翌日、私は引っ越すことを二人に伝えた。案の定、イブキちゃんは顔を赤くして泣きはじめ、それをワタルくんが当たり前のように慰める。

「ワタルくん、ごめんね」
 
イブキちゃんが泣き疲れて眠ってしまったころ、一緒に行かれなくて、と小さな声で謝る。それを彼はいつもと変わらない表情で答えた。

「仕方ないさ。でも寂しくなるな」
「うん。私も」
 
眉を下げて、力の抜けた笑みで同意する。ワタルくんはイブキちゃんの背を擦るのをやめて、代わりに私の頭を撫でた。その手のあたたかさにつられ、視界が歪む。静かに涙を落とす私をワタルくんは静かに見つめ、泣き止むまでずっと頭を撫でていた。

そこからはあっという間だったように思う。一族のみなさんへは両親から伝えられたらしく、道ですれ違う度に「元気でね」と微笑まれた。加えて、引っ越しまで日もあまりないということもあり、我が家は荷造りに大忙し。比例して、イブキちゃんたちにも会うことが少なくなっていく。会えない寂しさは慌ただしさで薄れていき、気がつけば引っ越しは明日に迫っていた。

がらんとした自室。ほとんど新居に送ってしまっていることもあり、残っているのは少しの荷物と布団だけだ。
どんな名残惜しくとも最後の夜はやってくる。とろりとした睡魔に身を委ねながら、布団へ寝転がると、あくびが漏れた。昼間は一族のお屋敷でお別れ会が催されたので、疲れてしまったのだ。
会の最中、イブキちゃんはずっと私のそばから離れず「手紙を書くから、絶対に返しなさいよ!」とことあるごとに頬を赤くし、涙をにじませていた。それがちょっぴり嬉しかったのは、私だけの秘密。

一方、ワタルくんは最初のほうで少し喋っただけで、あとはずっと大人たちに囲まれていたように思う。最後なのに、あまりお話ができなかった。寂しいな、とひっそりとした感情が心に浸みる。

「ふあ……」

先ほどよりも深くて大きいあくび。まぶたが落ちてくる。もう寝よう。
電気を消して、布団に潜り込む。目を瞑って、うとうととした時だった。こつり、と音が響いたのは。

「……?」

最初は気のせいかと思ったのだが、その音はずっと続いている。耳を澄ませば、どこかで私の名を呼ぶ声も聞こえてきた。もそもそと布団から這い出て、窓へ向かう。カーテンを開けた瞬間、眠気は吹き飛んだ。

「ワタルくん!?」
 
慌てて窓の錠を外す。夜の匂いが風によって運ばれてきた。思わず叫んだ私をワタルくんは「しーっ」と口元に指を当て黙らせたあと、いつものように微笑む。

「よかった。気づいてくれて」
「気づいてくれて、って……こんな時間に、どうして」
 
家は平屋であり、私の部屋は庭に面しているから誰かに見られる心配もない。でも、こんな遅くに出歩くなんて、ワタルくんほどの人でも怒られてしまうに違いない。そして、そういう危険を彼は犯すタイプではないはずだ。それなのに、ワタルくんは私の目の前にいる。
疑問符を浮かべる私に、彼はこそりと囁いた。

「少しだけ、悪い子にならないか?」
「え?」
「おれと一緒に、悪い子になろう」
 
さあ、と差し出される手。それを取るか悩んでいると、彼はさらに追い打ちをかけてくる。

「早くしないと大人に見つかる」
月明かりがワタルくんの顔を照らした。奥の方が細くなり鋭くなった瞳が私を見つめ、いつもより低い声が誘う。

「ほら、おいで」

声につられるかのように身を乗り出し、彼の手を取った。もう寝る間際だったせいもあり、裸足で降り立った地面の冷たさは直に肌へと刺さる。パジャマ姿の私を見て、彼は自分の上着を私の肩にかけた。そして、どこからともなく取り出したサンダルを履くように促してくる。ミニリュウ柄のそれは私の足にぴったりで、なんとなく新しいもののように感じた。

準備が整ったのを確認し、彼はボールからカイリューを喚ぶ。カイリューは身体を震わせたのち、こちらを見ると大きな身体を低くして背を向けた。

「行こうか」
「行くってどこへ?」
「わかっているくせに」
 
繋がれた手はそのままに、二人でカイリューの背にまたがった。私が前で、彼が後ろ。ワタルくんが声をかけると、カイリューは静かに空へと飛ぶ。この前とは違う静かな飛行だ。目に入った丸い月を指さして「きれいだね」と言えば、ワタルくんは「……そうだな」と頷いた。

「ピッピのダンスが見られるかな」
「このまま、おつきみやままで行こうか?」
「だめだよ。おこられるもの」
「バレなきゃしていないのと同じさ。それに今のおれたちは『悪い子』なんだから、とことんやらないとな」
 
弾むような軽口を言っているけれど、本心ではないのだろう。進路はまっすぐ、いつもの山の広場だ。
ようやく着いたそこは普段以上に静かで、ホーホーの鳴き声さえも遠くにある。ポケモンの気配は感じられない。月明かりが差し込んで、そこまで暗さを感じないから寝床にはあまり向かないのだろう。もっと山奥の方にポケモンたちはいるのかもしれない。

カイリューの背から飛び降りたワタルくんは、私を丁寧に地面へいざなう。カイリューは身体を起こし、私たちから少し離れると、その身を横たえ、休んだ。
なぜここに連れてきたのだろう。そう尋ねたいが、なんだか口を開くような雰囲気では無い。ワタルくんも黙ったままだ。

なんとなく手持ち無沙汰になってしまった私は改めて広場を見回す。初めて来たのはイブキちゃんとだったけれど、回数で言えばワタルくんが多い。二人でいるときはだいたいここで過ごしていた。
あの時、痛みに耐えるワタルくんを見つけなかったら、ここに深い思い入れは感じなかっただろう。その日のことは今でもしっかりと思い出せる。

「……もういたくないの?」
 
問いは思わず口から漏れる。何を示しているか、彼はすぐに合点がいったようで「ああ」と自身の腕に触れた。

「痛くないよ」
「よかった。もう私は手当て≠ナきないものね」
 
そう言うとワタルくんは虚を突かれたような表情を浮かべ、目を伏せる。それは何かを悩んでいるように見えた。どうかしたのか、と声をかければ彼は私の名を呼んだ。そして視線でこちらの身体を縛る。動けなくなるような、その瞳は私の苦手な鋭くて冷たい色をしていた。

「まさか先にきみがいなくなるなんて、思わなかった」
 
ひどく静かな声だ。低くて、怖い。

「……私だって、いたかったもん」
「イブキと?」
「ワタルくんとも」
 
イブキちゃんはもちろんだけど、ワタルくんとも一緒にいたかった。彼は私のもう一人の幼なじみで、友達で、大切な人だ。

「ワタルくんとも、一緒にいたかったよ。りゅうせいのたき、楽しみにしていたんだから」
「おれもだよ」
 
ワタルくんは一歩、また一歩と私に近づく。明るい月の下、いつになく彼の顔がよく見えた。その暗い灰色の焔に燃える瞳も。
――ああ、これは竜の目だったんだ。そんなことを唐突に感じた。いつだかにお爺さまに見せてもらった歴史書に描かれていた、かつていたとされるドラゴンたちの瞳。それにそっくりだ。たまに見せるワタルくんのこの目は、竜のそれにひどく似ている。ようやく理解できた違和感にすっきりとした気持ちと、どうにかして逃れたい気持ちが混ざり合う。しかし、それよりも不安が勝った。

「わ、ワタルくん?」
 
震える声で名を紡ぐ。このままだと、彼が遠くへ行ってしまうような気がしたのだ。引っ越してしまう私ではなく、フスベにずっといるはずのワタルくんが。ここにいて、ワタルくんのままでいて、と願いながら彼の名を呼んだ。しかし、その瞳が動くことはない。厳しくも温かい瞳は、戻ってこない。

「あの時の理由を教えるよ」
「え?」
「心配してくれているのに、教えられないのはフェアじゃないから」
 
そのほうが、きみも心残りがなくなるだろう? と彼は言う。
正直なところ、彼がもう痛みを感じていないのならそれでいいのだが、そのときの私は雰囲気にのまれており、つい頷いてしまったのだ。それを確認し、ワタルくんは自分の袖口を捲り上げる。きっちりと手首まで隠していた長袖を、二の腕まで露出させた。

「これが理由」
 
子供にしては筋肉の乗ったそこに走るのは絵のような、なにか。肌に刻まれているそれに、息をのんだ。くらりと視界が揺れる。頭と身体、そして心の奥を鷲づかみにされたような衝撃に襲われる。私のものではなくなる感覚。盗まれた、と本能で理解した。
同時に噛まれるような感覚も襲ってくる。首の裏、いわゆるうなじ部分に痛みが走った。

思わずそこに触れたが、もちろん血なんて出ていない。仮にポケモンが襲ってきたのなら、ワタルくんが気づくはずだ。しかし、そんな素振りは見せず、言葉を続けている。

「刺青が彫ってあるんだ。おれの身体には」
「いれ、ずみ」
「そう。皮膚に直接刻む。まだ腕にしかないけれど、これから徐々に身体中へ。あの日、ちょうどその一片を入れたときで、たまたまそれがひどく痛んで」
 
このあたり、と指で円を描く。

「だから、きみに手当て≠オてもらえて……すごく嬉しかった」
「ど、どういたしまして?」
 
いまいちどう答えていいかわからなくて、私は曖昧な返事をしてしまった。別に特別なことをしたつもりはないからだ。そこまで感謝されるほどのことでもない。

「うん、きみはそういう子だよな」

ワタルくんは袖を元に戻しながら呟く。そして「そろそろ戻ろうか」と微笑んだ。
行きと同じようにカイリューの背に乗って、私は部屋へ送り届けられた。窓から部屋へと入りこむ。忘れないようにと上着とサンダルを返したところ、受け取ってくれたのは上着だけだった。

「サンダル、やるよ。もともときみに贈るつもりだったんだ。カロスへ持っていってくれ」
「……ありがとう」
「どういたしまして」
 
ワタルくんは私の頭を撫でる。すっかりお馴染みになったその行為も、これで終わりかと思うと、やっぱり寂しさが募ってきた。きゅうと締め付けられる胸に気づかないふりをする。

「今夜のことはおれたちだけの秘密だ」
「うん」
「あの刺青のことも」
「わかっているよ」
 
あれは一族に関係するものなのだと、さすがに私にも察することはできる。あまり口外しないほうがいいことも。

「――それと、忘れないでいてほしい」

頭を撫でていた手が頬へ移る。優しく触れるそれに、また胸がきゅうと疼く。どきどきと心臓の音が耳の奥で響いた。

「おれのことも、この夜のことも、忘れないで。そして、必ず、会いに行く。きみの元へ」
「イブキちゃんも一緒?」
「……こういうときまでイブキ優先か。まあ、らしいと言えばらしいか」
 
苦笑するワタルくんは大きく息を吐いて、名残惜しそうに私から離れる。

「おやすみ」
 
そのときの声を私はいまだに忘れることができない。とても甘くて、切なくて、胸が締めつけられるような色を含んだ、あの声を。
そして思い出すたびに、もう一つ脳裏に浮かぶものがある。彼の瞳だ。結局、別れる最後まで、彼の瞳は竜のそれを満たしたままだったのだ。
 
あの瞳は、私にずっと刻まれている。 


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