あの日以降、イブキちゃんがお勉強の時はワタルくんと一緒によくいるようになった。両親が「ワタルくんがいるなら安心だ」と、彼へ全幅の信頼を置いているせいもある。一人でいるより、ワタルくんにお世話になりなさいということなのだろう。

本日もいつものように、私はワタルくんの元へ向かう。毎度律儀に彼と一緒にいる必要はないのだけれど、目の前で見られるポケモンバトルは魅力的だった。
それにこの前、ハクリューが進化したらしい。あいにくと私はまだお目にかかってはいないのだけれど、それはもう立派なカイリューになったそうだ。今日ならきっと見せてくれるかもしれない。ワタルくんは二人きりのとき限定で、私にとても甘い。きっとイブキちゃんが見たら、びっくりして倒れてしまうかもしれないほどに。
 
昨日、彼の屋敷の前で待ち合わせを、と約束をしていた。すでにワタルくんは待っているようで、特徴的な赤い髪の毛が見える。急がなければ、と走ろうとしてふと気づいた。――他の、知らない人がいる。

お屋敷の大きな門の前。彼の隣には件のカイリューと、一人の男性。その人はカイリューとまじまじと見つめ、感嘆のため息をもらす。フスベにおいて、ワタルくんへ話しかけるような大人は限られている。彼のそばによくいる私は必然的にその顔は覚えてしまっていた。しかし、今、彼の目の前にいる男性は記憶の中のそれらへとは当てはまらない。つまり、外の人ということになる。

どうしよう、話しかけてもいいのだろうか。頼みのワタルくんは、後ろから近づく私に気づかない。いつもなら、背中に目があるかのようにすぐさま振り向くというのに。そして優しい笑顔で「おいで」と手招いてくれる。でも全然、その様子は見せてくれない。結局私は少し距離を取って、二人の会話が終わるのを待つことにした。

「さすがワタル様。このように立派なカイリューを育てあげるなんて」
「ありがとうございます」
「これならいつでもりゅうせいのたき≠ヨ修行に来ていただいて問題ないですよ!」
 
え、と声をあげそうになった。修行へ行く? ワタルくんが? 
りゅうせいのたきというのがどこだかはわからないが、少なくともカントーやジョウトにある地名では無い。ということは、他の地方の地名だろう。つまり、遠くへ行くということだ。ここではない、どこかへワタルくんは行ってしまう。
ひやりとした寒気が背筋を舐める。次第にそれらはまとわりついてきて、身体が震えた。

「ええ、いずれは」
 
耳の奥で「いやだ」と誰かが叫ぶ。
ワタルくんの声を聞いて、衝動的に私は駆けた。途端に彼は振り返る。口が私の名を紡ぐ前に、代わりにこちらが声をあげた。

「ワタルくん! あ、あのね、えっと……」
 
衝動的に飛び出してしまったけれど、ここからどうしていいかわからない。しどろもどろになりながら、視線を彷徨わせているとワタルくんは私に近づき、手を取った。顔を覗き込んで、優しい声で囁く。助けをいれるように。

「もしかして、イブキがおれを呼んでいたりする?」
「そ、そう、なの。イブキちゃんがよんでいて……」
「そうか。ありがとう」
 
ワタルくんは私の頭を撫で、目の前の男性に「すみません、修行の話はまた後日。当主を含めてお願いします」と頭を下げた。

「カイリュー」
 
佇む相棒に声をかけると、カイリューは頷いて姿勢を低くする。ワタルくんは私を抱えて、その背に乗せた。そして自分もそこへまたがる。

「いつもの場所でいいな?」
「う、うん」
 
羽音は響き、浮遊感が襲う。思わずワタルくんの服にしがみつくと、大丈夫と、優しい声が響く。カイリューが私とワタルくんを乗せ、空を飛んだ。地上の男性から聞こえる「おお!」という感嘆の声が小さくなっていく。

ポケモンに乗って空を飛ぶのは初めてだ。近くなった空と遠くなる地面、頬を撫でる風。
どれも初めての体験で、目の前がきらきらと輝く。ほんの少しの飛行だとはいえ、山へ着く頃には、先ほどの感じた不安な気持ちはとっくに去っていた。
おなじみとなったいつもの広場。ワタルくんは颯爽と背から飛び降りて、私を優しく地面へ降ろす。

「カイリュー、すごいね!」
 
思わず大きな夕陽色の身体に抱きつくと、カイリューは優しい力で抱きしめ返してくれた。そのまま私を抱え、くるくると回る。その様子を見て、ワタルくんが「妬けるなぁ」と笑う。

「それで、なにかあったのか? きみは嘘までついて自分を優先するタイプじゃないのに」
首を傾げ、わざとらしく尋ねてくる彼に先ほどまでの高揚感が波のように引いていくのがわかった。いつもなら心地よいと
感じる山のさざめきも、いまは胸をざわつかせる要因になっている。

「えっと……」
 
その時の言葉は拙いものだったに違いない。けれど、彼はずっと静かに聞いてくれた。

「――つまり、おれが遠くへ修行に行くって聞いて、寂しくなったんだ?」
「だって、三人でずっといられると思っていたんだもん」
 
そう、私は三人で―イブキちゃんとワタルくんと私で――ずっと一緒にいられると信じていたのだ。今までもそうしてきたように、これからも。
私の世界からワタルくんがいなくなるなんて考えられない。それがたとえ、明日とかそういう近い未来ではなくともその日≠ェ来ることに、ひどく恐怖を覚えてしまう。想像だけで涙がこぼれてきた。
ワタルくんは「そう」と一言だけ答え、私の目尻を親指で拭う。

「おれと一緒にいたい?」
 
頷いた。正しくは三人≠セけれど、しゃくりあげて泣く私の喉からは言葉が出てこない。

「じゃあ、いよう」
「……え?」
「一緒に、流星の滝へ行こう。きみはおれの修行へついてくればいい」
 
まるで「ちょっとそこまで歩こうか」なんて気軽さで、彼は言う。

「残念ながら三人で一緒に、というのは難しいけれど、そのうちイブキも来ることは決まっている。だから、おれたちだけで先に行って待っていればいい」
「で、でも……」
「じいさんにはおれからお願いしてみるよ。じいさんもきみをかわいがっているから、そんなに渋い顔はしないんじゃないかな。むしろ伝統を継ぐ孫が増えたって喜ぶかも」
 
たしかにお爺さまにはよくしてもらっている。可愛がってもらっているという自覚もある。けれどいいのだろうか。私は彼らと同じ血が流れていない。
つい、そのことを指摘すれば「わかっているよ。誰よりもね」といまいちわからない返答をされた。私を置いていくかのように、嬉々として彼は言葉を続ける。

「りゅうせいのたきはホウエンにあるんだ。そうだ、きみのポケモンもそこで見つければいい。チルットはどうかな。進化すればチルタリスになるし、空も飛べる」
「チルットって、あの青いとりポケモンの?」
「そう。ふわふわの綿があるポケモンだ」
 
一瞬にして、私の頭は青い小鳥のポケモンに支配された。あのポケモンをゲットできるなら、彼についていくのもいいかもしれない。なにより、そうしたら三人でまたいられる。イブキちゃんも修行に来るのなら、私一人、フスベに置いて行かれる心配もない。ワタルくんのそばにも、ずっといられるのだ。それはなんて、胸の弾むことだろうか。

「……行きたい。一緒に!」
「ああ、一緒に行こう。修行もきっときみならこなせるはずだ」
 
きみとおれは似ているから、とワタルくんは目の奥を細くさせながら、私を見つめ微笑んだ。
――しかし、そう簡単にはいかないのが現実である。
その日の夕食時、両親へ伝えるつもりだった。ワタルくんと一緒に、修行に行きたいと。
だが私の口から出てきたのは、違う言葉だった。

「……今、なんて言ったの?」
「来月の半ばにね、カロス地方へ引っ越すことになったんだ」
「ど、どうして?」
「お父さんの転勤が決まったからよ」
 
父はコガネシティの会社で働いている。その会社で今度カロス地方へ支社を作ることになったらしい。その支社長へ父が抜擢されたという。

「お母さんの身体もだいぶよくなってきたし、いい機会かなと思ってな」
「で、でも、私とお母さんはフスベにいてもいいんじゃない? また調子悪くなるかもだよ?」
「あら、もうすっかり元気よ。お医者様からも太鼓判をもらったしね」
 
カロスはどんなところか、と会話に花を咲かせる両親を見て、確信した。もう二人の中では家族全員で引っ越すことは決定事項であると。だから、みんな揃ってフスベにやってきたんじゃないか、と思い出す。

いつもの私なら、寂しいと思いながらもカロスへの引っ越しを受け入れていただろう。でも、昼間にあんな話をワタルくんとしたばかりだ。気持ちも心もついていけない。しかし、ここに残りたいと言うこともできない。そんなの、両親を悩ませることに決まっているからだ。
仕方のないこと、と飲み下せば飲み下すほど、お腹の中が重くなっていく。
ぐるぐると渦巻く感情のせいで、すっかり食欲が失せた私は「ごめんなさい。ごちそうさまでした」と呟き、自室へ戻った。暗い部屋で電気もつけず、布団へ横になる。遠くから聞こえるホーホーの鳴き声を耳にしながら、私は少し泣いた。

――その涙を拭ってくれる人は、ここにはいないというのに。


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