブキちゃんとあの子たちのどちらを優先するかと問われたら、間髪入れずに私はイブキちゃんを選ぶ。
今日は一日、イブキちゃんはお勉強の日だ。私は一人、山へ行くことにした。本来、ポケモンを持っていないのに山へ入ることは危険なことである。しかし、目的地は入り口近くにある開けた場所であり、いつもイブキちゃんと一緒に遊びに行っていた。そんな理由から「大丈夫だろう」と子供特有の楽観的な考えで、私は今日の遊び場所へ向かう。
幸運なことに野生ポケモンに襲われることもなく、目的地へ到着することができた。
木漏れ日があたり、静かで『こおりのぬけみち』」から流れる冷たい空気が気持ちいい。今日はここで本でも読もうと、バッグから最近買ってもらった児童書を取り出そうとして、気づく。
「……だれかいるの?」
視界にその姿はない。でもなんとなく、人の気配を感じた。もう一度呼びかけてみる。
しかし、私の声が響くだけだ。
そちらが隠れるというなら見つけてやろう。無駄な使命に燃え、一番隠れやすい巨木の裏を覗き込む。案の定、そこには人がいた。しかも私のよく知っている人が。
「ワタルくん?」
つい名前をもらせば彼はバツの悪そうな表情を浮かべ、顔を背ける。
てっきりワタルくんもイブキちゃんと同じようにお勉強の日だと思ったのに。
「なんでここにいるの?」
素直に疑問を口にすれば、彼は依然としてこちらを見ずに答えた。
「……イブキにここを教えたのはおれだ」
「そうじゃなくて。お勉強の日じゃないの?」
「今日はイブキだけだよ。―というかきみこそ、ポケモン無しでここに来るのは危ないのに」
はあ、とため息を吐き、彼は前髪を鬱陶しそうにかきあげる。
額にはじわりと汗が滲んでいた。
その姿に「あれ?」と違和感を抱く。今日は汗をかくほどの気温ではない。そもそもここは涼しいし、たとえ来る間に汗をかいたとしても、とっくに引いてしまうだろう。じっと彼を観察してみると、どことなく顔色も悪いような――
「腕、けがしたの?」
途端にワタルくんが目を丸くする。まるでポッポが豆鉄砲を食らったかのような顔だ。
しかし、すぐさま、いつものなんともないような表情へ戻る。どうしてそう思ったんだ? と尋ねてきたので、隠すつもりもないため素直に答えた。
「だってさっきからおさえているから。左腕」
私はそう言って、彼の二の腕を指差す。その行為はワタルくん自身も無意識だったのか、指摘した箇所に目を移した。認識したのち、ゆっくりと右の手のひらを外す。
「……怪我じゃない」
「でも痛いんだ?」
ワタルくんは視線を彷徨わせたのち、小さな声で「少しだけ」と答えた。
それは嘘だろう。だって、こんな人気のない場所で痛みに耐えていたのだ。少しだけなわけがない。それにワタルくんの性格上、そういう顔を見せたくないはず。だからここを選んだ。
痛いときの一人は辛いし、寂しい。だというのに、ワタルくんは助けを求めず、耐えようとしている。
――なんだか、それはとてもいやだ。一族の人に、イブキちゃんに苦しむ顔を見せたくないというのなら仕方ないのかもしれない。けれど、私にはどれもあてはまらない。だから、痛いときには痛いと、教えてほしい。そんなわがままが生まれる。
彼の隣へ腰を下ろした。そのまま左腕の患部を服の上から、外されたワタルくんの手の代わりに押さえる。あまり力を入れず、触れるより少しだけ強い程度に。
「あのね、本当に効果があるんだよ。こうやって手をあてているだけで、痛みって落ち着くんだって」
「…………」
「だから手当て≠チていうんだって。お母さんがおしえてくれたの」
あとね、痛いときにはちゃんと痛いって言わなくちゃだめだよ。
ワタルくんは私の話をじっと聞いている。振りほどかれなかったため、そのままずっと彼の痛む箇所に手を当てていた。
しばらくそうしていると、そのうちぽつりと彼は尋ねてくる。
「……おれのことが嫌いじゃないのか?」
「きらいじゃないよ。いやなだけ」
「同じじゃないか」
「イブキちゃんに意地悪するワタルくんはいや。でも、意地悪しないワタルくんはいやじゃないよ」
言葉遊びだ、と彼は不満げに呟いた。もっとはっきり言葉にしろ、とも。
「きらいじゃないよ。ワタルくんのこと」
「……じゃあ好き?」
「すき……? うん、すきだよ。イブキちゃんにはまけるけど」
「きみはイブキのことばっかりだな」
苦笑するワタルくんの顔色はさきほどより、よくなっている。痛みの波が引いたのだろう。少しでも自分の行動がプラスに働いているのならよかった。
「あのね、ワタルくん」
「なんだ?」
「すきとかきらいじゃなくて、痛い思いしている人のことはたすけなくちゃでしょ? 本当は痛くなる前に、だけど……。でももし、私がワタルくんとすごくケンカしていたとしても、おなじことをしたよ」
私は押さえる力を少しだけ強くして、彼に訊く。ずっと不安に思っていたことを。
「痛いのはちゃんとおさまるの?」
怪我をしているわけではないのなら、どこかにぶつけたりとかしたのだと考えたのだ。ワタルくんは、わざわざ嘘をつくタイプでは無い。だから本当に怪我をしていないのだろう。
でも、痛みは続いている。それは不安で怖いことだ。しかし、人にはなるべく隠したいそれを、私は大人へ伝えることはできない。彼のためにも。
ワタルくんの言葉で確認したい。大丈夫であることを、痛みはもう襲ってこないことを。
「おさまるよ。大丈夫」
ふっと彼は微笑んで、自由な右のてのひらで私の頭を撫でる。まるで不安を晴らすかのような優しくてあたたかいそれらに、胸がきゅうと鳴った。
「……ならよかった。でもがまんしちゃだめなんだからね」
「その時はまた、きみがこうして手当て≠オてよ」
お願い、と彼は囁いてくる。その声が彼らしくない、甘えてくるような音だったものだから、私は少しお姉さんになった気持ちを抱いてしまった。
「いいよ。特別だからね」
「ありがとう」
私が頷いたのを確認すると、ワタルくんは嬉しそうに頬を染める。同時に、彼の瞳の奥が細くなった。いつもは恐怖を覚えるのだが、今日のそれに冷たい光も、凍えるような鋭さもない。木漏れ日のようなぬくもりだけが宿っている。私の胸はまたきゅうと音を立てた。なんだか自分の感情がワタルくんに盗まれてしまったような気さえする。彼にふりまわされているような、そんな錯覚を覚える。
その後、結局私たちは二人きりで過ごした。彼のハクリューを見せてもらったり、触らせてもらったり―野生ポケモンとのバトルも間近で見せてくれるという大サービスもあった。
イブキちゃんとのバトルは彼女への稽古のようなものもあるせいか、いつも表情が固い。じっと睨んで、イブキちゃんの一挙一動を観察している。
しかし、今日のワタルくんは、くるくると表情が変わっているように見えた。楽しいんだな、とわかるほどに。相手はハクリューよりも大きくて、強そうに見えるポケモンなのに、ワタルくんは相手に一撃も与える暇なく倒しきってしまった。
その勇ましい横顔に、また胸がきゅうと鳴った。
「バトルすきなんだね」
その音を隠すように私は言う。
「好きだよ」
高揚したまま彼は答える。私の隣に音を立てて座り「でも対人戦はもっと好き」とも。
「だから早くきみともバトルしたい。お母様の調子、だいぶよくなったんだろう?」
「うん!」
最近、目に見えて母の調子はよくなってきた。よく動くようになってきたし、なにより笑顔が増えたのが嬉しい。フスベでの療養は成功といえるだろう。お医者さんからも、診察の度に経過良好だと太鼓判を貰っている。もうすぐ普通と変わらない生活を送れるとも言われた。
つまりそれは、私が『自分のポケモン』と出会う日も近いということになる。実際、両親がそろそろ私にもポケモンを、と話しているのを耳にしていた。
「フスベでゲットするならやっぱりドラゴンタイプかな?」
「そうしたらおれが育て方を教えるよ」
「ワタルくんみたいには、うまくいかないもん」
彼のハクリューに目を向ける。この子はもうすぐカイリューに進化するともっぱらの噂だ。
ワタルくんは大人顔負けの実力を持っている。実際、ハクリュー一匹で大人たちのカイリューを倒してしまうことも少なくない。彼は今の一族の中でもかなり濃く血を継いでいるらしく、いずれは長になると、すでに決められているとのことだ。私にはいまいちわからないけれど。
そんな凄腕トレーナーからの指導なんて、厳しくてしんどいものになるに違いない。
だからドラゴンタイプ以外のポケモンがいい。そうすればワタルくんのご指導からは逃れられるはずだ。
「やっぱりかわいいポケモンがいいな」
「カイリューたちだって愛嬌のある顔をしているのに」
「そういうかわいさじゃなくてさ――わっ!」
突如、ハクリューが鳴き声をあげながら、私の身体に巻きついてきた。その力は強い。
「わ、ワタルくん!」
慌てて彼に助けを求めるが、彼は笑うだけだ。
「嫉妬しているんだよ。こいつもきみを気に入っているから。かわいくないって言われて拗ねているんだ」
「か、かわいくないとは言っていな――わぁ!」
足が縺れ、地面に倒れる。それでもハクリューは私を解放しないし、ワタルくんは笑い続けている。何度、彼の名を叫んでもお構いなしだ。
「もうぜったいにワタルくんからは、ポケモン教わらない!」
「今の状況でそれを言うなんて勇者だな。ハクリュー、もう彼女はお前と遊んでくれないってさ。残念だなぁ」
その言葉を聞いて、「やだやだ!」と言わんばかりにハクリューはさらに巻き付きを強める。絶妙に苦しくない力加減なのが腹立つ! 絶対にワタルくんの入れ知恵だ!
「ワタルくん! たすけて!」
「――最初からそう言えばいいのに」
そのへんにしておけ、と彼が声をかければ、すんなりとハクリューは私から離れた。ボールに入れられる直前に、名残惜しそうな目を向けられていたのは見なかったことにする。
「……おそい」
「ごめん。じゃれあっているきみたちが、かわいくて」
ワタルくんは笑いながら、私を立ち上がらせた。そして服の汚れを払って、自然な動作で手を繋ぐ。
「帰ろうか。暗くなってくるし」
「手……」
「迷子になったら困るから。さ、行こう」
手を引かれ、歩き出す。少し先を行く大きな背中に、また私の胸はきゅうと鳴った。
やっぱり、ワタルくんに感情が盗まれてしまったみたい。じゃれついていたせいなのか、はたまた違う理由なのかわからないが――心臓がどきどきと音を立てる。
そんなことを思いながら、私たちは家路についた。