どのくらいの時間が経っただろうか。わかるのは短い時間とは言えぬほどに触れていた体温が静かに離れたことだけ。
「……ごめんなさい。もう、大丈夫です」
「ああ」
俯くまふゆの頭を撫で、キバナは立ち上がる。目的の棚から段ボールを引っ張り出し、ペットボトルのおいしい水を取り出した。
「常温だが、許してくれ」
「……すみません」
封を開け渡すと、彼女はそれをおずおずと口にした。あれだけ涙を流したのだ。喉だって乾いているだろうと思ったのだが、正解のようだ。キバナもまた喉に流し込む。
水を飲み、気持ちも身体も落ち着いたのか、まふゆはぽつりぽつりと話し始めた。
「テレポート≠ェだめなんです。持っていかれちゃうような、どこかへ飛んでいくような――世界からはじかれてしまうような、そんな感覚になっちゃって」
おおげさですよね、と吐き捨てる彼女を否定した。感じ方なんて人それぞれだろ、と。その言葉を聞いて、顔を上げた少女の瞳が少し揺れた。衝動に任せ何かを言おうとして、躊躇い、口をつぐむ。その姿を見て、キバナは困ったように頭を掻く。
彼女はいつだって怯えている。冷たい瞳と表情の奥で震えているのだ。まるで行く先がわからない『迷子』のように。
隠し方が上手いからわからなかったが、感情の機微に気づいてしまえばあっという間。でも、本人が秘したいと願うのなら、見て見ぬフリをするのが己の役割であるとキバナは考えていた。そのテのケアは保護者であるカブが相応しい。
けれど今、少女がその『理由』を話して少しでも楽になるのならば、話すべきであるし、自分は聞くべきだ。
「言って楽になるなら話せよ」
「……それはわたしの1人よがりです」
「あのなぁ。オレさまを誰だと思ってんだ? トップジムリーダー、ドラゴンストームのキバナさまだぞ?」
キバナはまふゆのことを気に入っている。バトルは強いし、仕事に対する姿勢も好感が持てる。彼女に心を砕くぐらい、どうってことないのだ。
なによりキバナ自身がまふゆに何かしてやりかった。今日という日を通して確信したが、キバナの中でまふゆは『特別』なくくりにいる。出会いは最近で、数えるほどしか共にいなくても。でなければ、いくら自分でもここまで世話を焼くことなんてしない。
「いいから吐き出しとけって。お前ぐらい、簡単に背負ってやるよ」
それで無理矢理テレポートさせたってのはチャラな。カブさんに知られたら、絶対に燃やされるから、と軽口をたたけば、少女の纏う空気が緩むのを感じる。
「カブさんはそんなことしませんよ。優しいもの」
「お前は娘を持った父親の怖さを知らないから、そんなこと言えるんだよ」
「……怖さ≠知るようなこと、やらかしているんですね」
図星がゆえに呻くキバナ。先ほどまで格好つけていたのにもったいない、とまふゆは思った。まあ、彼ぐらいならソウイウ相手のなんて選り取り見取りだろう。——だから、こんな自分のことだって受け入れてくれるはず。
「……嘘だと思ってくれてもかまわないです。『寝ぼけたことを』ってバカにしても構わないです」
「思わない。ドラゴンジムリーダーの名に賭けて」
真剣なまなざし。ちゃんとまふゆのことを考えてくれている証拠。それを感じ、少女は覚悟を決めた。息を吸い込み、言う。
「わたし、この世界の人間じゃないんです」
***
まふゆはごくごく普通の一般家庭に生まれた。両親に妹、ペットの猫。それが少女の家族。父親は写真家で世界中を飛び回っているから、家にはあまりいなかったけれど、発達した科学の力のおかげで寂しさは感じない。妹とだって喧嘩はするし、テストで頭を悩ませるし、友達とカラオケにだって行く。そんな一般的な女子高生。
高校1年生の夏休み。まふゆは休暇を利用し、父親が拠点にしているニューヨークへ行くこととなった。父親がちょうど個展を開くとのこと。彼の影響か遺伝か――まふゆも写真を撮ることが大好きだったので、撮影旅行も兼ねていた。キャリーケースを伴い、見送る母と妹に手を振って家を出る。現地で父と合流するとはいえ、そこまでは1人旅。胸が弾まないわけがない。空港へ行く道中でさえ、わくわくする。
しかし、まふゆが覚えているのはそこまでだった。
そこからの記憶は酷くあいまいで、不安定。空港には着いたっけ? 飛行機には乗ったっけ? 父親と会えたっけ? 気づいたら、砂っぽい石室に倒れていた。最後に感じたのはエレベーターにも似た浮遊感。どこかへ飛んでいくような感覚。
「……ここ、どこ?」
近くには自分のキャリーケースが放られている。一瞬、誘拐か強盗かと思ったが、財布の中身はおろかカメラやスマートフォンさえ盗まれていない。しかも、手持ちのバッグとキャリーケースがまるまる残っている時点で、そういう類のものではないことが伺えた。
となると結論は、
「ゆめ?」
乱れた髪を手櫛で整えながら、呟く。髪の毛の合間に入り込んだ、じゃりじゃりとした砂の感触が妙に生々しい。周囲を見回す。まるで遺跡のどこかのようだ、とぼんやりと思った。
「!」
突如として音が聞こえた。聞きなれない――いや、聞いたこともない音。というよりも鳴き声? 慌てて音のしたほうを振り向くと、そこには生き物がいた。見たことがある。でも現実では見たことがない。だってそれは――
「ポケモン……?」
日本人ならば一度は目にしたことがある『ポケットモンスター』通称『ポケモン』。ゲーム、アニメ、漫画、エトセトラ……。大なり小なりその存在は知っている人がほとんどだろう。代表的なピカチュウならば、詳しくない人でも「見たことある」となるはずだ。
まふゆもごくごく普通の子供であったから、ゲームをプレイしたことがある。初めてのポケモンは『ブラック・ホワイト』。だから目の前のポケモンのことも知っている。なにせパーティーに入れて、いつの間にか一番強くなっていたポケモンだ。
「ズルッグ、だよね?」
「るっぐ!」
名を呼ばれ嬉しそうに駆け寄ってくるズルッグ。その手にはきのみがいくつも抱えられおり、まふゆに食べろと押し付けてくる。それを受け取り、やはりここは夢であると確信した。おおかた飛行機で寝てしまって、夢を見ているのだろう。不安定な場所だから、見ている夢も荒唐無稽なのかもしれない。
いつか覚めるならせっかくだし歩き回ってみようかな、と今思えば楽観的なことを考え、まふゆはズルッグに話しかけた。
「ここから出たいんだけど、案内してくれるかな?」
任せろとばかりに胸を叩く彼に「よろしくお願いします」と頭を下げる。きのみはいったんバッグの中に入れ、キャリーケースを引っ張って石室を後にする。夢だから荷物は置いて行ってもいいかとも考えたが、なんとなく気が引けたのだ。
「ごめん、ズルッグ。ちょっと休憩させてほしい……」
途切れ途切れの息で伝え、座り込む。思ったより足場が悪く、体力が削られる。腕時計を見ると数時間ほど歩きっぱなしで、さすがに疲れてしまった。ズルッグはまだまだ元気そうだったが、まふゆに付き合って一緒に休憩してくれるようだ。
バッグから先ほどのきのみとペットボトルの水を取り出す。さすがにそのまま食べる勇気は出なかったので、軽く洗ってから一口かじる。
「おいしい!」
桃に似た味が広がる。やわらかくて、果汁も多い。疲れた身体にほどよい甘さが染みわたった。
「ありがとうズルッグ。えっと、なにか代わりになるもの……」
ショルダーバッグの中にはちょうど封を開けたばかりのフルーツグミが入っていた。ポケモンってグミを食べるのか、でもアニメでは結構なんでも食べていたような――夢の中だし、と結論を出し、「よかったら」とズルッグの掌の上に転がせた。
「?」
「オレンジのグミだよ。食べられなさそうだったら、無理しなくていいからね」
ズルッグはくんくんと匂いを嗅ぎ、口に放り込む。もぐもぐと噛んでいると、途端に表情が明るくなった。
「気に入った?」
「るっぐ!」
ならもう一つ、と渡してやると、すぐさま頬張る。その姿が可愛くて、つい口元が緩んでしまう。まふゆも残ったきのみをかじる。おいしい。でも……
「本当に夢、だよね?」
疲労も、きのみの甘さも、流れる砂っぽい空気も、全部全部夢だよね? 飛行機で寝ているだけだよね? いやな汗が背中を流れる。
「——そろそろ行こうか」
そう言って立ち上がる。まだまだ先は長そうだ。歩いているうちは変なことを考えなくていい。それが『逃げ』だとはわかっているけれど、今のまふゆはその選択肢を選ぶしかないのも事実だった。