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――思ったのだけれどもちもの≠燻獅オてみたらどうかしら。ほら、シードラもだってりゅうのウロコ≠ナキングドラへ進化するじゃない?

カリンさまの一言は、まさに目から鱗。そんなの思いつきもしなかった。なにしろ、デンリュウのもちもの≠ヘデンリュウナイトの一択しかなかったから。でも確かに、その言葉には一理ある。遺伝子を刺激するための有効な手段として考えられるだろう。
例えばしんかポケモン≠ナあるイーブイ。いくつものタイプが進化として発見されているが、みず(シャワーズ)・ほのお(ブースター)・でんき(サンダース)の進化形はしんかのいし≠使っている。イーブイ以外にももちもの≠ェ進化に影響する事例は多い。
 
完了報告ついでそのことをイブキさまへ相談すると「道具の関連なら使っていないものが、いくつかあるわね」と取り計らってくれた。お使いに行ってくれたお礼よ、とのこと。
普段は門下生に解放されていない蔵へ入るのは緊張するが、他ならぬイブキさまの許可をいただいているのだ。怒られることはないはず。書庫蔵よりももっと古びた蔵戸は立て付けが悪いと言われていたが、すんなりと私を迎え入れた。蔵の中はあまり人の出入りが無いせいか厳かな空気が満ちている。

もちもの、と一言でいっても何がいいのだろうか。無難にりゅうのウロコ≠たり? 
とりあえずウロコを確認してみよう。視線を彷徨わせ、その名前のラベルが貼られた標本箱を見つける。少し埃の被った箱を手に取り、開けた。丁寧にならべられたウロコたちは光にあたって美しく輝く。思わず息をのんだ。神々しさに満ち、動かすたびに色が変わっていく。「きれいだ」という月並みな言葉しか出てこない。
 
同時に手を触れるのも憚られるような、上等なものだということもわかる。それが何枚も、ここにはあって――思わず目が回った。通常ならば、一枚手に入れるだけでも困難な代物だ。それが『使われていない』。なんというか規格が違いすぎる。一族のみなさまと関わると、痛感することが度々ある。そして「お礼よ」とだけ言って、ただの門下生である私へこの貴重なものを譲ろうとしたイブキさまも、間違いなく一族の血を継ぐ方なのだと痛感した。
 
あの日、カリンさまはワタルさまのことを「ただの人」であると言った。私と同じ『人間』だと。けれど、すぐにそれを受け入れるのは、やはり難しい。こんな些細なことでも生きているフィールドが違っていると見せつけられてしまうのだから。
こぼれそうになったため息を慌てて飲み込んだ。

私は決めたのだ。この想いを抱えていることを誇れるような自分いようと。そのためには、まずは過度に卑屈にならない。褒められたらちゃんと受け入れる。相手が傾けて、砕いてくれた心を私が拒否するのは失礼だ。そうやって、心も強くなっていきたい。デンリュウがメガシンカして、あの人に認められて――この恋が「よい思い出」と笑えるようになるまで。そうすればいつか、私はこの想いと共に彼へ向き合えるはず。

「なによりこうやって後ろ向きでいたら、また怒られちゃうし」
「誰に?」
「誰って――」
 
イブキさまとカリンさまに、と言いかけ、消える。
気づけば背後からワタルさまが私の顔を覗き込んでいた。ぎゃっ! と悲鳴をあげる。なんでワタルさまがここに!? 距離を取ろうにも手には貴重なりゅうのウロコ≠持っているから、大きくは動けない。ワタルさまもそれをわかっているのか「落とすぞ」と箱を指した。

「ならびっくりさせないでください……」
「一応、入り口のところから声をかけたよ。けれどきみが深く考え込んでいたようで聞こえていなかったから」
 
ここまで近づいたんだ、と仕方なしにといったように肩を竦める。なら私が完全に悪い。
素直に頭を下げた。ワタルさまは構わないと手で制して、言う。

「それよりもイブキから聞いていないか? ここの戸は立て付けが悪いと。だから出入りにコツが必要で。それを伝えに来たんだが――」
「あれ? でも、すんなり入れましたよ」
 
蔵戸へ目線を向ける。当たり前だが、先ほどと何ら変化は無い。けれど、なんだか無性に嫌な予感がして、箱を棚に戻してそこへ近づいた。押し戸であるそれに力を込める。奥歯を噛みしめ、全身の力で押す。

「……あれ?」
 
びくともしない。確かに分厚い扉でかなりの力が必要だが、出るときは、体重をかけて押すことができるから引き戸(入るとき)ほどの労力はいらないはずだ。気づきそうになる事実に、血の気が引いていく。
様子がおかしい私に気づき、ワタルさまも同様に蔵戸を押すが変化は無い。私より断然力の強いワタルさまでも無理だなんて。これはいよいよ危ないかもしれない。

「おれが入ってくるときに、変なところを噛んでしまったかな」
 
でも手順は踏んでいたのに、と呟く彼に『手順』の詳細を聞く。当たり前だが、そんなこと全くしていなかった私はさらに青ざめた。『手順』を知らずにそれをしなかった私と、ちゃんとした手順で入ってきたワタルさま。おそらくその差異によって、蝶番などに影響が出てしまったのかもしれない。結果、蔵戸が開かなくなってしまった。

「も、申し訳ありません……」
「いや、そのことをしっかりと伝えていなかったイブキに否がある。気にしないでくれ」
「しかし……」
「このあたりはよく人も通る。おれやきみが帰ってこなかったら誰かが見に来るはずだ。そこまで心配をする必要はないさ」
 
なんなら壊してもいいし、とワタルさまは腰のボールへ手を伸ばす。中にはカイリューがスタンバイしていることは容易に想像がつく。すでに引いた血の気がさらに引いたような心地に陥った。

「っ、だめですよ!」
「冗談だよ。おれだってこの歳で説教は受けたくないから」
 
私には本気に聞こえたのですが!?
叫びたいのをぐっと我慢して、とりあえず様子を見ることで落ち着いた。ただ、夜になってもこのままならば破壊もやむなしとも、結論が出る。それだけは絶対に避けたいのが本音だ。早く誰か来ますように、とつい祈ってしまう。
 
一悶着あったせいか、どっと押し寄せた疲労に負け、私は適当な場所へ座りこんだ。床の冷たさに背筋が震えるが、立っているほうが今の私にはしんどい。ワタルさまはそんな私を見下ろし、言った。

「奥の方へ行けば、ソファがあるだろう」
「あんな奥に行ったらだめです。外の様子がわからなくなってしまいますから」
「はは、まるで見てきたかのような口ぶりだな」
 
笑いながら、彼は私の隣へと腰を下ろす。勢いのままどかりと座り込み、頬杖をつき、私に視線を向ける。なぜソファが蔵の奥にあるのか……知っている理由をわかっているのに、あえて口にしているのだと表情から読み取れる。

「あのソファ、まだあるよ。貰い手がいなくてね」
「ふかふかなのに」
「気に入ったならきみにあげようか?」
「……ワタルさま」
「すまない。つい。からかいすぎたな」
 
――実のところ私がこの蔵に入ったのは初めてではない。もっとも、そのときは閉じ込められるなんてことなかったけれど。


あれは、ワタルさまに夜の特訓がバレて、半年かそこらが経ったほどのころのこと。
同期が一人、この地を去った。彼は私と同様になかなか芽が出ず、二人でずっと励まし合っていた相手だった。正直、今思えば、どこか傷の舐めあいをしていたのかもしれない。同じところを延々と足踏みし続け、他の同期の背を見送るのはなかなかに堪えるから。平気なふりをしていても、心には鬱蒼とした気持ちは蓄積されていたのだろう。
 
そんな落ちこぼれ同士であったから、ポケモン同士も仲がよかった。何かあれば相談して、乗り越えて。仲間として、友人として、よい関係を築けていた。……そう思っていたのは私だけだったのかもしれない。

ある日、彼が忽然と姿を消した。
宿舎の個室に残されていたのは修練着と手紙のみ。もう耐えられない、といった内容だったと聞いている。実が結ばなくて、結果に繋がらなくて辛い。ずっとこのままであることが嫌だ。だからここにはいられない、いたくない、と悲痛な心境が書かれていたそうだ。

『去る者は追わず』。その方針に倣い、部屋はすぐに片付けられた。男女の宿舎は分けられているから、私が直接その部屋を見たわけでは無い。しかし「急に思い立った」というよりも段階を踏んで片付けを進め、準備を経ていた様子が覗えたとのこと。

それを聞いて、さすがに落ち込んだ。一番彼と話していたのは私だ。気づいていたら、と後悔が押し寄せる。何かが変わったのかもしれない。もしかしたら彼なりのヘルプサインを出していたのに、私が見落としていた可能性もある。
ぐるぐると渦巻く感情は私の中を一日中ずっと支配していて、結局、消灯時間になっても寝つくことができなかった。かといって、夜の特訓に行く気にもなれない。とにかく空っぽになりたくて、気づけば私は宿舎を抜け出し、ふらふらと当ても無く歩いていた。寝ている
デンリュウは起こしたくなかったから、山のほうへ行くわけにもいかない。
 
そのとき、目に入ったのがこの蔵だった。言い訳のようだが暗かったこともあり、立ち入り禁止である場所ともわからなかったのだ。ただ、「戸が開いている」といった単純な理由でそこを選んだ。
鼻につく、どこか湿ったような匂い。古いものが発する特有のそれだ。所狭し、と置いてある品々には目もくれず、真っ直ぐ奥へ私は進む。すると、ここの雰囲気には似つかわしくない、少し派手めな二人がけのソファが置いてあった。合わないから、ここに押し込められたのかもしれない。
 
しかし、私にとっては渡りに船。自然と引き寄せられる。手で触れれば、身体が沈みこむほどやわらかい。ソファの上で、体育座りをして、蹲る。じっと心が落ち着くのを待った。
どのくらい時間が経ったのかは、わからない。丸めた身体に痛みを感じ、私はようやく顔をあげた。

「なんだ、泣いているわけじゃなかったのか」
 
低い声が響く。
ワタルさまが隣に座り、こちらを見つめていた。足元には電気式のカンテラが置いてある。ぼんやりとした橙色の光りに照らされたワタルさまに表情はない。

「言っておくが、後から入ってきたのはきみのほうだぞ。それにここは、門下生が許可無く入ってはいけない場所だ」
「……もうしわけ、ありません」
「いい。今回は見なかったことにしておく」
 
目的は同じだろうから、と呟きが届く。

「きみも考えていたんだろう。彼のことを。そして一人になりたかった」
「ワタルさまも、なんですか?」
 
肯定が返ってくる。気づけなかった、という苦い音とともに。

「あなたのせいではありません! 私が、一番近くにいた私が気づくべきだったんです!」
「それこそ間違いだ。おれはきみたちの指導者だ。立場を持つ人間は相応の働きをしなければいけない。怠っていたのはこちら側だ」
 
己を責める言葉が続く。その重い声に、何も言えなくなってしまった。それこそ『立場』が違いすぎる。指導される側≠フ私には、指導する側≠フワタルさまへ寄り添うことはできないのだ。それがこんなにも歯がゆい。ワタルさまのせいになんか、してほしくない。
同期の彼がどんな思いで、この決断をしたかはわからない。でも彼は私に負けぬほど、ワタルさまへ憧れていた。数々の言葉で語ってくれたそれを嘘にしたくない。
 
ずっと考えていた。どうして逃げてしまったのか、と。多分、彼は恐れてしまったのではないだろうか。長老さまに、ワタルさまに、「修行を辞める」と伝えることを。『去る者追わず』を知っているからこそ、すぐに受け入れられてしまうことが怖くなったのだ。――だからといって、こうして傷を残すことがいいことであるとは思えないが。
 
でも気持ちは、私にもよくわかる。この人に特別な気持ちを抱いているから、なおさら。
失望され、諦められるのは、ひどく恐ろしい。想像が容易い故に、必ず訪れる現実≠ナあると痛感してしまうのだ。黙ってしまった私にワタルさまは何を思ったのだろうか。静かに尋ねてきた。

「きみは苦しいか?」
 
言葉に隠された意味はすぐに理解できた。「辞めたいと言うのなら、今だ」と暗に伝えてくれている。実際、一人が辞めると連鎖的に数人も引きずられて、修行にピリオドを打つことはよくある。しかし、今回のように黙って出て行った場合、それは起こりにくい。やはりみな、このタイミングで言い出すのは気まずいのだろう。
 
だからこれはワタルさまの優しさだ。今なら、彼の言葉に乗じて辞めることできる。私が負担にならないようにいざなってくれていた。この人は本当に厳しくて、優しくて、どこまでもまっすぐに向き合う。導となる存在。

「私はやめません」
 
きっぱりと私は告げた。もう胸に巣くっていた暗い感情はない。ワタルさまの言葉が、私に新たな決意を与えてくれたから。

「彼のことは残念です。本当に、とても。けれど、だからといってそれに乗じる気は一切、私にはありません」
 
ワタルさまはただじっと耳を傾ける。まっすぐな瞳はこちらを貫き続けていた。どこかそれに『試されている』と感じる。怯えるわけにはいかなかった。
私は、ここにいる理由がある。

「先が見えなくて不安な気持ちは確かにあって、苦しいと思うときもあります。……否定はしません。でも、それから逃げたいと思うことは欠片も無いです」
 
私は私の意思でここにいます。
ワタルさまは私の宣言を聞いて、僅かに目を見開いた。「……そうか」と含みのある声が届く。その表情はどこか穏やかな見たことの無いもので――なぜか心に秘めている恋が顔を覗かせそうになった。きゅうと締めつけられる胸の内を見ないふりをして、己を誤魔化す。
 
幸いなことに気づかれる様子は無い。なにしろワタルさまは大きく息を吐き出し、額に手を当てながら、何かを噛みしめているようだったから。眉間に深い皺を作っていた眉根が緩み、先ほどとは打って変わって穏やかに言う。

「きみとデンリュウの夢、だもんな」
「はい! その夢を成し遂げるまでお世話になります。覚悟しておいてくださいね!」
 
ぐっと拳を握る私を見て、ワタルさまはまた笑った。


――思い返せば、なかなかに失礼な言動をしていたのでは?

記憶にある自身の言動に息が詰まる。あの時は混乱というか、いろいろと頭がいっぱいだったから気づかなかったけれど。違った意味でここから逃げ出したくなってきてしまう。羞恥で顔に熱が籠もり始めてきた。
そんな私の胸中を察したのか、はたまた焦りが顔に現われていたのか。ワタルさまは「啖呵を切られたのを思い出すよ」と愉しさを声に、表情に、滲ませる。

「あのときは私も、混乱を極めていたと言いますか……!」
「青ざめたり、赤くなったり……せわしいな、きみ。やっぱり奥のソファのほうへ行こう。しっかりと休んだほうがよさそうだ」
「大丈夫です! だから別の話をしましょう!」
「おれとしてはこの話を続けても構わないが」
「私が構います!」
 
あの夜の出来事は私の導となっているし、改めて彼へ再び恋に落ちたよい思い出でもある。もちろん発した言葉は本心だ。そこに後悔は一切無い。しかし、自分で回顧するのと、他人に――特にワタルさまへ掘り返されるのはワケが違う。

慌てふためく私を見て、ワタルさまは喉の奥で笑い声を殺しながら「わかった。別の話をしよう」と頷いた。この人に振り回され続けている悔しさがこみあがるが、どうにもできないのも事実。しかし、恥ずかしい思い出話を回避できたことに安堵した。

「そういえば聞きたかったことがあって」
「なんでしょうか?」
「この前、リーグでカリンとなんの話をしていたんだ? ほら、バトルの終わったあと、カリンがきみと話したいから出口まで送ると譲らなかったとき」
 
ほっと胸を撫で下ろしたのも束の間。次なる攻撃が私を待っていた。怒濤の攻めラッシュ。防戦一方。こんなところでバトルの再現をする必要は全くないのですが!?
あの内容をそっくりそのまま伝えるわけにはいかない。ワタルさまだって、自分の話をされているなんて夢にも思っていないだろう。きっと私が粗相をしていないか確認をしたいに違いない。そう思って、当たり障りのないことを言うが「嘘だな」と切り捨てられる。さすがの洞察力だ。感心している場合じゃ無いけれど。

「ほ、本当に他愛も無い話でしたので! ワタルさまが気にされるようなことは……」
「現に今、気になっているが?」
「うぐ……」
 
ああ言えばこう言う。そもそも勝てるわけがないのだ。なにもかも。この人には。仕方ない、と腹をくくる。

「恋の話をしていました」
「…………へぇ?」
 
たっぷりと生まれた空白のあとの一言がやけに刺さる。呆れているのか怒っているのか、はたまた愉しんでいるのかわからない。いたたまれなさが加速する。
馬鹿正直に全てを言う必要はない。しかし、先ほど見抜かれたところから嘘をつくなら多少の真実を混ぜた方がよさそうだ。恋心隠しているからこそ、あえてこういう話を出す。そうすれば、いい目くらましになるはず。――そう信じたい。なにより、恋の話に盛り上がるのは親しい間柄だけ。少なくともワタルさまと私にはそれはない。

「具体的にはどんな?」
 
しかし、私の予想に反してワタルさまは話を続けてきた。困ったのはこちらの方だ。予定ではここでこの話題は変わるはずだったのだから。しどろもどろになる私を見逃さない彼は、眼光を鋭く光らせる。ここからボロが出るのはまずい、と慌てて答えた。

「好きな人のタイプ……とか?」
 
嘘と真実の絶妙なラインであると自画自賛。恋の話にはつきものであるテーマなことも、真実味を増しているだろう。こういう判断力がバトルのときに発揮できればいいのに……。変なところで修行を生かしても意味がない。
でも、これでワタルさまも引き下がってくれるだろう。なにしろ、ここで話を膨らませる必要はないわけで。

「おれにも教えてほしいな。参考にしたい」
「えっ」
「きみの好みを教えてくれ。頼むよ」
 
頼む、の言葉とは裏腹に、のし掛かるプレッシャー。なんだろう、浮かべている笑みがあまりにも完璧すぎて逆に怖い。迫力にたじろぐが、逃がしてはくれないようだ。ピッピ人形が欲しい。そこら辺に落ちていたりしないだろうか。目で探すが、残念ながら見当たらない。
どうにか切り抜けなければ、と必死に思考を回した結果、口から飛び出たのは「ワタルさまが教えてくれたら!」という自分でもツッコミを入れたくなるような一言だった。

「…………おれの?」
 
ええいままよ! ここまで来たら突き進むしか道はない!

「はい! 私だけが言うのはフェアじゃないですから!」
「気になるのか? きみが?」
「もちろんです!」
 
ちょっぴり――うそ、かなり本音が入っていたのは否定できない。邪な気持ちだってある。だって私は彼へ恋をしているから。押しつけていた理想ではなく、ワタルさまの本音な『好きなタイプ』を知りたい。けれどなにより、これで話は流れるはずだという確信の方が強かった。だって、私になんか教えるメリットがない。これが現時点で私の持つ最強のピッピ人形≠セ。
 
ワタルさまもさすがに口を噤み、目を伏せる。その様子に胸が痛んで、申し訳なさが募っていく。しかし、これは自己防衛みたいなものだから許してほしい。静寂が気まずい空気へと変わっていく。私から話しかけるわけにもいかない。ああ、早く誰か助けに来てくれないかな。

「――正しく、誠実な心を持つ者」
「え?」
 
唐突に、無言の時間が終わりを告げる。
淡々に、はっきりとした――まるで私へ「聞き逃すな」というかのような声量をワタルさまは発する。先ほどの会話の続きだと気づくのにワンテンポ遅れた私は、彼を止めることができなかった。
ワタルさまは私の反応なんかお構いなしに、続ける。
 
――多くの人を見てきた。四天王として、チャンピオンとして、一族の長子として。あらゆる人間と関わってきた。そこには好ましいと感じる人も、嫌悪を抱く人も、等しくいた。でも揺るぎないものが一つ。まっすぐな心根を持ち、歩き続けるような心を尊いと感じる。
小さくても確かに光る輝きが美しい。失わず、生きていく姿に惹かれる。それに気づいた時、初めて彼は『己の欲』というものを抱いたという。

「良くも悪くもおれは一人で生きていかれる人間だ。そんな男だから『恋』だなんて関係ないと、どこか遠くのものに感じていた。誰かを欲しいだなんて、思ったことが今まで一度もなかった」
 
しかし、自身の心には気づいたら知らぬ感情が芽吹いていた。それは確かに育っていて、いつの間にか無視できないものになっている。
惹かれた輝きはあまりにも小さくて、その美しさに気づいている人間はごくわずか。なら、早く自分のものにしなければ。その瞳に映ることが許されるのは、己だけだ。
誰にも、渡さない。

「本当にかわいそうだ。同情する。心からね。このワタルが抱く欲を、ぶつけられる羽目になるんだから」
 
かといって、譲る気にもならないが。

「……恋をしているのですか?」
 
私はつい、そんなことを訊いていた。
今までの言葉たちは、誰か特定の人へ向けたものに聞こえた。誰かを明確に想っていて、浮かんでいるから紡ぎだせるものに他ならない。
同時に祈りともよく似ている。抱く感情を欠片でいいから理解して欲しい。心を砕いてほしい、という身勝手な―私にも覚えがある、恋という祈り。
 
ワタルさまの瞳の奥、暗い灰色の瞳孔が細められ、こちらを捕らえる。その色にどきりと心臓が跳ねた。先ほどの言葉たちは私に向けられているわけではないはずなのに、時間差で全ての言葉が突き刺さってくるように感じたからだ。

「きみはどう思った?」
 
ふいにワタルさまが距離を近づける。私は後退ることも許されない。

「きみは、おれが恋をしていると思ったのか?」
「わ、私は」
 
思った。この人が恋をしていると。惹かれて、焦がれて、欲が溶けている恋。でも決定的に違うのは、ワタルさまは恋を叶えようとしている。それがなんて眩しいのだろうか。

「……ワタルさまが恋をされていると思いました。どなたか、心に決めた方がいらっしゃるのですね。その方が、とても大切であるこということも伝わってきました」
 
ああ、失恋だ。カリンさまが言っていた通り、ワタルさまに相応しいのはこの人が『選んだ』人なのだ。そして、私はそこから外れてしまった。叶うはずの無い恋だとわかっていた。わかっていたけれど、改めて突きつけられると悲しい。彼のことが本当に好きだから。
だから少し油断した。私の恋が顔を出していたことに、私自身が気づいていなかった。感情が大きく揺さぶられたせいだろう。恋をしまい込んでいた箱の鍵が緩む。
交わっていた視線。私の瞳の奥に、彼は見つけてしまったのかもしれない。

「――まさか、きみは」

驚愕に満ちたワタルさまの表情を見て、瞬間、一気に熱が引いた。視線を逸らし、溢れ出ていた恋を慌てて押し込める。気づかれた? まさか、そんな。ここまで隠し通していたのに!
 
修行だって道半ば。追い出されることはないだろうけれど、でも明らかに区別はつけられてしまう。明確な線を引かれてしまうのだ。なにより恐ろしいのは失望されてしまうこと。それはいやだ。絶対に、いやだ。
私のことを何も思っていない、想いもしない、冷めた瞳を向けられるのは怖い。
 
傷跡が残った指が、私に迫ってくるのが視界の端に見えた。ワタルさまの指だ。それさえもいまは恐怖の対象で、小さな悲鳴が私の喉からもれる。それが聞こえたのか、彼の指は動きを止めた。ワタルさまは口を開いて――

「ねえ、ちょっと、聞こえるかしら? まさか閉じ込められていないわよね?」
 
代わりに涼やかな涼やかな声が飛んできた。

「イブキさま!」
「姿が見えないからと思ったら、やっぱり……! ごめんなさい、入る時のコツ、教え忘れていたのを思い出して」
 
今の状況に比べれば、些細なことだ。むしろ、イブキさまは救世主に他ならない。
私は立ち上がり、ワタルさまをなるべく見ないようにして、その横を通り抜けて蔵戸へ近づいた。扉越しに、ワタルさまも閉じ込められていることを伝えれば「すぐに人を呼ぶわ!」と返事が返ってくる。そのまま立ち去りそうな彼女を引き留めて、どうにかイブキさまはここにいてほしいという旨を訴えた。
 
ようやく解放されたころには、すっかり日が暮れ、一日が終わろうとしていた。謝罪を繰り返すイブキさまへ、こちらこそと頭を下げる。
それよりもここから早く離れたかった。背中へ痛いほど、視線が突き刺さっている。その持ち主は一人しかいない。
もう遅いかもしれない。でも祈らずにはいられない。私の恋に気づいていませんように。

ただの勘違いと判断してくれますように。胸の奥で、アルセウス神様を思い浮かべる。
後ろはまだ、振り向けない。 
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