いつだって事が動くのは急である。
その日は朝からずっと天気が悪くて、湿った雲が空を覆っていた。どこからか雨のにおいも漂い、遠くではうっすらと雷が光る。ちょっとした拍子で、すぐにでも大粒の雨が降ってしまいそう。そんな淀んだ空を、私は部屋の窓から見上げていた。本当は買い物に行きたかったけれど、これは諦めたほうがよさそう。ひどい天気の日には、大人しく部屋にいるに限る。今朝のニュースでポワルンと共に天気を紹介するキャスターさんも、同じようなことを言っていた。
陽も出ていないせいか少し肌寒い。羽織ったカーディガンの上から、軽く腕をさする。お茶でも淹れようかな。そういえば、ガラル観光した同僚からお土産の紅茶をいただいたんだっけ。そんなことを考えながら立ち上がったタイミングに、玄関のインターホンが鳴る。誰だろう。特に荷物が届く予定も無い。来客の予定ももちろんだ。念のため、そっと音を立てずに動いてドアスコープを覗く。
「ワタル!?」
あっという間に警戒心はどこかへ吹き飛んでしまっていた。慌ててドアを開けば当たり前だがそこにワタルがいる。「やあ」と軽い口調も返ってきた。
「急にどうしたの!? しかも、こんな天気に!」
いつだって連絡を欠かさない彼がアポ無しで私の元へ来ることは滅多にない。しかもこんな空模様の悪い日に。いったいどうしたのだろう。なんとなく嫌な予感がして、とりあえず部屋の中に入るよう促した。しかし、ワタルは首を振ってそれを断ってくる。
なんで、と尋ねる前に答えが返ってきた。
「少し、寄り道をしにきただけだから」
……寄り道? つまり、これからどこかに行くということ? 今にも嵐になりそうな、こんな日に? 私の疑問に満ちた表情を見たワタルは隠すことなく話す。「ちょっとそこまで」といった軽さを乗せながら。
「国際警察に協力を要請されてね」
「国際警察!?」
「たいしたことじゃないんだ。ドラゴンポケモンにまつわる事件だから、うちに依頼があっただけだよ」
「そりゃ、その内容ならワタルに頼むかもしれないけど……」
確かにドラゴンポケモンに関連することなら、どこよりもワタルのところへ依頼をしたほうがいい。それほどまでに彼のドラゴン使いとしての名声は広く伝わっている。そちらに疎い私でさえ、知っているぐらいだ。
でもだからといって心配しないわけじゃない。しかも各地方を跨がって事件を追うと噂される国際警察が絡んだ事件だ。「ちょっとポケモンが逃げ出しました。手伝ってください」程度で事がすむはずはない。セキエイチャンピオンであり最強のドラゴン使いであるワタルが行かなくてはいけないほどの――そういった事件なのだ。
のところ、こうやってワタルが国際警察の要請に応じるのは珍しくない。そのたびに私へ一言連絡をくれるのも。でもいつもメッセージとか、通話とか――そういった方法でのやりとりばかりだった。だからこうして直接会いに来るというだけで、否応が無しにでもいろいろと考えてしまう。けれどワタル自身はいつもの通りの空気を纏っているせいもあって、彼とのギャップに混乱する。もっと切羽詰まった顔をしてくれれば、私だってちゃんと相応しい行動ができるはずなのに。
「そんなに悩まなくとも」
堪えきれなかった笑いをくちびるの端に宿したワタルは肩を震わせた。彼の浮かべた珍しくふにゃりと緩んだ表情を見て、次第に力が抜けていく。
「だ、誰のせいだと思って……!」
「うん、おれのせいだな」
笑いを落ち着つけるため、大きく呼吸を繰り返すワタルはやっぱりいつものワタルのまま。
本当に、全くもって大丈夫な事件だったりするのかも――いや、しないな。その言葉を額面通りとして受け取れるわけがないのだから。過去のワタルの行動を振り返れば、余計に。
「本当に大したことないんだ。ただその代わり長期で出ることになりそうだからね。ちゃんと伝えておこうと思って。それにおれ以外からこのことを知ったら、きみ、おれに怒るだろう?」
それは勘弁願いたい、と彼はまた笑う。事実なので私からは何も反応しない。
「あとはそうだな。きみに、もう一度言っておこうと思って」
「なにを?」
「きみが好きだってことをね」
…………はぁ!? よ、よりによって、このタイミングでそれを言う!?
あまりの衝撃に思わず後退る。手が離れ、閉じかけたドアにワタルの足が挟み込まれた。再び、開かれる。私と距離を近づけたワタルから発せられた声は、いつもよりずっと熱が込められていた。
「言っただろう? 忘れたふりはさせられない、と」
くらりと視界が揺れる。浅い呼吸を繰り返した。かろうじて私が絞りだせたものといえば素っ気ない「わすれて、いないから」という一言だけ。でも目の前の男は本当にずるくて。
「なら、よかった」
あんな一言に、こんなに嬉しそうな声を出してくる。私がちゃんとそれに気づくとわかって、わざと。
――どうしてワタルは私のことを、そういった意味で好きになったのだろう。彼から告白されてから、ずっと頭にあった疑問が強くわきあがる。
当たり前だが「出会った当初から好きだった」なんてことはないと思う。だって私たちの間には確実に友情≠ェ存在していて、そちらの意味で結ばれていた期間のほうが絶対に長い。
それに疎遠になることもなく幼いころから続く友情は代えがたく、心地いい。今更、私たちの関係が無くなることはないだろうけれど、どちらに転んでもなにかしらの変化は訪れる。私がワタルの立場だったらと考えれば考えるほど、「好き」の想いは簡単に告げられない。それなのにワタルは選んだ。関係を、変えることを。
ワタルはいつから、恋をしていたのだろう。
「きみが考えているよりは、ずっと前から好きだったよ」
「私、なにも言ってないんだけど!?」
「顔に書いてある」
比喩表現だとわかっていても、つい顔に手を当てた。しかしすぐさま無駄だと思い至る。
バトルトレーナーとして最高峰に位置するワタルの観察眼の前に、私は今まで何度も隠し事を暴かれているのだ。常日頃、思考の読み合いをしている人にとって、私のような一般人の考えを読み解くことなんて簡単らしい。とても「わかりやすい」のだそう。
「正直なところ、このままでもいいと思っていたんだ」
繋がり方の名前がどうであれ、自分たちの関係は変わらない。それで構わない。共にいられれば、それでよかった。けれど。
「きみがおれから離れるなんて、言うから」
「そ、それはワタルの負担になっているかもって考えて……!」
「わかっているさ。きみは誠実な性格をしているからね。遅かれ早かれ、そう言い出すだろうと予感していた。――していたつもり、だったんだけどな」
あの時のことを思い出すかのようにワタルは目を細める。そして自嘲気味な笑みを宿した。
「うん。なるほど。存外、おれは自分が考えているよりよっぽど子供だったみたいだ」
「え、えぇ?」
一人で勝手に解決しないでほしい。私は全くもってわかっていないのだから。そんなこともワタルはお見通しらしい。まるで内緒話をするかのような小さな声に、ありったけの熱を込めて、囁いた。
「きみが好きでたまらない、って言っているんだよ」
ワタルは言うだけ言って満足したのか「そろそろ時間だ」とドアに挟んでいた足を抜く。
締まりかけるドアを慌てて止めたのは私。一歩踏み出し、モンスターボールからカイリューを出したワタルへ叫ぶ。
「気をつけてね! 怪我しちゃだめだからね!」
外はいつの間にかすごく風も吹いていて、雨も降り始めていた。そんな状況にも関わらず私の声は届いたらしい。ワタルは問いかけた。
「心配してくれるんだ?」
「当たり前でしょう!」
なにを当たり前のことを言っているのだろうか。いくらワタルがすごい人だとしても、それとこれとは話は別だ。信頼と心配は同時に存在できるのだから。私はワタルを信頼しているけれど、心配もしている。彼は自分より誰かを優先してしまう人だから、その分周りが心配するぐらいがちょうどいい。
「すぐ戻るさ。……行ってくる」
マントを翻し、ワタルは確かに答えた。だから私もありったけの声で、叫ぶ。
「行ってらっしゃい!」
ワタルを乗せたカイリューは勇ましく暴風の中を進んで行き、あっという間に姿が見えなくなった。むしろカイリューにとってはこの嵐の中こそ独壇場なのだろう。スピードが緩むことは一切無い。
「……大丈夫、もう中に入るよ」
外に出たまま戻ってこない私の様子を見に来たサンドパンを安心させるように笑いかける。見計らったかのように、雷が響いた。じめんタイプのサンドパンは雷を怖がらないけれど、
それでも大きく響いた音に驚いた様子を見せる。
……もしかしたら、どこか近くで落ちたのかもしれない。
ワタルが飛び去った方向を自然と見つめながら、私はそんなことをずっと考えていた。