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あの夜、恋を自覚したからといって、なにかが大きく変わることはなかった。変えてはいけないと努めていたのもあるけれど、やはり私の一番はデンリュウと共にメガシンカを目指すことだったから。でも、ワタルさまに会える日の朝はいつも以上に目覚めがよかったりする。現金な性格だな、と我ながら呆れることもしばしば。
 
今日はまさにその日だった。ワタルさまから直接ご指導をいただける数少ない日。午前いっぱい、ワタルさまは私を含めた門下生たち全員の相手をし、倒していった。その中でも一際、私は厳しい言葉を投げられたと思う。それもそうだ。私はここに長くいすぎているから、指摘する箇所が大いに決まっている。同期はもう誰も残っていない。リタイアしたり、修行を終えたり――理由はさまざまだけど。後輩に抜かされることも、もう慣れてしまった。つくづく私にはバトルトレーナーとしての才能が無いのだと痛感する。しかし、落ち込んでいる暇はない。
 
午後の時間は、午前の復習を当てることに決めた。ワタルさまに判断力が弱いと指摘されたので、それを見直すことにする。言葉通り、いまだにデンリュウに対する指示に迷うことがあるのだ。威力は徐々にあがってきているが、それは技の練度を高めなければ意味が無い。得意のかみなり≠焉Aあの夜以降、納得のできる一撃を放ったことはない。もし、両立ができないのなら、命中率か威力彼のどちらかを優先しなければならない。それによって技構成も変わるだろう。どちらかに寄った構成にすれば、迷う時間は減らせるはずだ。これは私の判断を早くするという利点にも繋がる。技の練度があがれば必然的にデンリュウの成長にも繋がっていく。そうすればドラゴンの遺伝子になんらかの反応があらわれるかもしれない。

私は技構成を見直すべく、なにか参考になるものを探すため、書庫蔵へ向かった。
一族が有する敷地はとても広い。塀で囲われたそこは、油断したら迷子になるほどだ。実際危うかったことが何度かある。本家と分家、そして門下生の宿舎があるのだから当然なのかもしれないが。しかも、区画によって入れる人間が異なってくるのだ。一族の血を継ぐ中でも、さらに限られた人しか入れない場所があるらしい。実際見たことは無いけれど。そもそも見る機会が無い。なにより似たような出で立ちの蔵が多い。その数から、脈々と受け継がれた一族の歴史が垣間見える。そして、いくつかは私たち門下生向けに解放されていた。

うち一つが書庫蔵である。
重い蔵戸を開ける。幸運なことに今日は貸し切りのようだ。いつも誰かしらいる場所なのに。少しだけ気分があがった私は嬉々として入っていく。蔵の中にはたくさんの書物が収められている。首が痛くなるほどに、高く敷き詰められた棚を見上げた。脚立を動かしながら、そこから目当ての技分類の段を見つける。気になるタイトルの本をひっぱりだした。
 
――どのくらいそこで過ごしていたのだろうか。明確な時間はわからない。ふと気づけば、ひどい雨音が書庫蔵の中に響き渡っていた。天井が高く、広い空間なこともあり雨音が大きく反響している。もしかしたら外は暴風雨に近いのかもしれない。風や雷の音まで飛んできた。

「そっか、あまごい≠使えばかみなり≠ヘ確定で当たる。そうすれば命中のことを考えなくてすむかも……?」
 
しかし、そうなると雨があがるたびにあまごい≠する時間が必要になる。それにメガデンリュウになったときのことを考えれば、ドラゴンタイプの技を覚えさせたいところ。そもそも、命中率はこちらでコントロールできるなら、威力をあげる補助技のほうがよいのでは?
 
ぐるぐるとループする思考回路は、それこそ雷鳴の音で中断された。結構近くに落ちたのかも知れない。地響きが伝わってくる。これはもう宿舎に帰ったほうがよさそうだ。本を元の場所へ戻し、明かりを落とす。外に出て、はたと気づいた。

「って、傘なんて持ってきてない!」
 
当たり前だ。来るときは晴天とは言い難かったが少なくとも雨は降っていなかったし、今日はこんなに天気が荒れるとも思っていなかった。そもそも外へ出かけるわけでも無いのに傘を持ち歩くなんてことしない。なんだかんだ、敷地内なのだ。
ここは蔵の中でも離れた場所にあるから、どんなに走っても宿舎に着く頃にはびしょ濡れになる。それこそあの時のように湖へ落ちたぐらいになるんじゃないだろうか。現に軒下にいるというのに、吹き込んでくる雨粒のせいでどんどん靴先が湿っていく。
 
しかし、悩んでいたところで晴れるわけでもない。一時凌ぎに使えるような天候変化の技もない。デンリュウはあいにくとにほんばれ≠覚えられないのだ。ここは腹を括るしかない。宿舎に帰ってすぐにお風呂に入れば、風邪も引かずにすむはずだ。よし、いこう。

そう思って足に力を込めた矢先のことだった。私の視界にワタルさまが入り込んだのは。

「わ、ワタルさま!?」
 
思わずあげた叫び声は、この雨の中でも彼に届いたらしい。私に気づき、トップスピードのまま軒下へ飛び込んできた。あの夜と同じように、真紅の髪先から雫を垂らしている。慌ててポケットに入っていたタオルハンカチを差し出した。ちょっとくしゃっとよれているのが恥ずかしいけれど、ちゃんと洗っているものだし、無いよりマシなはず。
ワタルさまは私が濡れていないことを確認してから、それを受け取った。

「悪い、助かった」
「いえ、そんな……こんな雨の中、いったい」
「おそらく、きみと理由はそんなに変わらないさ」
 
話を聞けば近くの蔵へ行っていたらしい。「いい加減、片付けをしろと怒られてしまって」とワタルさまは困ったように肩を竦める。セキエイチャンピオンであり、次期当主と呼ばれる人でも、そんな風に怒られることがあるのか。きっと長老さまかイブキさま辺りが言ったのかもしれない。頭があがらないワタルさまはちょっとかわいいな、なんて。

「きみは書庫蔵で勉強か?」
「はい。午前にご指導いただいた内容を私なりに確認をしていました」
「ほう」
 
それを最後に訪れたのは静寂だった。
瓦屋根を打つ、雨音だけが私たちの間に響く。なんとなく声を出すのは憚られて、私は雨雲が覆う空を見上げる。先ほどよりは勢いも落ち着いてきたような気がする。走るなら今かもしれない。でも一人で駆け出す勇気は無い。隣のこの人を置いていくわけにはいかないからだ。

そもそも、どうしたらいいんだろうか、この状況。本来ならば好きな人と二人きりというシチュエーションは恋する心にはたまらないはずなのに。今の私に、この空気は荷が重い。だが、ここで行かなければまた雨は酷くなってくるだろう。意を決し、声をかけようと息を
吸いこんだ。

「――きみのいいところは」

私の代わりにワタルさまが呟いた。彼は言いながら、渡したタオルハンカチを絞る。大量の水がハンカチから溢れ、落ちていくのが見えた。

「己を省みて、すぐに行動に移せるところだな」

……もしかして褒められている? 唐突なそれにすぐにピンとこなかった。なんと返せばいいかわからず言葉を詰まらせていると、混乱する私にワタルさまは笑いかけた。あの夜に見た、優しい表情と瞳が向けられる。

「向上心がある人間は好きだ、と言っている」
 
どきり、と心臓が跳ねた。そういう意味私と同じ感情ではないとわかっていても、その単語は毒のように全身を駆け巡る。棘のようにじわりと心を侵食していった。

じくじくする痛みを隠しながら「ありがとうございます。励みになります」といつものように、頭を下げた。我ながら『いつも通りの私』として、反応できたように思う。
現にワタルさまは「――ああ。これからも励んでくれ」と言うだけに留まっている。それ以上の言葉は無い。私におかしな素振りがあったら、きっと追及してきただろう。

「……なるほど、これは手強い」
 
ただ少し様子がおかしいように見えた。どこか遠いところへ視線を移し、困ったように手で口元を覆っている。眉根をぎゅっと寄せたその表情は、なにかを考えこんでいるような仕草にも見えた。ヒヤリした感覚が襲ってくる。まさかバレてしまった? 

「あの……」
 
つい探るように声をかけると、ワタルさまは「いや、こちらの話だ」とはぐらかす。不安は拭えないけれど、この恋がバレたわけでは無さそうだ。そのことだけはわかった。――安心だけれど、今以上に気をつけるようにしよう。改めて己を律し、過ごさなければ。

「ところで、きみ、走る気はあるか?」
 
話を変えるかのような急な問いが投げられる。その意味を察して、頷いた。雨が弱まっている今が戻るチャンスであることを、ワタルさまはもちろん気づいていたらしい。空はまだ薄暗くて、灰色。完全に晴れる気配は全くない。ということは、ここで留まっている利点は皆無。またひどくなる前に早急に行動を開始するべきだ。

「よし、いくぞ」
「わかりまし――!?」
 
駆け出そうとした足は蹈鞴を踏む。なぜなら私の身体は前方ではなく、横へ――具体的に言うとワタルさまのほうへ引き寄せられたからだ。混乱によって抵抗する間もなく、気づけば私の身体は彼のマントの中。濡れた服越しに相手の体温を感じる。音にならない声が口からもれた。雨の匂いの奥に、どこか甘い男の人の香りがふわりと近づく。ワタルさまのものだ、と理解した瞬間、脳内はパニックに陥る。

「わ、ワタルさま!? なにをなさっているんですか!?」
「身体を冷やすのはよくないだろう」
「そっくりそのまま言葉を返します!」
「おれは慣れているから」
 
反論しようとする私を黙らせるため「走るぞ。ついてこい」とだけワタルさまは言って、本当にすぐに駆け出した。慌てて私も足を動かす。端から見れば二人三脚のように見えるかもしれないが、そもそも歩幅のコンパスが違いすぎる。あと、出るスピードも。かといって、いつもペースで走っていればワタルさまはもっと濡れてしまう。守られている私が彼の足を引っ張るわけにはいかない。

『火事場の馬鹿力』とはよく言ったもので、おそらく人生の中で一番の速さで私は走った。門下生の宿舎に着くころには酸欠で頭はクラクラしていたし、足は力が入らず震えていた。
それでも、必死に身体へ鞭を打って玄関先に置いてあったビニールの置き傘を掴む。持ち手に黒のマジックで共用≠ニ書かれているから、誰のものでもない。私を送り届けたからもう用はない、と言わんばかりに再び雨の中を駆け出そうとするワタルさまを引き留め、それを押しつける。私と違って、ワタルさまは息さえ切らしていなかった。

「お、お使い、ください」
「でもこれはここの置き傘だろう?」
「ワタルさまに使っていただけるなら、その傘も本望です!」
 
むしろなぜ傘を使わない選択があるのだろうか? ワタルさまはたまによくわからない。さっきも「慣れているから」だなんて、自分だけが濡れる必要はなかったはずだ。余計にこれを渡さなければ、と使命感に燃える。
傘を押しつけ続ける私に痺れを切らし、しぶしぶ彼はようやく受け取った。透明なビニールの傘地を広げながら「そうだ」と呟く。

「ハンカチ、洗って返すよ」
「そんなわざわざ結構ですよ。いま、いただければ」
 
手を患わせるために貸したのではない。まあ、渡した意味ももうこの状況では無に帰してしまったけれど。

「おれを礼儀知らずにはさせないでくれ」
 
有無を言わさぬ声の圧力は私を黙らせるには充分だった。お言葉に甘えます、と伝えれば、打って変わって彼は嬉しそうに笑った。

「風邪を引かないようにすぐに身体を温めてくれ。それと――」
 
あんなこと、誰にでもするわけじゃないからな。

「っ、当たり前です! もっとご自身のお身体を一番に考えてください! 私なんかより、ずっとワタルさまのほうが大事なんですよ!? 心配するこちらの身にもなってください!」
 
感情に任せ、勢いのまま叫んだあとに気づく。ワタルさまへ何という口の利き方をしてしまったのか! 走ったせいでたまっていた熱が一気に冷めていく。そりゃあ、ワタルさまが自分を無碍にするようなことを言ったことは許せない。でも私に口を出す権利は無い。それがあるのはイブキさまを初めとした一族のみなさまだろう。
すぐさま腰を直角に折り、深々と頭を下げた。

「申し訳ありません! 過ぎたことを言いました!」
「そうだなぁ。傷ついたよ」
 
言葉とは裏腹に口調は軽やかだ。はは、と笑い声も聞こえてくる。わざとそう言って、傷ついたフリをしているのがわかった。つまり怒ってはいないのだろう。隠れて胸を撫で下ろす。
頭をあげるように言われ、恐る恐るワタルさまの顔を見る。楽しそうに目元を緩め、私へ尋ねてきた。

「きみは、おれのこと心配してくれるんだ?」
「当たり前です。私だけじゃなくて、ここにいるみんながそうです」
「……そうか。今はそれでいいか」
 
ワタルさまは何かを噛みしめるように言って、ようやく本家の屋敷へと帰っていった。
すっかり身体は冷めてしまっているのでは無いかと心配であるが、私には遠くなる背中を黙って見送るしかできない。結局、私はどこまでも『ただの門下生』なのだから。



玄関先で突っ立っていた私はボールから飛び出たデンリュウに急かされて、ようやく動き出した。ちょうどタイミングよく沸いたお風呂は冷えた身体に心地いい。湯に浸かれば自然と力が抜けていく。入浴剤が溶けた、薄緑色のお湯に沈みながら思う。ワタルさまはちゃんと身体を温められただろうか。風邪、引いていないかな。
 
ふいに先ほどの言葉を思い出した。同時に告げられたときの表情も。熱を帯びた声音はまっすぐに私へ届き、瞳の奥は鋭く光っていた。あの時のワタルさまの全ては、私だけに向けられていた。じくじくと胸の奥が疼く。
隠していた恋が顔を出しかけたことに気づき、必死に押し留める。でも、あんなこと言われたら誰だって誤解してしまう。ワタルさまは人たらしだから、他意はないのだろうけれど。

「それでも嬉しく思っちゃうんだよなぁ……」
 
都合のよいほうへ考え出す思考にブレーキをかける。だめだ、緩んでいる。ちょっと距離が近づいたと誤解した途端にこれでは、すぐにワタルさまへ気持ちがバレてしまう。そうなったら、私はもうここにはいられない。けじめは大事だから。いてもいい、と言ってくれるだろうけれど、自分自身が許せなくなる。
 
ワタルさまが好きだ。憧れている。認めてもらいたい。恋の欲望は一度あふれだすと、止まらない。だから、この恋は叶えてはいけない。ひっそりと、私だけのものにしておかないと。そんなこと、ずっとわかっている。

『特別だ』なんて勘違いする過ちだけは犯してはいけないのだから。
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