V

カロスを出た私の次なる目的はジョウト地方、フスベシティである。そう、ドラゴンポケモンの聖地と呼ばれる場所だ。

デンリュウに眠る『ドラゴンの遺伝子』を目覚めさせるのならば、ここしかない。そもそもドラゴンポケモンにゆかりのある土地は数少ない。その総本山がこのフスベシティだ。限られた選択肢の中から、ここを選んだのはごく自然な行動であるといえるだろう。
調べればフスベ以外の外部からも門下生を受け入れているらしい。ここで修行をすればきっといい影響があるはず。遺伝子だけではなく、トレーナーとしてもレベルアップできるに違いない。ただ嫌な予感が胸を過ぎる。デンリュウを『ドラゴンポケモン』として認めてもらえるか。あくまで『ドラゴンポケモン』を極める土地の修行なのだから。

「――申し訳ありませんが、お引き取りください」
 
静かに告げられた言葉に目の前が暗くなる。予感的中とはまさにこのことだろう。理由を伺えば、通された和室で向き合う初老の男性は目を伏せ、答えた。

「判断ができないのです。今は長老さまもご不在でして……。残されている我々だけでは、デンリュウを『ドラゴンポケモン』として扱ってよいのか」
 
やっぱり。そこがネックになったか、とくちびるを噛みしめる。
たしかにデンリュウはタイプもタマゴグループもドラゴンではない。加えて、ドラゴンの遺伝子を持っているとわかったのも最近のこと。彼の言うことも一理ある。加えて、最終判断を下す人物がいないというのもタイミングが悪かった。

「……長老さまはいつお戻りに?」
 
視線を彷徨わせて、再度申し訳なさそうに彼は答える。

「ちょうどホウエンのりゅうせいのたき≠ヨ向かわれていまして……一月ひとつきほどはかかると」
「い、一ヶ月……!」
 
呻き声が喉から漏れる。衝撃で次の言葉が出てこない。重い無言の空気が漂った。
一ヶ月、待てばいい。ただそれだけのこと。しかし、その「たったそれだけ」がこんなにも辛い。かといって、ここで粘ったところで事態が好転することわけでもない。目の前の男性も、決して意地悪を言っているわけではないのだ。仕方のないこと。誰も悪くない。

くちびるを噛みしめ、悔しさを必死に堪える。無理矢理にでも思考を切り替えた。前向きに考えれば、一ヶ月の準備期間ができたというわけになる。そうだ、急に飛び込んだっていいことは無い。
――でも、目の前にある可能性を掴めないことが、こんなにも苦しいだなんて知らなかった。
握りしめていた拳を解き、俯いていた顔をあげる。「わかりました」と一言、伝える。

「また一ヶ月後、お訪ねしていいですか?」
「もちろんです。本当に申し訳ない」
「いえ、仕方ないことですから……」
 
少し痺れた足を動かす。下を向いたら、涙がこぼれそうだ。前を向くことだけに集中し、立ち上がろうとして――瞬間、ふすまが音を立てて開く。

「おれが見極めよう」
 
突然振ってきた男性の声。低くて、威厳に満ちている。誰だろう、と素直に思った。視線を向ければ、彼の纏うプレッシャーに圧倒されて息が詰まる。
この人はとても恐ろしい人だ。鮮烈な紅が心に刺さる。目を、心を、奪われた。

「ワタルさま!」
 
初老の男性の声で離れかけていた意識が戻る。フスベでワタルと聞けば、結びつくのはただ一人。セキエイリーグの頂に座るドラゴン使いだけ。この人がそうなのか。バトルトレーナー一筋ならまだしも、一般人の私はその手の情報には疎い。そのため、すぐにピンとこなかった。しかし、言われてみれば納得する。それだけの説得力を感じるオーラが彼にはあった。

「話は聞いている。デンリュウ使いのトレーナーが来ていると」
 
きみか? と燃える瞳が私を貫く。ここで目を逸らしてはダメだ。彼をしっかりと見つめ、頷く。名乗りと共に、デンリュウと修行をさせてほしいと訴えた。

「メガデンリュウを鍛えたいのなら、フスベに拘る必要はないはずだ。理由を教えてくれ」
「――この子はメガシンカができないんです」
 
腰につけていたボールをぎゅっと握る。かたり、と私を気遣うように揺れた。
包み隠さず、全てを話す。デンリュウに眠るドラゴンの遺伝子を目覚めさせたいこと。それしかメガシンカをするためには方法がないこと。ドラゴンポケモンの整地であるフスベで修行すれば、希望が繋がるかもしれないと思ったこと。

「デンリュウがドラゴンポケモンとして見做すかどうかは、議論が分れるところであることも充分に理解しています。難しいことも承知しています。ですが、どうか認めていただけないでしょうか?」
 
お願いいたします、と改めて姿勢を正し、畳へ頭をつける。
この人に認めてもらわなければ、一ヶ月後のチャンスはそもそも訪れないと本能が理解していた。どうにかして、今ここで許可を得ないといけない。他に私が差し出せるものはあるだろうか、と必死に考える。

「バトルをしよう」
「……え?」
 
思わぬ言葉につい顔をあげる。彼はもう一度「バトルをしようか」と言った。単語の意味はわかる。しかしその真意を測りかねたせいで、呆けた表情を私は浮かべていたのだろう。彼は口の端だけを吊り上げるように笑い、挑発をしてくる。

「負けるから、と諦めるかい?」
「いいえ! バトル、します!」
「いい返事だ。表に出てくれ」
 
屋敷の庭先にあるバトルフィールドで急遽行なわれた戦い。
負けられない、と拳を握り、彼とその隣で羽ばたくカイリューを睨む。しかし、私がよかったのは勢いだけで、気づいたらデンリュウはもうボロボロだった。それに比べて彼のカイリューは全くといっていいほど弱っていない。負け戦なのは火を見るよりも明らかだ。

でもそのときの私たちはとにかく必死でがむしゃらで――なんとかして勝とうと無謀なことばかりを試していたように思う。せめて、最後に一撃ぐらいは喰らわしたい。

「デンリュウ! 当てる・・・かみなり=I」
 
選んだ技はデンリュウが一番得意とする技だった。かみなり≠フ命中率は一般的には八割ほど。しかし、この子は威力の減少と引き換えに、十割の確率で当てることができた。それも覚えている全ての技を。これもまた個性なのだろう。全てのポケモンがぴったり同じ確立でしか当てられないということはないはずだ。なにしろポケモンは生きているのだから。

とにかくデンリュウはこの技が得意で、ゆえに好きである。だから、最後の一撃として選んだといっても過言では無い。好きこそものの上手なれ、とも言うからだ。そして、デンリュウはそれに応えてくれるとも信じていた。
実際、雄叫びと共に落としたかみなりはカイリューへ刺さった。やっと当てた一撃。喜ばないわけがない。だからすっかり頭から抜けていたのだ。たった一撃で、しかも威力が弱まった技で、セキエイチャンピオンのエースが倒れるわけがないことを。

「っ!」
 
雷光の中、カイリューは彼の冷静な指示を受けてはかいこうせん≠デンリュウへ放つ。避けきれるわけもなく、直撃したデンリュウは目を回し、倒れた。すぐさま相棒の元へ駆け寄る。傷の具合を見るため、抱え込んだ。いつになくボロボロになった黄色の身体を見て、どうしようもなく胸が締めつけられる。私が弱いから、痛い思いをさせてしまった。ごめんね、と呟けば、デンリュウは「気にするな」と言うかのようにぱちりと電気を弾けさせた。それがまた私の心に傷をつける。
砂を踏む音が近づいた。頭上に影が落ちる。誰かだなんて、考えるまでも無い。

「……厳しい修行になる。デンリュウにとっても、きみにとっても」
 
彼は静かに言葉を続ける。

「ポケモンのポテンシャルを引き出すのはトレーナーの役目だ。そのデンリュウに眠るドラゴンの血は、きみたちが想像しているよりずっと深く奥底にある。ここで行なわれる修行はただでさえ厳しいものだ。それよりも長く、険しいものが――きみの歩む道になる」
 
それでも進むのか? と問いかけられているようだった。その裏には、逃げるなら、引き返すのなら今だと、最後の帰り道を示しているのだと気づく。この人は恐ろしい人だ。同時にとてつもなく優しい人なのだと理解した。どちらに転んでも、私に後悔が生まれないように誘ってくれている。
 
結んでいたくちびるを解き、彼を見上げた。逆光で影を背負うその人へ、真っ直ぐと答えを叫ぶ。

「それでも私が止まることはありません。諦めることはしない」
「理由を聞こう」
「デンリュウの夢は、私の夢だからです!」
 
高らかな笑い声が響く。もちろん私では無い。彼のものだ。そしてマントを翻し、私へ手を差し出す。

「合格だ!」
 
――こうして私はワタルさまの試練を乗り越え、デンリュウと共に修行を受けることを認められた。今でも、あの時差し出された手の大きさと、ぬくもり。なによりワタルさまが浮かべていた笑顔は一生忘れないだろう。



その後、改めて私は門下生として迎えられた。

お戻りになった長老さまからも「ワタルが認めたのなら、なにも言うことは無い」とお言葉をいただくことができ、追い出される心配も無くなった。同期や先輩も、デンリュウを使う私に距離を置くことも無く、修行を共にする仲間として扱ってくれている。つまり、ここにいる全員がいい人たちなのだ。ドラゴンポケモンを扱う人は心も高貴なのだと、しみじみと実感する日々である。
 
さて、出だしこそ躓いたが、その後は順調――となるわけでもないのが辛い現実だ。ワタルさまの言うとおり、デンリュウの中に眠るドラゴンを目覚めさせることは厳しく、メガシンカは未だに実現していない。焦りは生まれるが、闇雲に修行しても意味はないはず。何事も前向きに考えるべきだろう。フスベの修行にはいくつかの段階がある。そのため、明確な目標が立てやすい。

私たちは、まず修行の第一段階である自身の相棒と共に実力をつけることに専念している。それが認められれば、第二段階、第三段階と進むことできるからだ。最終的にはフスベ≠フドラゴンポケモンをいただけるのだが――それを叶えた人は数少ないらしい。長老さまに認められることは難しく、その前にみんな脱落してしまうのだ。「去る者追わず」という方針も、厳しい修行を行なう土地特有のものだといえる。

確かに修行は厳しい。私はデンリュウのメガシンカのためにここに来ているけれど、こなす修行の内容は変わらない。相棒とバトルを通し対話し、技の精度を磨き、判断力をつける。そしてドラゴンポケモンを理解していく。いつかデンリュウの中にあるドラゴンの血が目覚め、メガシンカができると信じ、私は毎日を過ごすのだ。
 
正直、私に才能は無いのだろう。いくら目的の方向性が異なるとはいえ、先輩や同期が簡単に越えてハードルを私は倍以上の時間をかけてようやくクリアしている。しかし、悲しさや空しさを覚えている暇は無い。才能が無ければ、努力で補うしかないのだ。相棒のチカラを引き出せるようになると認められれば、ホウエン地方にあるりゅうせいのたき≠ヨ行く推薦をいただける。それが私たちの最初に目指す場所と定めた。そこに至るまでには膨大な時間と努力が必要なのだけれど。

だからこうして――こっそりと夜に自主特訓を始めた。
 
日が落ちるころ、一日の修行は終わる。そこからはいわゆる自由時間というものになる。フスベの夜は深い。すなわち、暗くて明かりの届かない場所が多いのだ。だから外での修行は禁止。室内でできるような、そういう座学的な内容に時間を費やす門下生が多い。
 
しかし私の相棒はデンリュウである。暗いところこそお手の物。それに、私たちには座学よりも実践のほうが足りない。勉強はたっぷりと大学でやってきたのだから。そこで考えた。こっそりと門下生用の宿舎を抜け出し、山にある人目につかない場所で実技の特訓をすればいい、と。幸い、始めてから今日まで、誰にもバレていない。

どんな状況でも確実に技を当てる練習や、威力を高める練習を重ねる。ここは水深が深い湖の近くだから、夜間はポケモンが寄りつかないのもいい。絶好の修行スポットだ。一歩間違えれば水底にどぼんだが、我ながらいい場所を見つけた。

連日、睡眠時間を削っているせいか、ついあくびがもれる。今日は早めに切り上げようかな、と考えながら、デンリュウと共に的につけた印へ技を繰り出した。命中はしたものの、威力はいまいち。やはりどちらかに寄ってしまう。威力を取るか、命中率を取るか。これもトレーナーである私が判断し、指示をする分野だ。でないとせっかくのこの子の個性を殺していることになる。
 
ちらりと腕時計に目を向ける。文字盤の針は、もう少しで日付を越える位置を示している。今日は早めに戻ろうかと考えていたが――

「もう少しやっていこうか」
「だめだ」
 
デンリュウへ言ったはずなのに、返ってきたのは男性の声。しかも昼間に聞いたばかりの。ひぃっ! と叫び声をあげ、飛び上がる。恐る恐るそちらを振り向けば、少し離れたところにある木にもたれながら、こちらを睨むワタルさまがいた。眉根を寄せ、腕を組んで険しい表情を浮かべている。その鋭い視線に震えた。有無を言わさぬ圧迫感を漂わせた様子は、誰が見ても全員が「怒っている」と表わすだろう。

「こんな時間に何をしているんだ」
「で、デンリュウは暗いところが平気ですし、その、あの……」
「答えになっていない。おれは『何をしている』と訊いたんだ」
 
足音をわざと立てながら、こちらに近づく。至近距離での怒りに満ちた眼光が目の前に迫る。

「……自主的な、修行をしていました」
「睡眠時間を削って?」
「……はい」
 
重いため息が響く。思わず後退りしかけた足を、寸前で止めた。そんなことをしたら「逃げるな」と言われてしまうだろうから。

「休むことも大切だ、と言わなければわからないか?」
 
ワタルさまは日中に私の顔色が悪いことが気にかかったらしい。まさか、と思い、宿舎を見張っていたら案の定私が抜け出し、山に入っていったから後をつけてきたのだという。何から何までお見通しで、いたたまれない。

「倒れたら元も子もないだろう。デンリュウへ『自分のせいで』と罪悪感を抱かせる気か? なにより、きみが感じる疲労はポケモンも同様に蓄積されているんだぞ。『己が平気だから』と勝手に無茶をするのは結構だが、それに付き合うポケモンのことを――」
 
突如、デンリュウが私とワタルさまの間へ割って入ってくる。私を自身の背に隠すその姿は、まるでワタルさまから守ってくれているようだった。現に、赤珠を光らせ尾を高くあげるデンリュウ特有の威嚇ポーズを取っている。

「……なるほど。さながらおれは、大切なパートナーをいじめている敵というわけか」
 
その言葉に慌ててデンリュウを止める。しかし、相棒は低いうなり声をあげるだけだった。

「デンリュウ! やめなさい!」
「構わない。おれの言葉がデンリュウの疳に障ったんだろう。自分だって同意してこの特訓をしている、あたりか」

ワタルさまは険しい表情を緩め、腰につけたボールからカイリューを喚び出した。

「そこまで言うのだから、相手をしてもらうとしよう。なあ、デンリュウ?」
 
わかりやすい挑発に乗ったデンリュウは勇ましく鳴く。驚いたのは私のほうだ。混乱で脳内はパニック状態。一人、展開に置いていかれている。なにしろワタルさまとの一対一のバトルは滅多にできないのだ。彼は忙しいから、フスベへ来るのも月に数えるほど。そのときには直接稽古をつけてもらえるが、それだって一対複数。もちろんワタルさまが一のほう。それぐらい簡単に、私たち門下生をいなせる実力差がある。いかにこの状況が貴重であるとわかっていても、すぐには頷けない。
狼狽える私へ、ワタルさまは不敵に笑う。

「おれ相手では不満か?」
「一言も言っていません!」
「そう見えたが?」
「っ、ワタルさま!」
 
冗談だよ、と彼は肩を竦める。そして真面目なものへと表情を変えた。

「こういった無茶は看過できない。だが、きみが頑張っていることは知っている。努力を重ねていることも。これはおれなりの賛辞だ」
「…………」
「それに、目と目があったらポケモンバトルだろ?」
 
ワタルさまの瞳に焔が灯る。今、目の前にいるは一人のバトルトレーナーだ。全ての肩書きを置いた、バトルに全てを捧げるただのトレーナー。そして、私もまたその末席に身を置くことを決めた人間。立場なんてものはこの場に関係ない。今の私たちは相棒のポケモンへ信頼を置き、相手を倒すことだけを考える。

「わかりました。お相手、よろしくお願いいたします!」
「そうこなくては!」
 
デンリュウが珠を赤く光らせ、カイリューが空へ舞う。バトルの火蓋が切って落とされた。
技と技のぶつかり合い。心理の読み合い。慎重と大胆の表裏一体。駆け引きを繰り返しながら、必死にワタルさまに食らいついていく。以前よりはずっと長くバトルができているが、やはり彼は圧倒的だ。一切手加減されていない。そのことが光栄であり、恐怖でもある。

でも諦めることは絶対にしない。どこかにあるはずの勝ち筋を必死に探す。それを見つけるべく、思考を回す。でも私は忘れていたのだ。睡眠不足で、疲労が貯まっていたことを。

パチンと何かのスイッチが切り替わった。
 
あれ? と思う頃にはもう遅く、ぐらりと身体が揺れる。力が抜け、スローモーションに全てが動いていた。ワタルさまの口が何かを形作っている。私の名前のように思えた。その慌てた表情を見て、私は辛うじて残った意識で叫ぶ。

「当てるかみなり=I」
 
雷撃が降り注ぐと同時に私は湖に落ちていた。肺に残った酸素が逃げていく。しかし、そんな些細なことに構っている暇は無い。
水の中からもはっきり見えた輝く一撃。綺麗な光だ。遠目でもわかるほどに威力も申し分ない。すごい、デンリュウはちゃんとやってくれた! なんてすごいかみなり≠セろう!
 
突然、腰に腕が回る。動かない身体は抵抗することなんてできない。すぐにものすごい力が私を引っ張る。水圧から解放され、酸素がなだれ込んでくる。思わずその人へしがみつく。

「っ、げほっ! っはぁ……!」
「ゆっくり呼吸をするんだ。大丈夫、水は飲んでいないはずだ」
 
囁かれた言葉にしたがって、意識して深呼吸を繰り返す。その間にも、力強い腕が私を地面へ引き上げた。土と草の匂いに安心する。咳き込みが収まって、ようやく状況が理解できた。

「わたる、さま……」
 
私の背中を擦るワタルさまも濡れている。全身びしょ濡れだ。整えている深紅の髪も崩れている。彼が飛び込まなければいけないほど深く私は落ちていたのかという驚きと、助けてもらったことへの申し訳なさがわきあがる。しかし、思っていたこととは反し、口から飛び出たのは謝罪では無かった。

「今のかみなり≠ご覧になりましたか!?」
 
矢継ぎ早に言葉を続ける。威力も申し分なくて、しっかりとそれを当てられていた。これを目指していたのだと、興奮で同じ言い方ばかりを繰り返してしまっていたが止まらない。本当はもっと言うべきことがあるはずなのに、どこかへ飛んでしまっていた。「見ていた」と言って欲しかったのだ。他ならぬ、ワタルさまに。

「っ、ははは!」
 
ようやく私の口が止まったのは、ワタルさまが大声で笑ったからだった。いつもの口元だけを緩める笑いかたじゃない。眉を下げ「堪えきれない」と肩を震わせ、破顔している。盛大に笑い声を響かせて満足したのか最後に大きく息を吐き出し、彼は濡れて落ちていた前髪をかきあげた。

力がほどよく抜けた優しい瞳が顕わになる。今までに見たことの無い、あたたかな光が私を見つめている。途端にきゅうと音を立てて、胸が締めつけられた。冷えたはずの身体へ熱が宿る。どくどくと心臓の音が、耳の奥で響いた。なんだ、これ。

「――きみは本当に真っ直ぐだな」
 
未だに笑みを零すワタルさまはやわからな声音で言った。初めて聞く声だ。それさえもどこか遠くに存在している。心だけが遠くへ言ってしまったようだった。

「おれの好きな真っ直ぐ≠ウだ」
 
ぼんやりとした私を置いて、彼は立ち上がる。濡れたマントを軽く絞り、水気を払ったあと、手を差し出してきた。

「立てるか?」
 
デンリュウが心配している、と言われて、ようやく我に返る。気づけば、しょぼしょぼとこちらを伺っている相棒の姿があった。自分はでんきタイプだから濡れている私へ近づいてはいけないと理解しているのだろう。慌てて立ち上がろうとするが、上手く足に力が入らない。どうやら私自身が考えているよりずっと危ない状況だったのかも。

「こら、無理をするな。おれに捕まって、ゆっくり立つんだ」
「は、はい」
 
ワタルさまに寄りかかるようにすると、今度はちゃんと立ち上がることができた。近くにある彼の体温が一際熱く感じる。服越しだというのに火傷をしそうなぐらい、熱い。ゆっくりとデンリュウの元へと歩き出した。その手のひらの大きさと、目に映る横顔に、また胸が締めつけられた。叫びたくなる衝動が渦巻く。

――どうしよう。私、ワタルさまのことを好きになってしまった。
 
振り返れば惹かれないわけがないのだ。厳しくて、優しい。常に努力を怠らない。今まで出会ったどんな人より、この人は素敵だ。心も、なにもかも。そして私たちを最初に見つけてくれた。 
子供では無いから自分の感情がわかる。だからこそ、知らぬ存ぜぬは通らない。私はもうワタルさまに恋をしてしまった。自覚をしてしまった。消そうと思って消える感情ではないことを、自分が一番わかっている。

でも、この恋は叶わない。いいや、叶えようとしてはいけない。
そもそも私はここに修行に来ている。恋に現を抜かしている場合では無いし、相手はあの「ワタルさま」だ。こんな感情を抱く時点で恐れ多い。なにより私は怖かった。ワタルさまに失望されるのが。認められたいと思っている人に全てを諦め、失望されるのは、想像だけで心の底から凍えるような気持ちになってしまう。
 
だからこの恋はしまっておくと決めた。絶対に、欠片も、外に出さない。誰にも気づかれぬように。たたんで、封をして、鍵をかける。それにまた包みをして。特に意中のあの人へ悟られぬよう、厳重に。全てが終わるそのときまで、隠し通してみせる。

――でも、もしも、もしも許されるのなら。一人のときには少しだけ、思い出してもいいだろうか。この恋は無視できぬほど、育ってしまうとわかるから。そして、今日もまたひっそりとあの人を想う。誰にも気づかれませんように、と世界のどこかにいる神様アルセウスへ祈りを捧げながら。
<< novel top >>

ALICE+