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「忘れたほうがよい」

久しぶりに訪れたコギトさんの庵で彼女に言われた言葉は、ズンと私の胸の奥に響いた。
途端に出されたお茶の香りが重く、纏わりついてくる。なんて返せばいいんだろう。探しても探しても言葉も反論も見つからなくて。私はただむやみに瞳を彷徨わせることしかできなかった。
忘れたほうがいい。その一言が誰を指しているかなんて、確認しなくてもわかる。

「あやつはあれから、一度もここには来ておらん。これからも来ることなぞ、無いだろう」
「でも……」
「でも≠熈だって≠烽ネい。――そのことは、おまえが一番わかっているじゃろうて」
 
コギトさんは静かにお茶を飲んだ。私も倣って白磁の陶器に口をつける。くちびると舌にふれる琥珀色のお茶は、とても熱い。

テルくんがヒスイ地方に来たこと、キング・クイーンたちの暴走、そしてあの空の異変。その元凶がウォロくんであったことを知ったのは、全てが終わった後だった。彼が、去ったあと。

ギンナンさんから呼び出された私は「他言無用」と釘を刺されつつも、真実を教えてもらった。その頃にはウォロくんの天幕はすでにもぬけの殻で、おそらくここには戻ってこないだろうことも窺えた。他のイチョウ商会の仲間たちには「故郷へ帰った」と伝える予定らしい。
 
けれど私は特別に教えてもらえた。異変のときにいろいろとウォロくんと動いていたこともあって、他に事情を知らないかギンガ団の団長さんが知りたがっているのが理由。ギンナンさんは包み隠さず裏事情まで私に告げ、そのうえで「なにか知らないか」と尋ねてきた。それに私は首を横に振ることしかできなかった。本当になにも知らなかったから。

ウォロくんの天幕も一応確認させてもらったけれど、収穫は無し。今思えば、あの私物の少なさは来たるこの日に向けていたのかもしれない。がらんとした天幕は否応が無しにそれを突きつけていた。

私への追及はしばらく続いたけれど、いまはそれもない。私から手掛かりは見つからないと結論が出たのだろう。だからようやく、こうしてコギトさんの元に行くことができた。ウォロくんがどこに行ってしまったのか、もしかしたら彼女なら知っていると思ったから。

しかし、その当てもはずれた。落ち込む私を見かねて、コギトさんが淹れてくれたお茶なのに、なんだか味がしない。

「そもそも会ってどうするのじゃ」
 
……どうしたいんだろう、私は。ただ、これでウォロくんとさよならになるのは、いやだ。ウォロくんがいけないことをしてしまったのはわかる。それで被害を被った人もポケモンもいることを知っている。本当はこのまま別れて、忘れてしまったほうがいいに決まっている。――決まっているのに、私はまた彼に会いたい。そう願ってしまう。
コギトさんは手にしていた白磁の陶器を置く。黙りこくる私に向けて、言った。

「時には傷つくことも必要か」
「…………」
「ただでさえ、短い生じゃからな。後悔するでないぞ」
 
冷める前に飲んでおけ、と勧められ、先程よりもぬるくなったお茶に口をつける。少しだけ、甘い味がした。




コギトさんの庵を出てからも、なんだか気持ちが落ち込んでしまって仕方ない。少し寄り道をしていこうかな。ぼんやりと……そうだ、海でも見よう。
 
しかし、群青の海岸に着くころにはだいぶ陽も傾いてた。少しの寄り道の予定だったけれど、真夜中に帰ることになるかもしれない。ギンナンさんに注意されてしまうかも。ただでさえ、ギンガ団の取り調べで心配かけてしまっているし。
 
とはいえせっかく来たのだから、海を見て帰らないと。私は浜辺のほうに向かうことにした。ニャルマーはこちらを見て逃げるほど臆病なポケモンだし、タマザラシも滅多に攻撃をしてこないから、大丈夫なはず。してきたときは――その時に考えよう。オバケワラは遠いから、元より選択肢に無い。

「あれ?」
 
浜辺には先客がいた。その背中には見覚えがある。傍らに佇むジュナイパーが先に私に気づき、小さな声をあげて隣にいる少年を呼んだ。わざとらしく足音を立てれば、彼もこちらを振り返る。

「セトカさん」
「久しぶり、テルくん」
 
隣いい? と尋ねると、テルくんは「もちろんです」とはにかんだ。
テルくんとは本当に久しぶりだ。宴の時にはちゃんと話ができなかったし、そのあと彼はウォロくんに言われてプレートなるものを集めるため忙しくしていたから。

潮騒が私たちの間に響く。夜の色を集めはじめた海をぼんやりと眺め続けた。――先に話を切り出したのは、テルくんのほうからだった。

「聞いたか? ウォロさんのこと」
「うん。ギンナンさんにも聞いて、そのあとテルくんのところの団長さんからも」
「え? 団長から?」
「ほら、異変の時、私もあなたに協力したじゃない? だからその関係で。ウォロくんの手掛かり、知りたかったんじゃないかな」
 
そういえばあんなにギンガ団に通っていたのにテルくんは合わなかったな。ずっと調査に出ていたのかもしれない。現に彼が着ている服は、だいぶくたびれているように見える。
テルくんは「そっか」とだけ答えて、ぽつりと小さな声で呟いた。

「……変なんだ」
「変?」
「ウォロさんがいけないことをしたって頭では理解している。それを許してはいけないことも」
「……うん」
「でも、あの人が助けてくれたことも事実だから。おれ、そのことを忘れちゃいけない気がして」
 
よくわからなくなっちゃった。

声は細く、震えていた。テルくんは膝を抱え、丸くなる。けれども言葉は続いていて、私は静かにそれへ耳を傾ける。

「ムラから出ていかなくちゃいけないとき、助けてくれたのがウォロさんで」
「うん」
「あれだって計画の内だったのかもしれないけど、おれはすごく嬉しかったんだ」
 
……テルくんも私と同じだ。気持ちの置き方を迷っている。私たちの中には、にこやかに笑うウォロくんの姿がずっと残っている。私たちが重ねていた日々の全てが、嘘だなんて思いたくない。たとえ偽りだったとしても。少なくとも、私はウォロくんと一緒にいて楽しかったから。

「……そうだよ。楽しかったよ」
「え?」

ウォロくんがやったことはやっぱりいけないことで、許しちゃいけないことだ。でも、彼と過ごした日々が楽しかったのも事実。その気持ちは私だけのもの。誰にも否定されたくない。 

ウォロくん自身にも。

助けてもらったこと。嬉しかったこと。楽しかったこと。どれも私の心に息づいていて、ちゃんと残っている。それは私だけが感じて、大切に持っていていいに決まっている。

ポケットに手を入れ、取り出す。あの時、ウォロくんからもらったシーグラスだ。マフラーはきっと私物を減らすために、体よく押し付けられたのだろう。でもこれは彼が自ら拾って、私にくれた。価値があれば売っていただろうし、無ければ捨てていたに違いない。なのに私に会うまでもっていた。それは、たったわずかな心の隙。きっと彼が忌み嫌うものが、今の私を応援してくれている。

「忘れなくていいんだよ、私たち。嬉しかった気持ちも、楽しかった気持ちも、全部自分が感じた心なんだもの」
「心……」
「それはウォロくんにだって否定できないよ。だって私たち自身のものなんだから」
 
計画のうちだ、利用されているんだ、と言われたとしても、私があのとき受け取った優しさがなくなったわけじゃない。私の心はあたたかくなった。それが全て。

私は、私が知っているウォロくんを信じたい。

テルくんは私の言葉をじっと聞いたのち「そ、うかも」と小さく頷いた。浮かべる表情はどことなくすっきりとしているように見えた。

「ありがとう、セトカさん。おれもこの気持ち、大事にしていいんだよね」
「当たり前じゃない! 自分の感情も、心も、自分だけのものだよ。――私こそ、ありがとう」

寄り道してよかった。でないと、一人でまだまだ悩んでいたに違いないから。
あたりはすっかり暗くなり、足元もだいぶ見えなくなっていた。そろそろ帰らないと。それとなくテルくんに促して、一緒にベースキャンプまで向かう。
 
キャンプに着くと先に火を起こしていたラベン博士に「今日はコトブキムラにお泊りになっては?」と誘われた。一人でイチョウ商会に帰るには些か危険だ、と説得されてしまう。しかし、それを丁重にお断りした。急にお邪魔するのは申し訳ないし。

「あ! そうだ、おれ、セトカさんに渡したいものがあって!」 
 
せめて途中までは、と話がまとまったところでテルくんが声をあげた。「ちょっと待ってて!」なんて言うだけ言って、道具箱へ向かっていく。その勢いに思わず呆けてしまった私とラベン博士は、つい顔を見合わせてしまった。

「ラベン博士は何かご存知ですか?」
「あれかな、と検討はついています。変なものじゃないですよ」
 
笑みを浮かべていた博士はテルくんのほうへ視線を向けたあと、声を潜め、言った。

「実はあれからウォロさんが来たんです」
「え」
「ギラティナについての伝えることがある、と。滞在時間は十分もありませんでした」
 
その時、彼は言ったのだという。「ポケモンずかんの完成を楽しみにしている」と。

「ウォロさんはまだ、このヒスイ地方にいるかもしれません。幸か不幸か――彼の瞳には野望の焔が灯っていましたから」
 
ヒスイの土地は広大だ。誰も足を踏み入れていない場所も多い。すべてを知るには、まだまだ時間も人もかかるだろう。ラベン博士はそう言って、言葉を続けた。

「これから調査隊はポケモンのことだけではなく、ヒスイ全土の地質や植物といった方面も調べていくことになります。もしかしたら……」
「多分、その前に出ていっちゃうかもしれません」
 
そうしたら私はもう二度と会えないんだろうな。それは寂しいし悲しいけれど、為す術もない。まあ、きっと、ウォロくん側だって私に会う気はなさそうだけれど。

「お待たせ、セトカさん。これ、渡したかったんだ」
 
手を出すように促され、従う。ころんと手のひらに落とされたのは、月の光に輝く一片のキバだった。きょとんとそれを見つめる私にラベン博士の解説が入る。

「するどいキバ≠ナすね。グライガーがグライオンへ進化するために必要な道具です」
 
……進化? グライガーが? 驚きのあまり声があがる。グライガー自体はジョウト地方でもよく見かけたポケモンだ。でも進化するなんて聞いたことがない。

「グライガーは進化条件が特殊でして。だからご存知なくても仕方ないことですよ」
「するどいキバ≠持たせると夜の間に進化できるんだ」
「そうなの?」
「ええ! テルくんの調査でわかったことです!」
 
胸を張るテルくんに思わず拍手を送る。すごい、テルくん。そんなことまで調査するんだ。テルくんは「グライオンはグライガーよりもずっと遠くまで飛べるようになるから、セトカさんの仕事にも役立つって思ってさ」と照れくさそうにはにかんだ。

テルくんも異変のときにグライガーがみんなを探して湖を飛び回ったことを知っている。だから気にかけてくれたのかも。貴重な道具をくれるなんて。感謝しかない。グライガーの気持ち次第だけれど、きっとあの子は進化したがるだろう。そうしたらテルくんにお披露目しなくちゃ。

グライガーのボールに指をかけた瞬間、ぱちんと閃いた。心臓がドキドキと高鳴っていく。諦めていた気持ちがしぼんで、代わりに期待が膨らんでいく。

「ラベン博士、グライオンの一回の飛行距離はどの程度なんですか?」
「そうですねぇ。細かい調査はまだ行っていませんが、グライガーの比じゃないでしょう。ただポテンシャルとしてはすさまじいものを感じています。微弱な風さえ、彼らは掴んで、滑空していきますから」
「……ヒスイ地方を一周できますか?」
 
その問いにラベン博士はハッと目を見開き、優しい笑みで頷いた。

「余裕でしょう!」
 
背筋を駆ける興奮はすさまじくて、暗い夜のはずなのに視界は明るい。きっと今の私は自分でも見たことのない表情を浮かべていることだろう。私にできる為す術≠ェ見つかったのだから。

「あのっ、やっぱりコトブキムラに行ってもいいですか!?」
 
団長さんに、お会いしたいです!

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