カーテンの隙間から覗く陽の光で目が覚めた。枕元の目覚まし時計は、まだ仕事をする前のようで沈黙している。まふゆはまだぼんやりとした頭のままベッドから起き上がり、窓を開ける。この季節にしては珍しい、暖かな風が少女の頬を撫ぜた。——なぜだろう、いつもと同じ風景なのに少しだけ明るく見えるが気がする。
その答えはクローゼットの中、大切にしまわれた一着のワンピースだけが知っていた。
「ジムチャレンジ、ですか?」
カブとともに朝食を終え、食後のお茶を飲んでいるほのぼのとした時間。そのさなかに告げられた言葉を復唱する。すると彼は「そう」と穏やかに頷いた。
「もうすぐ今期のジムチャレンジが始まるからね。それにまふゆがエントリーしたらどうかってローズ委員長が」
「ああ、あの人……」
名前を聞いてつい顔をしかめてしまう。いい人だし、まふゆ本人もたくさんお世話になった。だが、どこか彼のことが好きになれないでいた。事あるごとに「試しにスタジアムでバトルをしてみたらどうです?」と誘ってくるので、少しうんざりしていたのだ。
そのことを知っているカブも苦く笑いをこぼしつつも「いい機会だとは思うよ」とフォローを出す。
「ぼく自身もホウエンから来て、ガラル地方を巡った。まふゆにもそういう機会があったほうがいいんじゃないかと思っていたんだ」
「それで、ジムチャレンジですか?」
「目標があるにこしたことはないからね」
カブの言っていることはもっともだ。彼女の行動範囲といえば、もっぱらエンジンシティとワイルドエリア。たまに他の街、といったごく狭いもの。当てもなく旅をするのも風情があっていいだろうが、自分の性格には合わない。そうするとジムチャレンジという「次の目的」がある旅は適しているといえるだろう。
でも今更ジム巡りだなんて――
「……この歳でも参加するトレーナーはいるんですか?」
いつもだったら断っている。カブだってまふゆが拒否すれば無理強いはしないし、ローズにもうまく言ってくれるだろう。けれど、その時の彼女は違った。踏み出してみてもいいのかも、と思えたのだ。
それは今朝、暖かな風を感じたせいかもしれない。いつもより景色が輝いていたからかもしれない。
なにより少しだけ背中を押された気がしたのだ。——あの涙を拭ってくれた大きな手に。
「いるよ。別に年齢制限があるわけじゃない。何度もチャレンジするトレーナーだってたくさんいる」
たしかに彼女が危惧しているようにチャレンジャーの大半は10代前半の少年少女。しかし、それ以上の歳のトレーナーがいないわけではない。数は少ないがカブと同年代のトレーナーも参加しているとのこと。基本的にどの地方のリーグも年齢制限は無い。
そう言われて、まふゆは直近のスケジュールを思い出す。差し迫った仕事は無い。
「……ジムチャレンジ、出ます」
「無理はしていないね?」
カブの優しさに頷いた。これは自分で考え、判断したことだ。それを伝えれば「ならよかった」と1つのボールを取り出す。
「旅にはこのポケモンくんも連れて行ってくれないかな」
ボールの中にはきょとんとした顔でこちらを見上げるロコンがいた。丸い瞳でまふゆを見つめている。
「この前、生まれた子でね。せっかくだから、一緒にガラルを旅してほしいんだ。おや≠煬Nにしてある」
「……カブさん、わたし、受け取れません」
さすがのカブの頼みでもそれは受け入れられない。まふゆの頭には常に『この世界の人間ではない』が刻まれている。手持ちたちにも最初に「自分はいつの間にかいなくなるかもしれない」と伝えてあるのだ。そしてそれを了承してくれたのが、彼女の仲間たちだ。いつかまふゆがいなくなることを、覚悟してくれている。
しかし、このロコンは違う。生まれて間もないのならば、この世界のトレーナーに任せたほうがいい。いつかいなくなってしまう自分より、相応しい人がいる。
そのことを伝えるがカブは引かなかった。このロコンはまだ世界を知らない。だからこそ、まふゆに託したいのだと。
「まふゆ、君が考えているよりポケモンくんたちは強い。置いていかれる悲しみだけを背負うのが、残された者の役割じゃないよ。それにガラル地方を知らないこの子だからこそ、君にとっていい影響を与えてくれるとぼくは感じているんだ。——ぼくだってそう伊達に長くジムリーダーをしているわけじゃない」
「…………」
「バトルに出さなくてもいい。一緒に旅をするだけで構わない。いろんなものを見て、キャンプをする。それでいいんだ」
ぼくのわがまま、聞いてくれないかい?
それを言われるとまふゆは弱い。いつも彼女を尊重してくれているカブがここまで強く言うのだ。彼にも譲れないものがあるのだろう。
押し問答は数分続き、結局折れたのはまふゆだった。ボールを受け取り、中のロコンに「よろしくね」と声をかける。同時に誓った。この子は極力バトルには出さない。手持ちになる時点で、経験値は貯まってしまうけれど、バトルには出さない。
なるべく自分のクセをつけないほうが無いほうが、次のトレーナーに懐きやすくなるから。
***
その日はあっという間にやってきた。
カブからの推薦状を携えジムチャレンジへのエントリーも無事終わって、今は開会式を待つばかり。白いユニフォームはチャレンジャー全員統一とはいえ、着なれないせいか違和感を覚えて仕方ないのだ。
「変じゃないかな。年下の子と混ざってもおかしくないかな」
「るぐぐ……」
気にしすぎだ、という目でズルズキンは答えてくる。彼がそう言いたくなるのも無理はない。先ほどからこの質問を何度も彼女は繰り返していた。
年代は幅広いと言われていても大半がまふゆよりも幼い子供ばかりなのだ。同年代や年上なんて、数えるほどしかいない。旅に出れば気にならなくなるだろうが、こう全員が集まるとそうはいかないでいた。日本人の性か、どうしても気になってしまう。
そんなまふゆに近づく人影が1つ。
「そのズルズキン、よく育ってとーね」
振り向くと、同じチャレンジャーユニフォームを着た女の子。赤いリボンで結んだツインテールと凛とした目元が印象的だ。
「えっと」
見た目から自分よりも年下だろうと思えたが、それを感じさせないオーラがある。そのせいか、つい言葉が詰まる。
「ん。急にごめん。あたしもズルッグ育てているから。つい」
「そう、なんだ」
彼女は「さわってよかと?」と尋ねてきたので頷く。優しい手つきでズルズキンを撫でる。ズルズキンも警戒せず、身を任せていた。それだけポケモンへのスキルが高いということが伺える。
「あたしはマリィ。よろしく」
「まふゆです。こちらこそ、よろしく」
差し出された手を、ゆるりと握り返す。同い年というわけではないが、比較的歳の近い女の子。仲良くなれるかもしれないと、ほんのり期待が胸に宿る。
それはマリィも同じだった。同じあくタイプのポケモン(しかもかなり育っている)を手持ちにしている女の子。せっかくだから友達になりたい。だから、少しだけ勇気を出してまふゆの手を引いた。
「そろそろ開会式始まるったい。まふゆも一緒にいこ」
「えっ、もうそんな時間……」
言われて時計を見れば、確かに最初にアナウンスされていた開会式の時間に針が近くなっていた。どれだけ身だしなみを気にしていたのか――
「まふゆ?」
「い、今行きます……」
ズルズキンをボールに戻す。慌ててマリィのあとを追い、フィールド入口へ駆けていく。そんな主人を見て、ボールの中で彼はやれやれとため息をついた。
時は少し遡り、ジムリーダー待機室。今年のジムチャレンジャーのリストを見て、キバナは変な声をあげる羽目になった。そして、一目散にカブの元へ向かう。
「か、カブさん」
「どうしたんだい? 君らしくもなく狼狽えて」
「あいつ、参加するんですか?」
ああ、とその言葉の意味に合点がいったのか「そうだよ」と表情を崩さずに答える。
「オレさま聞いてねぇ……。こんな大事なこと、連絡してこいっての」
まふゆ 出身:エンジンシティ≠ニ書かれた文字に、つい文句を言いたくなった。言ってくれれば、アドバイスもいくらだってするというのに。
だが同時に楽しみでもあった。思い出すのはあの時のバトル。彼女の実力なら、自分のジムまで必ずたどり着くだろう。そうすればバトルができる。血が滾り、何も考えることができなくなるようなバトルが。
そんなキバナの横顔を見てカブは眉根を寄せ、一言。
「キバナくん、なぜまふゆの連絡先を知っているのかな?」
先ほどまでの穏やかな声音は刺々しく――まさに娘を持つ父親のように――色を変える。その意味に気づき、しくじったと冷汗を流すが後の祭り。すぐさま、カブの先制攻撃が飛んでくる。
「君とは確かに仕事をしたようだけれど、間に出版社を挟んでいたよね? その状況で個人的に連絡先を交換することは、彼女の性格上考えにくい。まさか、先日あの子の服装が行きと帰りで変わっていたときに会っていたのは――」
カブの追求からキバナを逃がしたのは、リーグスタッフの「そろそろ準備お願いします!」という救いの言葉だった。これ幸いと、誤魔化した返事だけを置き、そそくさそちらに駆けていく。背中にカブからのじとりとした視線に気づかないふりをして。