chapter:Y -明日の行方-

――あれからワタルの「ただいま」を私は聞けていない。長期の仕事と言っていたから多少の覚悟もしていたけれど……まさか一ヶ月近くも音信不通になるなんて! ただでさえ、こちらから連絡するのは難しいというのに! 

何度メッセージアプリを立ちあげては、落とし、立ち上げては落とし、の我慢を繰り返しただろうか。ここまで音沙汰が無いと、どんどん不安は積もっていく。たった一言、もらえるだけで違うのに。
待つのがこんなにも怖くて、不安なことだなんて知らなかった。それでも私は待つことしかできない。だから必死に日常をこなしていた。目を逸らすかのように、忘れるように。

「…………いま、なんて?」
 
担当になってから二回目のリーグ整備。前回のように会社への終了連絡も終え、帰り支度をしはじめた私に声をかけたのはシバさんだった。軽い挨拶を交わしたあと、彼が口にした一言に私の身体がぴしりと凍る。出た声が震えていなかったのが、不幸中の幸い。私の反応を見たシバさんは難しそうな顔をして首を傾げた。

「む。ワタルに顔を見せていかなくていいのか、と言ったんだが……」
「か、帰ってきているんですか!?」
 
シバさんに思わず詰め寄った。私の勢いが彼の想定以上だったのか体格差があるというのに私に圧され、驚きの表情を覗かせている。申し訳ないが、それを気にしている暇は無い。だって彼の言葉通りなら、ワタルは帰ってきていて、しかも今日、このリーグにいるってことになるからだ。

「あ、ああ。数日前に」
「数日前!?」
 
素っ頓狂な悲鳴があがる。さすがに私の反応からシバさんもいろいろと察してくれたらしい。わかりやすく困ったように視線を彷徨わせつつ「今日にでも連絡をする予定だったかもしれん」と、しどろもどろながらワタルのフォローをしはじめる。けれど私の端末に、今現在においてワタルからのメッセージはない。そう、まったく。欠片も。

……なんで、連絡をしてくれないのだろう。私は「行ってらっしゃい」だけじゃなくて「おかえり」だって伝えたいのに。じくじくと心が痛んでいく。私がいろいろと足踏みしているから、彼は失望してしまったのだろうか。

浮かんだ嫌な考えを、首を振って追い出した。ワタルは何も言わずに、一人勝手に離れていくことなんてしない。彼は誠実で優しいから、ちゃんと相手に向き合って、その上でどうするか決める。自分も傷つきながら、相手に伝えてくれる。私に連絡をしてこないことにもなにか理由があるはず。でもその理由が浮かばないのも、また事実で。

「行ったらどうだ」

行くって、どこへ。
 
シバさんは「着いてこい」とだけ告げて、歩き出す。歩幅の違う彼の背中は、どんどん離れていってしまった。慌てて追いついて、そのまま小走りで並ぶ。

「ど、どこにっ、行くんですかっ?」
「チャンピオン執務室だ。ワタルもいるだろうからな」
 
なるほど。言われてみればバトルコートも使えない状況でリーグにいるのなら、そこしかないか。追いつくことに必死でなかなか考えが回らない。私はシバさんから引き離されないように足を動かすことしかできなかった。ワタルと歩くときは、こんなことないのに。――ああ、そうか。こういうところもワタルの優しさだったんだ。いまさら、気づくなんて。

「ここだ」
 
重厚なドアが目の前に広がる。どうしよう。勢いで来たのはいいけれど、いざ目の前にすると緊張で喉が鳴る。

「……おれが案内したことと、口を滑らしたことは言わないでくれ」
 
ひそひそと声を潜め、気まずそうな表情を浮かべる彼を見て、思わず口元が緩んだ。
なんだか先ほどまであった緊張感が抜けてしまった。シバさんのかわいいところ、また見つけてしまったから。

「大丈夫です。言いませんから」
「すまん。助かる」
 
私の案内を終えたシバさんがいなくなるのを確認してから、ノックを数回。「どうぞ」という声は望んでいた人のものに違いなかった。ドアノブに手を掛け、開ける。もう躊躇いはない。
さすがのワタルでも私が入ってくるなんて思わなかったみたいだった。目を見開いて、驚いている。なんか優越感。初めてワタルを上回れたかも。
 
けれどそんな気持ちはすぐに萎んでしまった。彼の袖口の奥、捲かれた白い包帯がちらりと見えたから。なにそれ、と出かけた指摘を飲み込んで、私は最初に伝えるべき言葉を口にする。

「おかえり」
「……ただいま」
 
ワタルは私を応接用のソファへ座るように促した。「これだけ片付けさせてくれ」と目を合わせながら。私は黙ってそれに従って、高級そうな、やわらかいソファに座る。部屋にはしばらくの間、ペンの走る音だけが響いた。

「お待たせ。お茶でも淹れようか?」
「大丈夫」
 
向かいの席に座ろうとする彼を止めるように、ぱしりと隣の空いたスペースを叩く。ワタルは困ったように息を吐いて、私の指示に従った。ワタルの体重の分だけ、ソファが沈んでいく。

「弁解をしても?」
「どうぞ」

ありがとう、と答えると彼は話す。
曰く、帰ってきたことを私に伝えるのは怪我が治ってからにするつもりだったとのこと。
それはひとえに、心配をかけさせたくなかったから。己にとってはたいした怪我ではないのに、大袈裟に治療されたから余計に。それと幼いころならいざ知らず、普段怪我らしい怪我をしない自分を私に見せるのは避けたかったようだ。

「そんなに危ない事件だったの……?」
 
話を聞いて、思わず尋ねてしまった。ワタルはゆるりと首を振って、否定した。決してそんなことはない、と。想定していたよりも捕まっていたドラゴンポケモンたちは落ち着いていて、被害も怪我人も少なかった。ただ――

「子供が、いてね」
「こども……?」
「あの時のおれたちのような子が、いたんだ」

捕まっていたポケモンを助けようとした子供がいた。もちろん、その子は国際警察に無事に保護された。しかし、残念ながらそれだけで終わることもなく。犯人は連行されている中、わずかな隙を突いて逃げだし、その子を人質に取ろうと暴れたという。しかも、隠し持っていた刃物を振るって。近くにいたワタルが咄嗟に子供を庇い、犯人を殴り倒したおかげで、幸いにもその子に怪我はなかった。けれど凶器はワタルに届いていたらしい。

「すまない。やはりこんな話をするんじゃなかったな。……そんな顔をさせたくなかったから、怪我が治るまで黙っているつもりだったんだ」
 
いつの間にか噛みしめていたくちびるが、やけに痛んだ。同じくらい、胸の奥も。じくじくと痛んで、たまらない。

「でも、黙っていられるよりは、ずっといいよ」
 
なにも知らないでいるほうが怖かった。ワタルの信念の置き場所が、そういうところであることは充分に知っている。私に怪我を隠すのも、優しさの一つであることもわかっている。
けれど、どうしても。いつの間にかこの人が、遠くへといなくなってしまうほうがよっぽど怖かった。危険な依頼も大きな怪我も、「たいしたことない」と当たり前になるほうがいやだ。

それを彼の「日常」になんか、してほしくない。
古いシンオウ地方にいたユキメノコのように。私の前から、黙っていなくなってほしくない。
 
消えてしまうぐらいなら、私も連れて行って。

「いなくならないよ」
 
ワタルの親指がそっと私の目元をぬぐう。全部、見透かされているようだった。

「うそ」
「嘘じゃないさ。きみがおれを待っていてくれる限り、帰ってくるよ。――おれは、きみが
好きなんだから」
 
いま、そんなこと言わないで。突きつけられてしまう。目を逸らしたくても、もう難しい。自覚してしまう。
離れてほしくないと思うのは、私だって同じ。あの時のワタルも、こんな気持ちだった?
気づいた感情を素直に受け入れる。ああ、もう。全部、この人の手のひらの上だ。

「…………、け」
「すまない。よく聞こえない――」
「私の負け、って言っているの!」
 
遮るように叫ぶ。たったそれだけで、意味の全てをワタルは理解をしたらしい。フッと口元を緩め、私を見つめてくる。その表情は余裕に満ちていて、にくたらしいほどだ。
そんなところも、いまはかわいいと――好きだと感じている自分のほうが、よっぽどどうにかしている!
 
私の『答え』に肩を震わせているワタルは放っておくことにした。下手に突っかかる方が私に不利になる状況だと、長年の付き合いからわかっている。しばらくして落ち着いたのか、大きく息を吐き出した。

「きみらしい返事だ。気に入った」
「……なにそれ」
「改めて、好きだなと痛感したんだよ」
 
なんだかいいようにはぐらかされてしまった気がする。まあ、でも。悪い気はしないから、いい意味として捉えることにしよう。ワタルも嬉しそうにしているし。


そろそろ帰らないといけないと言い出した私を、当たり前のようにワタルは出入り口まで送ってくれた。ワタルにはまだ片付ける仕事があるらしく、もう少しリーグに残るとのこと。その仕事を中断させてしまったのは他ならぬ私なので心苦しい。やはり、突撃しなかったほうがよかったかな……。でもここで捕まえとかないと、怪我の件は気づかなかったわけだし。
 
もやもやと悩みながら受付でサインをもらって、スタッフ出入り口に向かう。待っていてくれたワタルにお礼を言えば「家まで送れなくてすまない」と返ってきた。

「仕事中断させたのは私だし。大丈夫。ありがとう」
「そんなこと気にしていたのか」
 
気にしなくていいのに、と彼は言うが、そういうわけにもいかない。まだ本調子じゃなさそうなワタルには早く仕事を片付けて、ちゃんと休んでもらいたいのだ。

「私が言うのもなんだけど、早めに帰って休んでね」
「ああ」
 
返事だけはいいんだよね。ワタルって。
確認のためにも今度は私から連絡をしよう。もう帰ってきているのだから遠慮はいらない。でないと絶対、このままリーグに泊まりかねない。彼の性格上、溜めた仕事を片付けることを優先しそう。うん、そうに決まっている。
そんな決意を固めている間にワタルは何かを閃いたようだった。

「おれの怪我が治ったら、今度はデートでもしようか」
「でッ!?」
 
急に落とされた発言のせいで喉からは上ずった悲鳴に近い声があがる。ストレートな言い方に、瞬く間に体温があがっていくのを自覚した。

「だってもう、ただの外出にはならないだろう? おれたち、恋人なんだから」
「そうかもしれないけど!」
 
だからといってすぐには切り替えられない。ワタルと私は違うのだから。改めて「デート」やら「恋人」なんて単語を聞いた瞬間から、こそばゆさが背中を駆けていくし、足元がふわふわと落ち着かなくなってしまっている。そんな私を見てワタルは「やれやれ」と肩を竦める。そしてなぜか勝手に一人で結論を出したようだった。

「きみのために、先に断っておくが」
 
思わず身構える。何を言われても驚かないように。

「そのデートではキスをするつもりだから、よろしく頼むよ」

…………きすを、するつもり、だから。キスをするつもりだから。よろしく頼むよ!?

「普通、そんなこと言う!?」
 
おそらく私の顔は真っ赤だ。鏡を見なくてもわかる。それだけ頬には熱が宿っているし、なにより恥ずかしくてたまらない。しかしワタルの反応といえば、いつも通り。平然としていた。

「おれがこういったことに慣れていないのは、きみも重々承知済みだろ?」
「もう、そんなこと思えないって!」
 
自分の言動を振り返って欲しい。恋愛に慣れていないなんて、絶対に嘘!

ワタルは私の叫びを受け「駆け引きに多少の心得はあるけれど、恋愛においてはなぁ……」なんて考えこむ素振りを見せる。わざとらしいったらありゃしない!

「まあ、ともかく」
「ともかくってなに!?」
 
そんな一言ですまさないでほしい。こちらを振り回すだけ振り回しているのだから。

「覚悟しておいてくれよ」
 
彼の纏う空気が変わる。今までの軽いものから打って変わって重いものへ。プレッシャーとは違う、けれどこちらを捕らえるような――そんな雰囲気に私はあっという間にのまれ、言葉を、声を、失った。
獰猛な光を宿した瞳が、私を貫く。

「おれはもう、きみを一生離さないからな」
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