*バレンタインネタ
「バレンタインだっけ」
マリィがぽつりと呟いた。真剣な顔でエネココアを計量している。1gも誤差を許さないとばかりに、目盛りを睨みつけていた。漂う甘くて少し苦い香りから、以前まふゆが話したことを思い出したのかもしれない。
まふゆは卵黄と卵白をわけながら「そう、バレンタイン」と答えた。
2月14日といえばバレンタイン。彼女にとってはそちらのほうが馴染み深い。
「好きな人にチョコレートを渡して、告白する日。といっても、友達同士で交換する友チョコ≠ニかもあって……とにかくいろいろ理由つけてチョコを渡す日になっていたかな。私の回りでは、ちゃんと告白していた人の方が少なかったかも」
お菓子会社が主導となって盛り上げていた日でもあるから、という言葉はさすがにロマンが無いので飲み込んだ。そこまで詳細を説明する必要はないと判断し、ハンドミキサーのスイッチを入れる。そのまま冷やされたステンレスボウルの中にある卵白を泡立てる。時折グラニュー糖を投入し、ツノの立つメレンゲを作るべくかき混ぜた。
――この世界には、いわゆる「バレンタインデー」が無い。当たり前だ。この世界には「バレンタイン」の由来になる人物がいないのだから。そこに寂しさを覚えなかったといえば嘘になる。改めて「自分は違う世界にいる」と突きつけられた気がしたからだ。
その代わり、この世界の2月14日は「サンクスデイ」というイベントになっている。お世話になっている人へ感謝の意を示すというものであり、大意としてはバレンタインと変わらないのかもしれない。しかし、そのイベントへ彼女が参加したことはない。
理由としては、そんな余裕が今までにはなかったこと。なにより、まふゆはどこか他人事のように思っていたのだ。「自分はこの世界の人間ではない」という線引きをずっと抱き続けていた。
だが、今は違う。世界に触れる旅を終えて、ガラルに戻ってきた。訪れた地方で出会った人を通し、改めて自分はこの世界で生きていくと決めたというのが大きい。いろいろと己の中で答えを見つけて――自然と「今年はサンクスデイに参加してみようかな」という気持ちが彼女の中にわきあがってきた。
「サンクスデイ用のお菓子を作らないか」とマリィに誘われたのは、ちょうど贈るためのお菓子を買おうとしていた矢先のこと。お菓子作りなんて、元の世界でも数えるほどしかしていない。うまくできるか不安だと素直に友人へ打ち明ければ「マリィも慣れているってお世辞にも言えんとよ。……だから一緒にやろ?」と微笑みが返ってきた。
「まふゆと一緒にお菓子、作りたいんよ」
頬を染め、おずおずとその言葉を口にするマリィ。友人の優しさは痛いほど伝わってきて――まふゆは大きく頷いた。そして今日、材料を買い込み、マリィとネズの家へお邪魔したというわけだ。マリィがネズに「アニキは立ち入り禁止だからね!」と釘を刺し、いよいよ二人のお菓子作りが始まる。
初心者向けのレシピを探し――でも少しだけ背伸びをして――エネココアを混ぜたシフォンケーキを作ることにした。まふゆのリクエストで「バレンタイン」の要素をいれた、特別なシフォンケーキ。
「モルペコ! 食べたらだめだかんね!」
「焼いていない生地は食べたらお腹壊しちゃうよ」
時折つまみ食いをしそうになるモルペコに目を光らせながら、二人は順調に工程を進めていく。オーブンの余熱を忘れてしまったり、混ぜる順番を間違えてしまったり――アクシデントが起きるごとに二人の慌てた声がキッチンに響く。
それを聞きつけたネズがわざとらしく理由を作って顔を見せるたびにマリィは頬を膨らませ、追い出す。その光景を見て、まふゆはこらえきれずに笑い声をこぼした。
穏やかで温かな時間の中、ついにシフォンケーキが焼きあがった。
「ちょっとへこんでいるかな……?」
まふゆは端末に表示されている、見本としての出来上がり写真と目の前にあるシフォンケーキを見比べる。ふわりと甘い香りが漂ってはいるが、どことなく不格好なのだ。マリィは竹串を目立たないところへ刺し、焼き上がりを確認する。生地が竹串についていないことから「ちゃんと火は通ってるけど……」と呟いた。完成のはずなのに、どこか不安な気持ちが晴れない。これでよいのだろうか、と二人で顔を見合わせる。
「なかなかうまくできたじゃねーですか」
「アニキ……」
オーブンの焼き上がり音が聞こえたのか、ネズがまた様子を見にきた。今度ばかりはマリィも追い出すことはない。ネズは二人の視線を受け流しながら、ミトンをつける。すぐさまシフォンケーキをひっくり返し、ケーキ型の中央に空いた穴の箇所をビンへ挿した。
「こうしておかないとさらに萎みやがるんでね」
ネズはふっと目元を緩める。
「マリィ、まふゆ、とてもうまくできていますよ。――おれはこのご馳走をいただけると期待しても?」
「当り前!」
「受け取ってください!」
食い気味に叫ぶ二人へネズは肩を震わせる。不安が晴れた彼女たちの表情は明るい。「アニキが言うなら大丈夫だね」「うまくいってよかった」と囁きあう姿を見て、ネズは楽しそうに言った。
「ではアニキからは、このシフォンケーキへ添えるホイップクリームでもプレゼントしましょうかね」
ネズ特性のホイップクリームを添えたシフォンケーキは美味しかった。味見として食べたそれは、確かに不格好ではあったが切り分けたらそこまで気にならない。丁寧にラッピングをしたそれを潰さないように持参した紙袋へしまい、まふゆはナックルシティへと向かった。
すでにキバナへはメッセージを送ってある。返信の内容も良好。少しだけならジムを離れられるらしい。大丈夫、大丈夫、と口の中で繰り返し、指示されたジムの裏手へ回る。
そこにはすでにキバナが待っていた。まふゆが名を呼べば、すぐに彼は顔をあげ、柔和な笑みを向けてくる。駆けよったせいで乱れた前髪を、手櫛で整える。
「お待たせしちゃいましたか?」
「ぜーんぜん。というか、オレさまが待ちきれなくて」
ずっとそわそわしてた、と照れくさそうにキバナは頬をかく。
「ティーンじゃねぇんだから、とは思ったんだが……まふゆが絡むとだめだわ。ドキドキしっぱなしで、どうにかなっちまいそう」
その言葉を聞いてまふゆの胸が甘く締めつけられる。キバナを愛おしいと感じる想いが、溢れだしてたまらない。この人が好きだ、と痛いほどに噛みしめる。キバナを好きになってよかった。そして、この人に愛されていることがなんて幸せなことだろう。
まふゆは紙袋からシフォンケーキを一つ取り出す。それを見てキバナは「サンクスデイ?」と言った。もちろんキバナもまふゆ宛てのプレゼントを用意してある。
「それもあるんですけど……わたしの世界では、今日はバレンタイン≠ニいうイベントで」
まふゆは自身の声が震えていることに気づきながらも、かいつまんでバレンタインの説明をする。拙いながらもキバナにはきちんと伝わったらしい。彼は差し出されたシフォンケーキを、彼女の手ごと包み込んだ。
冷えたまふゆの指先が、キバナにはとてつもなく愛おしかった。
さまざまな感情がわきあがる。しかし言葉できるのはたった一言だけだった。
「好きだぜ、まふゆ」
何度も口にされた言葉は新しい響きを纏って恋人へ落とされる。
秘された意味を、理由を、そこに込められた感情はしっかりとまふゆに伝わっていた。まふゆもまた頬を染め、微笑んだ。
「わたしも、好きです」
キバナが腰を折り、まふゆが背伸びをする。自然と二人のくちびるが重なった。
何度目かわからないキスはいつでも絶対的な愛を伝えていた。
**
「ぼくに? いいのかい?」
夕食のデザートとして出されたシフォンケーキにカブは目を丸くした。もちろん、用意したのはまふゆだ。はにかみながら「サンクスデイです」と頷く。カブはそうか、とカレンダーへ視線を移す。どうも自分はこの手のイベントには疎い。マリィの家へお邪魔する、と出かけたのはこれを作っていたからなのだと、いまさらながらに合点がいった。
改めてフルーツの添えられているエネココアのシフォンケーキを見ると、キラキラと光っているようにカブの瞳には映り始める。じん、とあたたかな感動が心に広がっていく。
「あと、カブさんにはこれも」
浸っていたカブの胸中を知らず、まふゆはさらに背に隠していた包みを渡した。中身はブランデーの小瓶である。
「サンクスデイのプレゼントはこれだけじゃないのかい?」
「これはバレンタイン≠フプレゼントです」
本日、何回目かわからないバレンタインの説明をし、まふゆは続けた。
「毎年、元の世界ではバレンタインに父へお酒をあげていたんです。父はチョコレートが苦手だったので」
決して父の代わりとしてカブを見ているわけではない。しかし、まふゆにとってカブはこの世界の父≠ノ他ならなかった。カブはチョコレートが苦手なわけではないから、それを渡してもよかった。しかし、シフォンケーキと同じ味になってしまうのは避けたいところ。
なら、やはり酒はどうだろうかと考えたのだ。カブは酒も嗜んでいる。まふゆも成人後は相伴に預かっていた。知識が豊富なキバナへアドバイスを求め、選んだブランデーは絶対にココアのシフォンケーキにあうはず。(キバナは「やっぱり早めにカブさんに挨拶しにいくべきだよな……」と胃を押さえていたが)
「……受け取ってくれますか?」
「もちろんだよ。ありがとう」
ふにゃりと笑ったカブの目の端が僅かに光る。
早速封を開けたブランデーを飲みながら、父≠ヘ娘≠フ作ったシフォンケーキを食べはじめる。まふゆはどきどきしながら、その光景を見つめた。こんなに緊張したのははじめてかもしれない、とも。
「すごく美味しいよ」
「……よかったです!」
その言葉は本心。カブが今まで食べたどんなケーキよりも、酒よりも、それらは美味しかった。彼にとって、忘れられない味になるほどに。