ついにこの日がやってきた。楽しみなような、不安なような。でも少し期待もある。なんだかRPGゲームのラスボスが待っている最後のお城に挑む気分。場所のことだけを考えれば、あながち間違ってもいないのだけれど。
私はいま、セキエイ高原に聳え立つポケモンリーグにいる。とはいえバトルトレーナーのように四天王やチャンピオンにバトルを挑むためではない。仕事として、ここにやってきた。
私がこれから任される公式バトルコートとは、各地にあるジムや正式に登録されているバトル施設のことである。つまり限られた挑戦者しか来ない場所は整備の依頼も少ないのだ。必要になったときには他のバトルコートとは比にならないレベルの作業量になるけれど、回数だけ見れば決して多くない。
だから結局私の仕事は、今まで同様に野外のバトルコート整備が中心のままだった。今回のポケモンリーグのコート整備も月に一回に行なわれる定期点検によるもので、以前から決定されていた日程。それでも引き継ぎの説明を受けたときにはすごく楽しみにしていた仕事の一つでもある。けれど、当時とは話が明らかに違ってしまっていた。主にここのチャンピオンのせいで。
ちなみに今日のことはワタルには言っていない。まあ、チャンピオンだから点検日程を知らないわけがないけれど。
あれから、私たちは会っていない。メッセージのやりとりはしても、世間話のような当たり障りのないことばかり。いくらワタルから「普段通りに接して欲しい」と言われていたとしても、多少は意識してしまうもの。私だけがあたふたしているばかりなように思う。最後の送られてきた「忘れたふりはさせられない」なんて釘を刺してきたことを、ワタルのほうが忘れているんじゃ無いだろうか。それぐらい、お互いにあの夜のことに一切ふれていない。
よし、と気合いを入れる。裏手へ回って、スタッフ専用の出入り口にいる警備員さんに声をかけた。企業用の通行パスを見せれば労いの言葉と共にドアが開いた。
まずは受付に行かないと。ポケモンバトルの難関として君臨する表側とは違い、裏側はリーグ運営組織の要素が強い。多くの職員が働いている。本当にここはセキエイリーグ? と勘違いしそうになるほど、一般企業と変わりない。
一人で行なう受付は滞りなく進んだ。前に一度先輩と来たこともあったおかげだろう。特にまごつくこともなく終えられて、胸を撫で下ろす。とりあえず第一関門突破というやつだ。しかし、建物内を全て把握しているわけでもないので、いただいたマップを片手に通路を見比べつつ、職員さんに案内を受けながら進んでいく。次からは一人で行くことになる。今から頭に叩き込んでおかないといけない。
そういえば、とふと疑問がわいた。
「あの、今日って挑戦者のトレーナーとかは来るんですか?」
「本日はメンテナンス日として設けていますから、チャレンジャーは来ませんよ」
作業時間は気にしないでください、と職員は笑う。いわゆる「休業日」といった形を取っているらしい。基本的にポケモンリーグは年中無休ではあるけれど、例外は存在するようだ。
「四天王のみなさんやチャンピオンも、今日はお休みを取られている方がほとんどだったはずです」
「そう、ですか」
――ならワタルもいないのかな。バトルができない以上、ここに詰めている理由もないか。
今の職員さんの話によれば、今日は公式にここを「休み」にしている日ということだ。チャンピオン≠ヘいろいろ頼られる身ではあるけれど、ここでバトルすることがメインの役目。それが無いことがわかっているのなら、リーグに来る必要性も低い。それこそちゃんとした休日を取るに決まっている。……というか取っていてほしい。いま、ワタルと会うのはちょっと、いや、かなり気まずいから。
休んでいますように、休んでいますように。と心の中でワタルに念じながら、まずは最初の部屋へと入っていく。
「こちら側へ向かうと次の部屋がありますので」
示された方向には大きな扉が。どうやら私は挑戦者と同じ道順で進んでいくようだ。そのあたりの動作確認もリストに載っているから当たり前なのだけれど、ついドキドキしてしまう。バトルトレーナーが誰しも憧れている道を、バトルもなにもしない私が歩くなんていいのかな。
「では、よろしくお願いいたします」
「はい! よろしくお願いいたします!」
職員さんは頭を下げて、出ていく。それを見送って、肩にかけていた荷物を降ろした。作業時間は気にしなくていいと言われたが、定期点検に当てられている日は本日のみ。段取りよく進めていかないと全行程を終わらせることはできない。当たり前だが、手を抜いてもいけない。本格的な点検は半年に一度。それまでに何かあっては困るからだ。ポケモンとトレーナー、両方の安全が守られつつ、最大に力を発揮してもらう――そのための仕事を私はしている。
荷物の中からいくつかのモンスターボールを取り出す。ヌオーとコイル、ポリゴン。そして私のサンドパン。
「ヌオーとサンドパンはバトルコート、コイルとポリゴンは電気系統のチェックをお願いね。今日一日、がんばろう! おーっ!」
私の声にあわせて、ポケモンたちも元気よく返事をしてくれた。それぞれが持ち場についたことを確認し、私も自分の仕事をするべくヘルメットを被る。バインダーを手にし、各箇所のチェックリストに目を通した。いつも以上の項目の多さを確認して、緊張感で背筋が伸びる。それほどこの仕事が重要なものであると再確認した。
「よしっ!」
改めて気合いを入れなおし、私は一歩を踏み出した。
最後の部屋、本来であればチャンピオンが鎮座するであろうバトルコートに入った瞬間、思わず息をのんだ。
誰もいないはずなのにプレッシャーを感じる。きっと拭えないほどに、この空間自体が緊張感で染まっているのだろう。ピリピリとした空気を感じる中、ミニリュウの像と目が合った。きゅるんと丸い瞳でこちらを見つめるミニリュウは素直にかわいい。近寄ると、つるりとした金色の身体に私が映った。詰めていた息が吐き出され、代わりに笑みがもれる。
「もしかしてワタルの趣味?」
「好きにしていいと言われたからな」
ただの独り言に、声が返ってくるなんて思わなかった。ぎゃっ! と飛び上がった私の後ろからワタルが近づいてくる。「いいだろう? チャレンジャーを迎えるミニリュウ」なんて言いながら私の横に並び、ミニリュウの像を撫でる。
「登竜門といった意味ではコイキングやギャラドスでもよかったんだが。『ギャラドスはともかくコイキングではどうにも締まらない』と周りから不評でね。それに、ミニリュウのほうがおれらしいとも言われたから、ミニリュウにしたんだ」
「まあ、そりゃあね」
四天王を倒してここまできた挑戦者が最初に目にするのが金色のコイキングだなんて。悪い意味で気が抜けるというもの。それも一つの試練だと目の前の男は言いそうだけれど(というか、言う姿が目に浮かぶ)。だったらミニリュウのほうが絶対にいい。ワタルの手持ちにはカイリューもたくさんいるし。
「……休みじゃなかったんだ」
素直に訊くと、ワタルは「今日はデスクワークを片付けていた」と答えた。彼の足元にはいつの間にか私のサンドパンが擦り寄っている。その首元を撫でながらワタルは目を細めた。
「他の四人と同様に、おれも休みだと思っていたんだろう? もしくは休みだと嬉しい、あたりか」
「そ、それは」
「ひどいなぁ。さすがのおれでも、傷つく」
言葉とは裏腹にワタルの口元も目元もゆるんでいて、穏やかだ。サンドパンにふれていた指を離そうとするが、名残惜しそうにサンドパンは鳴く。それ聞いたワタルは宥めるように最後にもう一度だけ、サンドパンの鼻先を撫でた。
「あとはきみの仕事ぶりを見学に」
「私の?」
「引き継いだばかりの担当者がどんな作業をするのか、リーグを預かる責任者として確認しておかないといけないからね」
ああ、なるほど。それは確かに一理ある。私が先輩からここの担当を引き継いで最初の点検なのだから、彼の言い分はもっともだ。私たちは二人とも仕事をしに、ここに来ている。現に今のワタルが纏う空気はいつもよりピリッとしている。変に身構えていたのは私の方だけ。胸の中で反省を繰り返した。ちゃんとしないと。それこそ初仕事なのだから。切り替えよう。
「端にいれば邪魔にならないな?」
頷くとワタルはすぐに行動を開始した。宣言通り、部屋の隅へ。
刺さる鋭い視線に緊張しないわけではなかったけれど、かといって気にしていても仕方ない。それこそ「見ないで」なんてことも言えない。……なんだか上司の前でやるより緊張するかも。
ポケモンたちに指示を出しながら、一つずつ仕事を進めていく。時間通りに、問題無く終わらせていった。最後のチェックを一通り行なって、ポケモンたちにも怪我がないかを確認。人に対してもポケモンに対しても、労災は怖いのだ。うん、みんな問題なく元気。バインダーの「ポケモンの怪我」欄にチェックマークをつけて、今回の点検は終了。ポケモンたちをボールに戻し、ヘルメットを外した。するとそれを待っていたかのように「おつかれさま」と背中から声がかかる。
「どうだった?」
投げられたエネココアの缶をキャッチして、彼に尋ねた。自分としても満点に近い仕事ぶりだったと自負している。ワタルだってそのことには気づいているはずだ。だから余計に彼からの評価が気になった。
「及第点だな」
さらりと告げられたそれは私の欲しかった言葉じゃない。うぐ、と喉の奥がつぶれてしまう。
「きみの仕事が丁寧なのは知っているからね。これぐらいのことは当たり前だろう?」
ワタルの視線は整備されたバトルコートに向けられていた。その瞳に満ちる信頼の光に気づいて、先ほどの言葉に抱く感想が変わる。嬉しい、なんて思ってしまった。現金な性格だなぁ、と自分自身に苦笑する。それになんだか照れてしまった。握りしめていたエネココアの缶から伝わる熱以外のものが、私の身体の温度をあげているようで、それを隠すようにわざと素っ気無く態度を取る。
「それ、褒めているの?」
「もちろん」
見ていて楽しかった、とワタルは添えた。
「勉強になった。自分が知らない分野の仕事をちゃんと自身の目で見るのは、得難い経験になると痛感したよ」
「そっか」
なら、頑張ってよかった。実のところちょっと不安だったのだ。初めてのリーグ点検、しかも一人。不測の事態が起きたらどうしよう、なんてことを頭の片隅で考えていた。けれどこうして全部、問題なく終えられた。最後なんてワタルの目の前で整備したのだ。これはかなり、自信がついたかも――って、まさか、そんな。
もしかして最初からこのために?
「わ、ワタル」
彼の名前を呼んだ声は思った以上に震えていた。
でも次の言葉は、絡みほつれて出てこない。なんて言ったらいいのか、わからなかった。
本当にワタルが私に自信をつけさせるために、同席したのだとしたら。もしかしたら「デスクワークを片付けていた」だって嘘かもしれない。私に負担をかけさせないための理由づくりの可能性だってある。ワタルはいつだって、誰かのために動く人だから。
「あのさ――」
「ところで」
私の声をワタルは遮った。すぐさま「今日はもう会社に戻るのか?」とも。――気にするな、ってことだ。これは。自分が好きでやったことだから、私が気にかける必要はない。そう言いたいのだ。たとえそれが私のためだとしても。
だからワタルはずるい。ずるいほど、優しい。
「……今日はもう帰らないよ。直帰。報告の連絡はするけど」
胸を締め付ける感情を無視して答える。彼の優しさを無駄にはしたくない。瞬間、ワタルの纏う雰囲気が変わった。これはよく知っている。彼のプライベートの空気感だ。セキエイチャンピオンのワタルから、私の友人であるワタルへと切り替わっている。
「じゃあ食事でも」
このお礼にせめても今日は私が奢ろう。勝手にそう決めて、誘いに頷きかける。しかし、はたと思い出した。ワタルと食事に行くときはいつも二人きり。きっと、この後もそうだろう。いつもだったら気にならないことも、気になってしまう。なにしろ私は目の前の男に告白されている。そしてあろうことか、受け入れも、拒否もしていない。加えて、たったいま彼の優しさにふれたばかりなわけで。
自覚した途端に、急に恥ずかしくなってきてしまった。つい先ほどまで平気だったのに。お互いに仕事モードだったから? ワタルがそういう雰囲気を出していなかったから? というか私、やっぱりここで返事したほうがいい!?
まさにこんらん¥態の私にワタルは「はは」と笑いをこぼす。
「この前のことがこんなにもきみに効くとはな」
「だ、だって!」
「嬉しいよ。おれのことを意識してくれている証左に他ならない」
肩を震わせるワタルはひとしきり笑ったあと満足したのか、大きく息を吐きだした。
「言っただろう? 返事はまだいいって。おれは今まさに、きみにアプローチしている最中だからね」
「あ、あぷろーち」
「きみがおれを異性として意識している間に、思う存分暴れさせてもらうよ」
それはそれとして。食事はどうする? 断ってもらっても、もちろん構わないが。
ちゃんと逃げ道を用意してくれているあたり、本当にこの男はずるい。
「行く! お腹減った!」
「いい返事だ」
荷物を担ぎ、業務端末から会社へ仕事を終えた旨と直帰する旨を連絡する。すぐさま返事が来たので、上司も気にかけてくれていたのかもしれない。
二人で並んで歩く。チャンピオンの執務室に寄らないあたり、やっぱりデスクワークを片付けるというのは嘘だった可能性が出てきた。もしくはとっくに終えて、私のところに来たとか。そうなると、なんとなく悔しさがわいてくる。いつだって私はワタルの手のひらの上だ。
食事するお店の相談をしていると、向かいから誰かが歩いてきた。あれは四天王のシバさんだ。ワタルが手を挙げて声をかける横で、私は軽く会釈をする。シバさんも大きい身体を縮こめて返してくれた。その様子がちょっとかわいいなんて思ってしまう。私を怯えさせないように、と気遣ってくれているのがわかるから。
「今日の夜勤はシバだったか」
「ああ。ワタルもてっきり休みを取っているとばかり」
「片づけたい仕事が残っていたからな」
あくまで私の前では「仕事の片付け」を徹底するつもりらしい。もうとっくにバレているのだから、本当のことを言ってもいいのに。
ワタルとシバさんが、それこそ仕事の話をしはじめたあたりでワタルの裾を引く。置いてけぼりの私を見て「ああ、すまない」と話を切り上げようとする彼に首を振った。
「私、受付行かないといけないから、先に行ってるね。外で待っているから」
「しかし……」
「案内図も貰っているし、迷わないよ。気にしないでいいからね」
シバさんに「お先に失礼します」と頭を下げると「こちらこそ、引きとめてすまない」と謝罪された。その動きはやっぱりかわいい。シバさんには不服かもしれないけれど。
歩き出した彼女の背に視線を向ける同僚の表情を見てシバは息をのんだ。その呼吸音に気づいたワタルは肩を竦める。どこか自嘲めいた声のまま、ワタルは言った。
「友人なんだ、昔からの」
友人に向けるような眼差しとは思えなかったが。出かけた言葉をシバは飲み込み、代わりにそうか、とだけ答えた。
「シバもこれから彼女に会う機会は多くなるはずだ」
「……バトルコートの整備か」
「察しがいいな。腕は確かだ。安心して任せられるよ」
「ワタルがそう評するのなら、たいしたものだな」
挨拶をしたばかりの彼女を思い出す。自身とは比較にならないほどの細腕と背丈をした女性。いくらポケモンたちの力を借りるとはいえ、バトルコートの整備は重労働だ。だというのに、ワタルからの信頼は厚い。いい整備士なのだろうことはシバの想像に容易かった。
「――ああ、本当に。たいした女性だよ、彼女は」
驚愕を、今度は表には出さなかった。正しくはシバ自身の精神力により自制した。先ほどの眼差しを見ていたおかげで、なんとか抑えることができたのだ。不意打ちだったら危なかった。
自分とワタルの付き合いは長い。長いからこそ驚いた。けれど同時に安堵も広がる。シバはひっそりと隠れて息を吐き、言葉を口の中で噛み殺す。
――そんな表情もできたのか、ワタルは。
苛烈で鮮烈。こちらを喰う瞬間を常に探し、逆に己の隙は一切見せない。それがバトルトレーナーの頂点、セキエイチャンピオンであるワタルへ対し、シバの抱く印象だ。しかし今の彼は違う。大切な相手を想い続ける、ただの人であり、男だった。あるのは穏やかな愛情のみ。
「シバ? どうかしたか?」
「……いや、なんでもない。話があるなら早く済ましたほうがいいだろう。彼女を長く待たせるわけにはいかんしな」
眉根を寄せ疑いつつも、ワタルは話を進めた。「彼女を待たせるわけにはいかない」の箇所が効いたであろうことは、明白だった。
「(難儀な男に好かれた女性もいるものだな……)」
「おい、シバ。だいぶどころか、かなり失礼なことを考えているだろう。ちゃんと話を聞け」
ワタルの鋭い洞察力は、どんなときでも健在らしい。