chapter: W

ワタルと出会ったのは、まだ私がスクールに通っていた頃まで遡る。
今でこそポケモンと共に旅に出る子は多いけれど、当時、私の周りではあまり旅に出る子が少なかった。昔はポケモンリーグやジムの仕組みも今より整っておらず、そのせいもあって私自身も旅に出ようなんて考えもしなかった。関わるポケモンといえば、いつの間にか家に居着いてしまったニョロモだけ。「自分のポケモン」に興味を持つのは遅かった。

けれどスクールでポケモンのことを学び、次第にクラスメートが一人、また一人と「自分のポケモン」を持ち始めると、どうしてもうらやましくなってしまうのは子供の性といえるもので。「日々のお手伝いを頑張る」という条件をなんとかクリアし、ようやく私が自分のポケモンを手にしたのは、十二歳の頃だった。迫るスクールの卒業祝いも兼ねていたのだろう。渡された空のモンスターボールを片手に紆余曲折ありながらもゲットしたのは、甘えたがりのサンド。
 
サンドは臆病であると聞いていたけれど、この子はすぐに私に懐いてくれた。普段の生活だけではなく残り期間のスクールにだって一緒に通った。さすがに授業中はボールの中にいれていたけれど。休み時間には見様見真似のバトルをみんなでしたりして、ポケモンという不思議な生き物に私はますます魅了されていった。
大好きなサンドと一緒なら、なんでもできる。十二歳という大人ぶりたい年頃だったこともあり、胸に抱いた想いを信じて揺るがなかった。

そんな良くも悪くも子供だった私がいつも通りスクールからの帰り道に見つけたのは、傷ついたコラッタ。鞄に入っていたキズぐすりで治る程度だったので、すぐに元気になったその子は帰ろうとした私をしきりに引き止める。最初こそ困ってしまったけれど「サンドがいるから大丈夫」なんて考えが浮かんでからは、素直にコラッタの後ろをついていった。

草むらを抜け、街の方へ。薄暗い裏路地は思わず足が止まったけれど、コラッタが離れていってしまう前に追いかけた。冒険の気持ちがあったのは否めない。わくわくとした期待と共に子供の足でだいぶ歩いたころ、ようやくコラッタが止まったのは外れにある古びたビルのような建物だった。薄汚れた外壁にはツタが這い、廃墟のような雰囲気を醸し出している。

「どうしてここに――」
 
私を連れてきたの? と問いかけて、ピンと思いつく。廃墟の建物なんてコラッタやラッタの住処におあつらえ向き。もしかしたら群れや家族で、ここに住んでいるのかもしれない。他のコラッタたちが同じように怪我をしているから、私を連れてきた? 鞄の中には、いざというときのためにキズぐすりがいくつか入っている。数が多いと困るけれど、何匹かは治療できるはずだ。

でも、と躊躇う自分もいる。この不気味な建物に入るには、なかなかに勇気が必要。大人を呼んできたほうがいいに決まっている。鞄には防犯ブザーを下げているけれど、人がいなくては音が鳴る意味がない。
迷う私に痺れを切らしたのはコラッタだった。甲高く鳴いた後、私の足を身体で押してくる。私が転びそうになるのもお構いなしだ。

「わ、わかったって! 大丈夫、入るから!」
 
でもせめてサンドだけでも外に出させて、とお願いをしてボールを取り出す。勢いよく飛び出たサンドはきょとんした瞳を瞬かせている。家やスクールとはあまりにも違う光景に驚いているのかもしれない。しかし説明している暇はない。

「サンド、とりあえずついてきてくれる?」
 
尻尾を振って頷いたのを確認して、私はようやくビルの中に入った。壊れたドアに鍵はかかっていないようで、少し開いている。なんとかそこから身を滑り込ませ、私は中に入った。

外と比べて内部は思いのほか片付いていた。もっとこう……段ボールとかが散らばっているイメージがあったから。泥やペンキ、スプレーの汚れがあったり、その空き缶たちが転がっていたりはするけれど、想像よりずっと歩きやすい。
当たり前だが人の気配はなかった。シンとした空気が肌を冷やす。サンドがくしゃみをもらした。私は感じないけれど、ほこりっぽいのかもしれない。電気も通っていないから、薄暗くてちょっと怖い。ゴーストとか出てきそう。

「怪我している子はどこにいるの?」
 
コラッタに尋ねるが返事はない。それほどまでに怪我している仲間は重傷なのだろうか。
ならキズぐすりだけでは足りないかも。やっぱり大人を連れてきたほうがよかったんじゃないかな。

突如、私の身体がぐあんと揺れる。ぼんやりと考え事をしていたせいもあって、通り過ぎた部屋から伸びていた腕に気づかなかった。悲鳴を上げる前に、口が覆われる。急に訪れた出来事に恐怖と緊張で身体が強張った。そうだ、サンドとコラッタは!?

私のすぐそばを歩いていたサンドは異変に気づいたようで、私を捕まえる腕に飛び掛かってくる。しかしそれも叶わない。潜んでいた他のポケモンに阻止されてしまったのだ。どうしよう、これじゃあなにもできない!

「んーっ! んーっ!」
 
せめてもの抵抗でじたばたと暴れてみるが、腕の力は強くなる一方。苦しいというよりも、痛い。

「さわぐな。さわがないなら、手を外す」
 
耳元で声がする。男の人――とは違う。もしかして男の子? スクールにいる男子のような、そんな声の高さだ。ともあれ解放してもらわなくてはなにも始まらない。言葉に頷くと、彼はゆっくりと手を離してくれた。
 
詰めていた息と苦しさのせいで、咽てしまう。ようやく呼吸が整ったころ、その子を見た。やっぱり子供だ。私と同じぐらいの男の子。薄暗い中でもよくわかる紅い髪が印象的だ。彼は私をじっと睨んで、呆れたようにため息をつく。

「なんでこんなところに子供がいるんだ」
「あなただって子供じゃんか」
「おれはいいんだよ」
「なんで? 大人がいるから?」
「……おれ、一人だ」
 
じゃあ私と同じじゃない。指摘をすれば、彼は「同じじゃない」と否定した。

「なら、きみは知っているってことだな? ここが何をしているところか」
「え? ここ、コラッタたちのすみかじゃないの?」
「……認識の相違があるみたいだ」
 
にんしきの、そうい。難しい言葉に顔をしかめていると、彼はまたため息をついた。

「住処は住処でも、コラッタのじゃない。ポケモンハンターのだ」
「ポケモンハンター!」
 
スクールで習ったことがある。ポケモンにひどいことをしたり、珍しいポケモンを正規の方法でゲットするのではなく、盗んだり、売り捌いたりする人たちのことだ。ここがそのアジト? 確かにこんな人が来なさそうなところは、ぴったりかもしれない。

「おれはそのポケモンハンターを捕まえにきたんだよ」
「ひとりで?」
「だって、フスベうちのポケモンに手を出したんだ。黙ってなんかいられないじゃないか」
 
ちょうど気づいたのがおれだけだったから、いそいで追いかけてきたんだ、と彼は言う。
ええと、つまり。この子のおうちのポケモンがハンターにつかまっていて。それを助けるために彼は来たということ? もしかして、あのコラッタもここから逃げ出して、それで怪我をした? でも他の仲間が捕まっているから私を連れてきたのかもしれない。
それに気づいたら、もうじっとなんかしていられない。一歩、彼に近付いて叫ぶ。

「わ、私もてつだう!」
「だめだ」
「どうして!」
「危ない」
「じゃあ、あなたは危なくないの?」
「おれにはこいつがいるから」
 
視線の先を辿れば大きな身体。私のサンドを捕まえていたのは、カイリューだった。初めて見るドラゴンポケモンに声が出なくなる。カイリューは丸い目で私を見下ろすと、何も言わず腕の中のサンドを解放してくれた。飛び出してきたサンドは私のところへ一目散に転がってバッと身体を広げる。すぐさま彼らに唸り声をあげた。威嚇するサンドを慌てて宥めていると「勇ましいな」とだけ、彼が呟いた。

「ハンターにみつかったら危険だ。さあ、はやく逃げて」
 
けれどそう簡単に頷けない。だって彼は私と同じ子供で、一人しかいないのだから。いくらカイリューがいたとしてもだ。素直に言葉に従うことが私には難しかった。
私が浮かべる躊躇いの表情に気づいたのか、彼はそっと目を細める。まるで小さな子をあやすかのような声で、囁いた。

「おれなら大丈夫。きみが気にすることじゃない」
「……でも」
「いい加減、ききわけてくれ。まきこみたくない。――きみはまっすぐ、家にかえるんだ。
いいね?」
 
だから今すぐにここから出るんだ。

両親や先生が使うような、有無を言わせない圧力。それを目の前の、しかも私と歳も変わらない男の子から感じるなんて。彼の言う通り、逃げたほうがいいに決まっている。わかっている私が躊躇う理由はただ一つ。

「あなたが大丈夫だって、なんで言いきれるの」
 
私が来なかったら、そしてここで帰ってしまったら、彼はまた一人。それはとっても危険なことじゃないのだろうか。私がいても足を引っ張るだけかもしれない。いくらスクールで勉強して、クラスのポケモンバトルでは好成績だったとしても、私は大人に到底敵わないだろう。なにせサンドは進化さえしていない。
 
でもだからといって。ここで彼を置いていくことが、やっぱり私には「正しいこと」とは
思えなかった。一人でできないことも二人なら。ポケモンと人が手を取り合うように、私たちだって協力すればできることが増えるはず。

「おれは修業をしているから」

その言葉通り、彼なら大人にだって勝ってしまうんだろう。そんな確信がある。自分で言うように彼は本当に大丈夫なのかもしれない。でもやっぱり――
私が心配・・・・なの。あなただって、私とおなじ、子供なんだもの」
 
両親がサンドを持たせてくれているのも、鞄に防犯ブザーが吊り下がっているのも、先生が「気をつけて帰ってね」と見送ってくれるのは、私がまだ「子供」だから。危ないことがあったときに、子供である私だけではどうにもならないことを「大人」は知っているから。

「あなたが大丈夫だっていうのなら、きっと大丈夫なんだと思う」
 
彼がポケモントレーナーとして一人前なことを疑っているわけじゃない。育てるのが大変なドラゴンポケモンをカイリューにまで進化させている時点で、すごい人だとわかる。

「でも、信じることも心配することも一緒にできるんだよ。信じているけど、心配なんだよ」
 
だから一人にならないで、と思う。私にできることは少ないけれど、かといって全く無いわけじゃないはずだ。私もサンドも、ポケモンを救いたい気持ちと彼の力になりたい気持ちは、
どちらも本物だから。

彼は黙ったまま、じっと私を見つめて最終的には「わかったよ」と頷いた。喜びで頬を染める私にすぐさま釘を刺す。

「ただし、おれの言うことをちゃんと聞くこと」
「もちろん」
「なにかあったら防犯ブザーを鳴らすこと。一瞬なら、相手も怯むだろうから」
「わかった。ねえ、そういえば」
「なんだい?」
「あなたの名前は?」
「あれ、名乗っていなかったっけ」
 
すっかりわすれていた、と呟いた彼の名前を、私はようやく知ることができた。

「ワタルだ。よろしく」


ワタル曰く、ハンターの数は二人らしい。そしてワタルはまだ相手には見つかっていないとのこと。身を潜めて機会を窺っていた矢先、迷い込んできた私を発見して驚いたというわけだ。最初はハンターの仲間だと思ったらしい。だからあの容赦の無さだったのか、といまさらながら合点がいく。すごく痛かった、と訴えるとワタルはバツの悪そうな顔で謝ってきた。
 
私たちは静かに、そして慎重に一部屋ずつ確認していく。紆余曲折あって、私たちはハンターの捕縛というよりもポケモンの救出を優先することにした。ワタルとしてはハンター諸共捕まえたいようだったけれど「なにはともあれ、ポケモンの無事が一番」と二人で話し合ったのだ。最終的な結論はじゃんけんで決めたのだけれど。
一階の部屋にポケモンはいなかったので、階段で二階に向かう。

「……声が聞こえる」
 
ぽつりともらした私の隣でワタルは頷いた。「これまで以上に気をつけよう」の一言にすぐさま同意する。足元にいるサンドにも「静かにね」と念押しをした。
近くの部屋からは人の気配がしない。二人でそっと中に入る。ほっと息を吐くのも束の間に、ツンと嫌なにおいが鼻を刺激した。

「くさい……」
 
身も蓋もない感想を言う私にワタルは苦笑しながら、棚を指した。

「こいつのにおいみたいだ」
「ペンキとスプレー? なにこれ?」
 
色をつけるための一般的な塗料缶が置いてあった。新しいものがほとんどだから、ハンターたちが持ち込んだものに違いない。そういえばここに来るまでにも空き缶が放られていたっけ。なんでこんなものをポケモンハンターが? いまいちピンとこない。

でもワタルは違ったらしい。すぐさまハンターたちの目的に思い至ったのか、乱暴な舌打ちが響かせ、苦々しい声で答えを告げた。

「おそらく、ポケモンの身体にぬっているんだ」
「なんのために?」
「色違いのポケモンの存在を知っているか?」
「ええと、たまに発見される普通のポケモンとは身体の色が違うポケモンで……って、まさか、そのために!?」
「そのまさかだろうな」
 
途端に身体が重くなった。纏わりつくにおいが、さらに不快なものへと変わっていく。鼻から口の中へ、いやなものが入り込んでくるようだった。無理矢理ペンキを塗られるポケモンたちを否応がなしにでも想像してしまう。偽者の色違いポケモンをそんな方法で作りだすなんて、どうしてそんなひどいことをしているのだろう。しかもそれを売ることまでしている。

「色違いのポケモンは希少性が高いんだ。ほしがるトレーナーも多い」
「でもバレないの? だって、ペンキなら落ちちゃうこともあるんじゃない?」
 
ワタルは「バレても構わないんだ」と断言した。バレたところで、そのころにはハンターはもういない。加えて「色違いのポケモンを金で買った」という後ろめたさもある。そうなれば、なかなか警察に相談はできないだろう。

「金の塗料がないな。これから調達するのか、あるいは……」
「金?」
「コイキングの色違いは金色なんだ。うちから盗まれたポケモンはコイキングなんだよ」
 
そのコイキングは少々やんちゃな性格で、住んでいる池からはねる≠ナ度々脱走をしているらしい。いつもならワタルや他の人が脱走に気づいて、池に戻していた。けれど今回はその発見が遅かったこと、コイキングの調子が良くてかなりの距離を跳ねて行ってしまったことから、ハンターたちに捕まったようだった。そして、ワタルがいつものようにコイキングの様子を見に行ったがそこにコイキングはおらず、代わりに逃げるハンターたちの姿を目撃したのだという。

「元々ハンターたちは希少なドラゴンポケモンをねらっていたんだろう。ただでさえ数の少ないドラゴンポケモンの色違い――マニア相手に確実に高値でうれる」
 
でもうまくいかなかった。なんでもワタルの家にはたくさんの優秀なトレーナーがいるため、そういった隙が無いらしい。

「ワタルのおうちって、なんなの?」
 
話を聞くほどに想像がつかなくなっていく。思わず訊くと、彼は表情をやわらげて答えた。

「これがおわったら、招待するよ。見にくればいい。たくさんのポケモンたちがいるよ」
「いいの?」
「無事に終わればね」
 
楽しみができたことで気持ちが軽くなる。弾む声を隠すことなく「じゃあ、私の家にも遊びに来てね」とワタルを誘った。私としては特になんともない一言だったのだけれど、彼にとってはそうでもなかったらしい。「え」と小さな驚きの声が聞こえてきた。

「おれに言っているんだよな……?」
「この状況でワタル以外の誰がいるの? ワタルのおうちに遊びにいくんだからさ、うちにも来てよ。友達なんだもの」
 
それに私はどちらかというと、友達と家で遊ぶのが好きなほうだ。外で遊ぶのも好きだけれど、家の中でしかできない遊びもたくさんある。お菓子作りとか。スクールで習った大きな鍋でかき混ぜて作るポフィンは一人でやると、どうにも上手くできない。スクールと家では勝手が違うからと考えていたけれど、どうやらそうでもないらしい。ちょうど「誰かと一緒に作れたらなぁ」なんて思っていた矢先だったのだ。ワタルとなら上手く作れそう。

「シンオウ地方のお菓子だっけ。ポケモン用の」
「そうそう。ね、一緒に作ろうよ。カイリューもきっと喜ぶよ」
「……ああ、そうだな」
 
やった。また楽しい予定が増えた。前向きになった心はやる気を増していく。ポケモンたちを早く見つけないと。この塗料だらけの部屋を探しても、残念ながら捕まったポケモンたちはいなかった。この部屋は頭が痛くなるようなにおいだらけなので、逆にいなくてよかったかもしれない。

「次の部屋にいこう。ハンターたちが近くにいるから、気をつけて」
「わかった」
 
また静かに部屋を出る。廊下にはハンターたちの声が未だに響いていた。どこかに行ってくれればいいのに、なんてぼやく私に「下手に移動されたほうが警戒を強めないといけなくなる」とワタルはこちらを振り向くことなく告げた。冷静なその表情が崩れる様子は見えない。

彼の後ろを着いて次の部屋へ向かおうとした私の足元で、サンドの小さい声が聞こえてきた。サンドはとてもお利口さんな子だ。静かにしなくちゃいけないときに、意味も無く鳴いたりはしない。なにかあったのかも、とサンドのほうを向くと、その奥に私をここまで連れてきたコラッタがいた。あ、と声をあげる間もなく、コラッタは尻尾を数回振って、私に背を向け、先ほどの塗料の部屋に入っていってしまう。

「わ、ワタル」
 
しかし彼の姿はだいぶ先にあって、今の声量では届かない。かといって大声を出すわけにもいかない。悩むあいだにもワタルは先に行ってしまう。悩んで、私はコラッタのほうに着いていくことにした。確認してからワタルを呼びに行こう。そう決めて、再び塗料の部屋に戻る。
嫌なにおいにまた顔を顰めていると、コラッタは壁をカリカリと引っ掻いている。その部分をよく見ると、うっすらとある切れ目を見つけた。

「もしかして」
 
ぐっと力を込めて押す。何の変哲も無かった壁が、鈍い音とともに動いた。どうやら隠し扉になっていたようで奥にまた部屋が続いているようだった。コラッタが部屋の中に駆けていくので、私も辺りを気にしながら進む。そして目に飛び込んできた光景に、思わず悲鳴が出かけ、慌てて口を押さえる。

隠し部屋は天井も低く、狭い。そこに所狭しと並べられた檻。中にはポケモンたちがぎゅうぎゅうに詰め込まれていた。唯一ある水槽にはコイキングが入っている。おそらく、この子がワタルの言っていたコイキングなのかもしれない。
 
檻に駆け寄ってポケモンたちの様子を確認すると、弱ってはいるようだけれど大きな怪我は見られなかった。そのことだけは一安心。水槽にも近づいて、覗き込む。揺れる水面の奥、コイキングの朱色がよく映えた。

「もう心配いらないからね。大丈夫だよ」
 
指先を水に浸す。ぬるめなそこはコイキングにとっても居心地がよくないらしい。早く出して欲しいのか、背びれを私の指へ押しつけてくる。その仕草に胸が痛くなった。助けないと。今すぐに。

「早くワタルをよんでこなくちゃ」
「誰を呼ぶって?」
 
振り向いたのと後退ったことは、同時だった。背中が水槽に当たる。ぴしゃりと水が跳ね、服を濡らすが気にしてなんかいられない。目の前にいるのは紛れもなく、ポケモンハンターの一人なのだから。

「ったく、ガキが。どこから入ったんだ?」
 
じろりと睨みつけられた途端に、声が出なくなる。足の力が抜けて、へたり込みそうになるのを必死にこらえた。男は不自然な、わざとらしい笑みを向ける。

「なあ、お嬢ちゃん、一人で来たのか?」
 
恐怖の中でもその言葉の意味は理解できた。逆に緊張状態だったから、思考もよく回ったのかもしれない。まだワタルは見つかっていない。少しだけ安心した。ワタルが無事なら、まだ逆転のチャンスはある。そういえばサンドも見当たらない。もしかして捕まってしまった? 

なら、このハンターはそのことも言ってくるだろう。ということは、どこかに隠れていそうだ。そのまま隠れていてほしい。ハンターたちにとって、獲物はあるだけいいのだから。
無言のままの私に男は痺れを切らしたのか、汚い舌打ちを響かせる。また身体が震えた。

「……そんなのはどうでもいいか。見られちまったもんなぁ。悪ガキには、相応の仕置きってのが必要だ」
 
迫る腕は私を捕まえるためのもの。わかっている。わかっているけれど、身体が動かない。
浅い呼吸だけが私を支配している。もう、だめ。

「ってぇ!」
 
頭上から降ってくる水飛沫が私の恐怖を押し流した。男は悲鳴をあげながら、のけぞり、よろめいている。目に映るのは眩しいほどの朱色。コイキングが男にぶつかっていた。たいあたり≠している。
 
助けてくれたんだ、と気づいた瞬間から私の恐怖が解けた。鞄に下げた防犯ブザーのストラップを強く引っ張る。途端に甲高い音が鳴り響く。きっとこれはワタルにも聞こえているはず。そのまま音のなるブザーを男に投げつけ、出口へ走った。

「待て!」
 
怒鳴り声が聞こえるが当然のように無視。スピードを出すため、必死に足を動かす。しかし、そううまくもいかなかった。

「わぁっ!」
 
足に何かがぶつかってくる。衝撃でバランスを盛大に崩した私は前へと倒れ込んだ。ずしん、と重い何かが乗ってきて、起き上がることができない。それどころか重量のある物体のせいで、息も上手く吸えないでいた。

「いいぞ、マルマイン。そのまま抑えつけとけ!」
 
マルマイン。ぼんやりと赤と白のポケモンの姿が頭に浮かぶ。ハンターの手持ちなのかもしれない。せっかくコイキングが頑張ってくれたのに、結局捕まってしまう。このマルマインを退かさなくては、逃げられない。

「……っ、サンド! マルマインにみだれひっかき=I」
 
イチかバチか。サンドがまだハンターに捕まっていないと願って、指示を出す。でもそれは、自分でも驚くほどにか細い声だった。これではサンドには聞こえないかもしれない。
やっぱりダメかも。くちびるを噛みしめた、その時――
 
ガツン! と鈍い音が響く。それはまさに爪がぶつかる音に他ならなくて。私の身体が途端に軽くなる。咳き込みながらなんとか起き上がれば、私のサンドは身体を広げ威嚇しながら、マルマインを睨みつけていた。

「よかった、無事だったんだね」
 
サンドは隠れて、隙を狙っていてくれたのだろう。でなければ、さっきの声量の指示ですぐに動けるはずがない。私のことを守ろうとする小さな背中に、目頭が熱くなっていく。

「くそっ! マルマイン、とっしん≠セ!」
 
体勢を立て直したマルマインが、回転しながらこちらに向かってくる。
ポケモンバトルだ。これはスクールでやるようなバトルじゃない。本物のポケモンバトル。しかも絶対に負けられない。カッと身体が熱くなった。心臓が早く動き出す。

「っ、かげぶんしん=I」
 
サンドの姿が増えていく。しかし突撃してくるマルマインは、サンドの分身たちを一つずつ、そして確実に消していく。

「もう一回、かげぶんしん=I」
「ちっ! ジャイロボール≠ノ切り替えろ! 潰していけ!」
 
速度を増したマルマインが消すサンドの分身の数は先ほどより多い。これではすぐに本体の場所がわかってしまう。
――けれど、なぜか私は冷静だった。緊張感で集中力が増しているのかもしれない。あるいは、運が向いていたのかも。とにかく私は今までに無いほどの冷静さで、その場に立っていた。先ほどまで狼狽えていた私は、いない。
 
一つ、二つ、三つ。分身が消えていく。もう残り少ない。でも、今じゃない。まだ、まだ、
まだ、まだ……今!

「じならし=I」
 
私のかけ声と共にサンドが大きく跳ねる。小さな身体が着地した瞬間に建物が大きく揺れた。分身の数が少なくなるということは、動くルートが必然的に絞られるということ。タイミングさえ合えば、引きつけてダメージを当てるのは容易い。そして、それをサンドはちゃんとやってのけてくれた。

『こうかばつぐん』の一撃がマルマインに当たる。動きが止まり、赤と白の身体がぐらりと不規則に揺れる。

「きりさく=I」
 
追撃の指示にも迷うこと無くちゃんと反応してくれた。きりさく≠繰り出すべく、マルマインにサンドは飛びかかった。

「だいばくはつ≠セ!」
 
きっとそれは、経験の差だった。負けることが確定しているのなら、道連れに。そう考えるのはおかしいことではない。だいばくはつ≠フ一撃をもろに受けたサンドは、痛々しい鳴き声をあげて弾き飛ばされた。

「サンド!」
 
急いで駆け寄れば、サンドは目を回してぐったりしている。もう戦う力が残っていないのは明らかだった。しかしそれはマルマインも同じ。けれど違うことが一つ。私は子供で、ハンターは大人であること。

「手間取らせやがって。まあでも、ポケモンがいなけりゃこっちの勝ちだよな!」
 
もうだめだ。今度こそ、終わり。せめてサンドだけでも守らないと。力尽きたサンドをぎゅうと抱えむ。

「まだおれがいるぞ」

静かな声だった。静かで、誰もがわかるほどに怒っている声。

「は……」
 
呆けたハンターの声が聞こえる。つられて私も顔をあげた。そこにいたのはやっぱりワタルだった。隣に佇むカイリューも怒りに満ちた表情を見せている。

「もう一人のお前の仲間はとっくに目を回している。あとはお前だけだ。それ以上彼女に近づいたら――」
 
わかるな?

カイリューが低い唸り声をあげる。地を震わせるようなそれに、男の顔があっという間に青ざめた。

「ま、まいりました……」
 
両手を挙げて、ホールドアップの姿勢。一瞬の間に勝敗はついた。もちろんワタルの勝ちで。


パトライトが光る中で連行されるポケモンハンターたちの姿は、まるで映画やドラマの世界のようだった。まさに私の目の前で起こっていることなのに信じられない。現実味がなくて、どこかぼんやりとしてしまう。なんだか変な感じだ。

「大丈夫か?」
 
隣のワタルが声をかけてくる。何に対しての「大丈夫」なのか一瞬わからなくなって、それからようやく気づく。

「サンドなら大丈夫。もう回復したよ」
 
ポケモンセンターに連れて行っていないから、すごく元気というわけではないけれど。でも目は覚ましたし、持っていたキズぐすりのおかげでだいぶ良くなった。あとでジョーイさんの治療を受ければ、いつもの元気さが戻ってくるだろう。
けれど彼の心配はサンドだけではなかったらしい。「きみもね」と困ったように息を吐いた。

「怪我、させてしまったな」
「え? ……これぐらい平気だって」
 
多分、ワタルが言っているのは擦りむいた膝と頬の切り傷のことだ。いつの間にかできたそれは確かにヒリヒリと痛むけれど、正直言ってたいしたものではない。普段だって、これぐらいの怪我はする。サンドと追いかけっこして転んだときのほうが、もっとひどい怪我になったこともある。
そう説明しても、申し訳なさそうに表情を曇らせる彼に「そんなことより!」と話を変えるため、強く叫ぶ。

「コイキングはどこ? お礼を言いたいの」
 
私がハンターから逃げられたのはコイキングのおかげ。あの時はそれどころじゃなかったから、落ち着いた今、ちゃんとお礼を伝えたかった。しかし、コイキングはもうここにいないとのこと。他の捕まっていたポケモンと同じくポケモンセンターに搬送されたらしい。会えないのは残念だけれど、ポケモンたちの体調が最優先だから仕方ないか。

落ち込む私を宥めるようにワタルの手が頭を撫でてくる。その手つきはびっくりするほどぎこちなくて、つい笑みがこぼれた。それに気づいたワタルは「慣れていないんだ、こういうの」とバツが悪そうに言い訳をする。

「そうなんだ。てっきりお兄ちゃんかと思ったのに」
「年下のいとこがいるけれど、おれは懐かれていないからなぁ」
「男の子?」
「いや、女の子」
「……いじわるしているんじゃない?」
「まさか」
 
おれとしては可愛がっているつもりなんだけどね、とワタルは肩を竦めた。

「コイキングは治療と検査が終われば戻ってくるさ。――きみが、うちに来る頃にはきっとね」
「っ! うん!」
 
それは次≠フ約束に他ならない。ちゃんとワタルが覚えていてくれたことに嬉しくなる。慌てて鞄からペンを取り出し、ノートの端をちぎる。不安定な場所で書いた文字はへろへろだけれど、一応は読めるから大丈夫なはず。

「これ、私の家の電話番号」
「わかった。連絡するよ」
「わすれないでね」
「忘れないよ。なんなら指切りでもするかい?」
 
返事をする前に、立てられた彼の小指へ自分の小指を絡める。決まり文句を歌い終え「ゆびきった!」と離した。ただの指きりなはずなのにワタルはやけに楽しげな表情を浮かべていて、私もなんだか嬉しくなる。

その後、私たちはそれぞれの保護者にありえないほどに怒られた。「雷が落ちる」なんて表現がぴったりなほどに。でもそれを耐えられたのはワタルとの約束≠ェあったから。

――これがワタルとの出会いのきっかけ。今でも続く友情の始まり。だから私は今までの友情のために、ちゃんと答えを出さなければいけない。必ず。
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