29


その日はよく晴れた。透き通る青空、澄む空気。まふゆはまぶしい日差しを、あの時もらったキャペリンで遮る。ふわりとシャーベットカラーのワンピースが揺れた。

「忘れ物はないかい?」
「はい。大丈夫です」
「見送りに行かれなくて申し訳ない。——気をつけて、そして楽しんでおいで」
 
眉を下げたカブの言葉にうなずく。彼女の背には少し大きめなリュックサックを背負い直し、玄関へ向かう。
このドアをくぐれば、しばらくこの家には帰ってこない。それがどうしようもなく寂しくて、胸が躍る。自分の新しい一歩がすぐそこまで待ち構えていることを感じ、まふゆは振り返った。

「向こうに着いたら連絡しますね。それで、お願いがあって」
 
おずおずと少女はその願いを口にする。

「イッシュ地方の挨拶で旅に出る人へ伝える言葉があるんです。それで見送ってほしいなって、思い、まして……」
 
ホウエン出身でガラルに住むカブに頼むのはあまりよくないかもしれない。けれどまふゆはその挨拶が大好きだった。その言葉に見送られ、自分はこの世界で生きることができたのだから。

「もちろん。教えてくれるかい?」
 
カブにその言葉を伝えると、彼はいつもの優しい笑みで彼女を見送った。

「ベストウイッシュ、良い旅を=v
 
旅人に幸福を祈る願いの言葉。まふゆはその言葉に背中を押され、旅に出る。



「キバナさん!」
 
バウタウンで待っていたキバナへまふゆは慌てて駆け寄る。軽く変装している彼は軽く手を挙げて返した。

「あの時のワンピースだな」
「はい。お気に入りの1着です」
 
少女によく似合ったワンピース。気合を入れたのがわかる服装にキバナのテンションはわかりやすくあがった。しかし同時に見過ごせないものもある。

「……なんか荷物多くないか?」
 
大きめのリュックサックは淡い色合いでまふゆに似合っている。旅には最適だが、デートには大きい。なんだかいやな予感がする、とキバナの顔を引きつらせた。
少女はその指摘に表情を変えず、さらりと答えた。

「はい。わたし、旅に出るんです」
「……は?」
「10分後の船で、イッシュに。そのあとはホウエンに」
「10分後!? ちょ、ちょっと待て!」
 
突然の宣言にキバナはつい声を荒げる。きょとんした顔のまふゆに自分がおかしいのかと混乱してしまう。

「聞いてねぇけど……」
「今、言いました」
「そうですねぇ!? ご報告ありがとよ!」
 
キバナは心を落ち着けるために深呼吸を繰り返し、肩を落とし、あきらめる。ジムチャレンジのときもそうだったと思い出したのだ。ただ一応、今後のために釘を刺す。

「事後報告やめろ……心臓に悪い」
 
ガラルに帰ってくるんだよな? と尋ねると、まふゆは肯首する。

「もちろんです。わたし、この地方が好きですから。いろんなところを見て、写真撮って、また帰ってきます。必ず」
「そうか」
 
ならいい。いつかまた帰ってくるならそれで。
たくさんの地方をめぐることは彼女の糧になるだろう。それがきっとこの世界で生きていくことを選んだまふゆが、まず始めたいことなのだと理解した。
それは応援するべきことだ。この世界でずっと生きてきた1人の人間として、新しくこの世界で生きていくときめた彼女を、自分は応援していきたい。
キバナは微笑み、心からの言葉を伝える。

「いい旅になるといいな」
「ありがとうございます。それで旅立つ前にキバナさんに伝えたいことがあって……」
 
今度はまふゆが深呼吸を繰り返す。ようやく覚悟が決まったのか、緊張の面持ちでキバナを見上げた。
視線が絡む。瞳と瞳が交わった。

「わたし、キバナさんが好きですっ」
 
声が弾み、恋の色で満ちている。
彼女が、笑っていた。

「…………は」
 
キバナは思わず言葉を失う。今、目の前にいるまふゆは笑っている。あの凍った表情ではなく、目元を緩め、満面の笑みを浮かべている。
なにより彼女は今なんと言った?
さまざまな感情の嵐がドラゴンストームを襲う。しかし、まふゆは休むことなく攻撃を続けた。

「あなたのおかげでこの世界を好きになれた。あなたがいたからこの世界を好きになれた。あなたのすべてが大好きです、キバナさん!」
 
想いを言葉に紡ぐたびにまふゆは笑う。キバナが初めて見る彼女の笑顔が何回も何回も。甘い色で頬が彩り、とろりと蕩けた愛に瞳がきらめいている。
キバナが最も見たかった少女の笑顔が自分に向けられていた。自分への恋の言葉を乗せながら。
それはキバナがまふゆへ抱いている感情と同じ。
あまりにも想定していなかった出来事が次々と起り、キバナが世界に置いて行かれる間に少女は満足したのか、ふぅと大きく息を吐き出した。

「すみません。こんな急に。――お返事はいりません。言い逃げ、させてください」
 
そう言うとくるりと身体を翻し、走っていく。向かう先は船のタラップだ。

「は!?」
 
翻るスカートの裾が視界に揺れ、ようやく脳の処理が追いついた。何をしているんだ、と身体にシグナルが送られる。一拍……いや三拍ほど間が空いて彼女の後を追いかけた。

「ちょ、ちょっと待て! まふゆ!」
 
しかし初動が遅れたのがいけなかったらしく、まふゆはタラップを駆け上がり船の中へ入っていってしまう。
さすがにそこまではキバナは追いかけられない。見送りはあくまで港までだ。必死に名前を呼ぶと、彼女は最後に振り返る。再び微笑みを表情に乗せ、叫んだ。

「もし、お返事をいただけるなら、わたしが帰ってきたときに聞かせてください。誰よりも一番に会いに来て、お返事してください。約束ですよ!」
「——上等だ! その時を楽しみにしていろ!」
「はい!」
 
タラップが外される。船の入り口は閉められ、少女の姿は見えなくなった。船はキバナを置いてゆっくりと動き出し、イッシュ地方へ向かっていく。
その船が消えるまで見送っておきたかったが、大騒ぎをしたせいか注目を浴びていたようだ。周囲から色めきたった声が聞こえてくる。幸運なことに騒ぎの中心がドラゴンストームであることはまだバレてはいないらしい。
気づかれる前に、と早足でキバナはその場を後にする。

「ったく、あいつ、言い逃げしやがって! オレさまのほうが絶対先に好きになっているってのに、自分だけが好きだみたいな顔して……!」
 
しかし初めて見た彼女の笑顔に胸が満たされていく。あんなに愛らしい笑みを浮かべるのか、まふゆは。
それだけで、今は許してやろう。仕方ないから、待っていてやろう。

「ったく、早く戻ってこいよな。オレさまがしびれを切らして迎えにいく前に」
 
先ほど旅立っていったのにもう戻ってくることを願っているなんて。我ながらいやな奴だとキバナは笑った。


***


船の甲板で、少女は笑い転げていた。

「ふふっ、言っちゃった!」

言っちゃったねぇ、とばかりにズルズキンは鳴いた。その横でキュウコンがくちびるの1つぐらい奪ってくればいいのにと不満げにしている。同じ女の子として、それぐらいしてこいとずっと彼女は言っていた。

「……なんかすっきりしちゃった。これで思いっきり旅を楽しめるね。イッシュ、久しぶりだなあ」

バウタウンの港はもうだいぶ小さい。キャモメの群れを眺めながら、小さく「好きです、キバナさん」と呟いた。
返事は期待していない。一方的に感情を押しつけたから、もしかしたら怒っているかも。それでもあの人なら、ちゃんと「答え」を用意してくれると信じている。自分の望む答えではないとしても、この恋を放りっぱなしにはしない。
それがまふゆが好きになったキバナという男だ。

甲板ならポケモンを出していいとのことで、サザンドラとゴルーグも出す。まだ人もまばらだから大きなポケモンを出しても大丈夫だろうと判断してのことだった。

「みんなで写真撮ろうか! 新しい旅の第一歩!」

自撮りは得意じゃないけれど、せっかくなのでスマートフォンを操作する。いろいろと試行錯誤を繰り返し、最終的にまふゆはゴルーグの肩に乗ることになった。なんとか全員を画面におさめ、シャッターボタンを押す。
シャッター音が響き、一瞬が切り取られる。スマートフォンの画面にはばっちりと映っていた。自分が今まで撮った中で一番の写真が。
それをしっかりと保存して、まふゆは改めてポケモンたちに伝えた。

「改めてこれからもよろしくね! みんな!」

彼女の笑みを見て、仲間たちは顔を見合わせる。何をいまさら言っているのだろう。頼まれなくてもこの先ずっと自分たちはまふゆのそばにいるというのに。

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