たっているから


完全に陽が昇っていないエンジンシティの朝は蒸気のにおいに満ちている。
ワイルドエリアの撮影から戻ってきたまふゆはその独特な空気を吸う。こうして肺がひんやりと満ちていく感覚が彼女は好きだ。「帰ってきた」と思えるから。

カブには朝帰りになるとちゃんと伝えているのでもう少し寄り道しても大丈夫だろう。せっかくだからなにか朝食でも買っていこうかと、持っていた撮影機材を抱え直し行きつけのベーカリーへと向かった。今から帰れば朝食のタイミングにも合う。

早朝からやっているそこはすでに明かりがついており、OPENの看板がかかっていた。一応ガラスの奥から店内を覗くが入っても大丈夫そうだ。
ドアを引くとまふゆの来店を店主へと知らせるように、軽やかなベルが鳴り響く。

「いらっしゃいませ! おや、まふゆちゃん」
「朝早くからすみません」
「全然! 撮影の帰りかい?」
 
素直に頷くと「ちょっと眠そうな顔、しているもんねぇ」と店主は目を細める。一方で指摘されたまふゆは自身の頬に思わず触れる。そんなにわかりやすく眠い顔をしているのだろうかと不安になったのだ。彼女の少し抜けたような仕草を見て店主は大きな声で豪快に笑う。

「わかるさ。まふゆちゃんはとっくにエンジンシティの一員なんだからね」
「……はいっ」
 
実のところ、店主はまふゆの詳しい事情は知らない。知っていることといえば、カブの養子となったぐらいだ。しかし、そんなことはエンジンシティの住人みなが知っている。つまり、特に込み入った事情≠ニは言えない。

そもそも、まふゆは彼女が気づくよりもずっと前からエンジンシティに受け入れられている。その証拠にエンジンシティの店のほとんどには彼女が撮った写真が飾られており、本屋の特設コーナーには写真集が並べられている。この街のジムリーダーのように、住む人たちもみな厳しくもとても優しいのだ。そうやってまふゆは受け入れられてきた。
店主は「さて」と店の奥から大きなトレーを持ち出し、言う。

「ちょうどバケットが焼けたけど、どうするかね?」
「じゃあ、それいただきたいです」
 
ふわりと小麦のにおいがまふゆの鼻をくすぐる。チーズとハムを挟むか、残っていたオレンのマーマレードをバターと一緒に塗るか――迷うところだ。どちらも絶対に美味しいから余計に。小ぶりなバケットと、ついでにモーモーミルクを使った甘いミルク風味のパンを買い、まふゆは店を後にした。



「わたしに、ですか?」
「うん。今日の午後ぐらいに。急で申し訳ない」
 
家に帰ればすでにカブは起きていて、朝のルーティンワークをしていたところだった。まふゆはその横で朝食を準備する。といってもサラダとスープ、買った際に思い描いていたチーズとハムを挟んだバケットサンド。それとマーマレードをたっぷりぬったものも用意した。簡単なものであると恐縮するまふゆへ「とても美味しそうだ。ありがとう」とカブは喜んでくれた。せっかくだからとミルクたっぷりの甘めなカフェオレを淹れて、ゆっくりと朝食後の余韻を味わう。そんなときにカブは告げた。まふゆに会いたい、という人物が今日ここへやってくることを。

「突然だし、本人に確認を取ってからと伝えてあるから断ってくれても構わないんだけどね」
「わたしは全然」
「でもずいぶん眠い顔をしているよ」
「う、カブさんも同じこと言う……」 

そんなにわかりやすいだろうか、とまふゆはくちびるを尖らせる。確かに眠いけれど、今から仮眠を取れば午後には復活できるだろう。そう伝えればカブは苦笑しつつ、頷いた。

「じゃあ14時ごろでいいかな。でも無理はせずにね」
「はい。もちろんです。――でも、わたしにわざわざ会いに来るだなんて、どなたですか?」
 
カブならまだしも、「まふゆ」を目的に訪れる人はそう多くない。思い浮かぶ顔も限られてくる。
キバナなら直接自分へ連絡するだろう。むしろカブを経由する必要性がない。友人たちも同様だ。ならばリーグ関係者だろうか。となると、ダンデぐらいしか候補があがってこない。しかし予想に反して、告げられた名前はその誰でもなかった。

「ピオニーといってね、ぼくの旧友なんだ」
「そのピオニーさんがどうして? カブさんに会いにくるならわかりますが……」
 
素直な疑問だった。先ほども考えた通り、その人がわざわざ自分を指名する理由がわからないのだ。首を傾げるまふゆへ、カブは曖昧に言葉を濁らせ目を伏せる。

「単純にぼくの家族を――まふゆを紹介したいというのもあったのだけれど」
 
彼はカフェオレを飲み、静かに言葉を落とす。

「ピオニーくんは、ローズ元委員長の弟なんだ」


***


その人はまふゆに会った瞬間、土下座をして叫んだ。勢いよく身体ごと玄関の床へ伏せる。

「すまなかった!!!!」

慌てたのはまふゆである。ぎょっと飛びあがって「そんなやめてください!」と傍らへしゃがみこむ。もちろんカブも驚いたのは言うまでもない。以前教えた自身の文化をピオニーが覚えていたこともだが、それを娘に対して実践されるとは思わなかったのだ。ガラルに土下座の文化は無いから余計に。同時に気づく。彼が珍しくスーツを着てきたのは、謝罪のためだったのかと。(なぜまふゆと会いたいか尋ねてもずっとはぐらかされてしまっていたのだ)
ピオニーは未だにそのスーツが汚れることを厭わず、頭を床へつけている。

「オレの兄が嬢ちゃんにしたことを考えれば、こうしたって足りないぐらいだ」
「…………」
 
ドキリとまふゆの胸が鳴った。呼吸が荒くなるのを意識して抑える。その間にもピオニーは続けた。例の事件に関連してまふゆのことを知ったこと。ブラックナイトに巻き込んだこともさることながら、元の世界から無理矢理といっても過言ではない方法で連れてきてしまったこと。それらをカブに問いただせば、あながち間違いではなかったこと。

「出所したらあいつにもちゃんとけじめはつけさせる。オレからの謝罪なんざ、嬢ちゃんにとって煩わしいだけかもしれん。だが、謝らせてほしい。身内が本当に申し訳ないことをした」
普段のピオニーを知っていれば、いま彼が発した声音と声量が普段のものと大いに違っていることに戸惑うだろう。現にカブは目を見開いている。それだけ彼の声は震えていたからだ。
「……どうしてピオニーさんが謝るんですか? ピオニーさんはなにもしていないのに」

まふゆは瞳を彷徨わせ、おずおずと尋ねた。間髪入れずにピオニーは答える。

「家族だからだ」

ようやく、その人は顔をあげた。
「あいつとの仲は――お察しの通りだが、それにしたってつけなきゃならんけじめはある。オレは己のプライドのために、そこんとこを違えるつもりはない」

本当にすまなかった、と彼はまたすぐに頭を下げる。その姿を見て、まふゆはきゅっと結んだくちびるをほどいた。

「謝らないでください。えっと、もうそのことはわたしの中でも整理がついたというか」
「しかし……」
「たしかに怖いこともあったけれど、それはブラックナイトに利用されてしまったことであって、この世界に来たことじゃないです」

ちょっぴり嘘をついた。怖いことも、不安なことも、この世界に来てからたくさんあった。しかし、それ以上に楽しいことや幸せなことも多くて、もう暗い気持ちはない。手を差し伸べてくれた人、受け入れてくれた人もたくさんいたから。
まふゆが大切にしたいのは、そのあたたかな気持ちのほうだった。

「もうわたしはこの世界が大好きで、この世界の一員だと思っています。だから謝罪はいりません。ブラックナイトに巻き込まれた件については、マクロコスモス社からちゃんと慰謝料という形でいただきました」

まふゆはピオニーの耳元へこそりと囁く。

「それにわたし、とても好きな人に出会えたんです。この世界に来た理由は、その人に出会うためだと思っちゃうぐらい好きなんです」
 
だからピオニーさんが考えているよりずっと、この世界を満喫してます。
ほんのり頬を染め、父親に気づかれぬように恋の話をするまふゆにピオニーは自身の娘が重なった。そのどこにでもいる姿≠見て唐突に理解する。たしかにこの子は特別≠ナあるかもしれない。しかし同時にただの≠アの世界に生きる一人の人間なのであると。

「……そりゃ、ド・ときめくことじゃねぇか」
「あっ、えっとカブさんにはまだ詳しいことは言ってなくて、その」
「はは、そりゃそうだ! うちのシャクちゃんもオレには教えてくれんだろうさ!」
 
でもカブちゃんは気づいていると思うぜ、とは言わずに飲み込んだ。それはさすがに出しゃばりすぎたと感じたからだ。
ピオニーはようやく立ち上がり、改めてまふゆと向き合う。上背のあるピオニーを今度はまふゆが見上げる番だ。
「ピオニーだ。よろしくな、まふゆちゃん」
「はい。よろしくお願いします」
 
交わされた握手にほっと胸を撫で下ろしたのはカブである。二人のことをよく知っているから心配こそしていなかったが、気持ちの落とし方がどうなるかはわからなかったからだ。ピオニーはまふゆに引け目を感じていたし、まふゆはピオニーの気持ちを受け取りすぎてしまうだろうから。
だからこうしてよい方向へ落ち着いたのはは喜ばしいことだ。カブはあえて明るく声を出し、二人へ促す。

「さあ、そろそろ玄関から移動しようか。お茶菓子、買ってあるからね」
「お、いかりまんじゅうか?」
「はは、正解」
 
いかりまんじゅうはカブとまふゆの好物だ。あのほどよいあんこと薄皮で故郷を思い出し、なおかつ緑茶との相性も抜群。もちろん、フエンせんべいは言わずもがなである。

「そうだ。ピオニーさん、緑茶は大丈夫ですか?」
「ああ、好きだぜ。カブちゃんにしこたま飲まされたからな」
「よかったです! キバナさんはまだ苦手だから、確認した、くて……」
 
消え入りそうな声と共にまふゆの頬が染まっていく。いや、頬だけではない。首まで赤くなっていた。その様子は「キバナの名前を出すつもりはなかった」「つい口から出てしまった」と物語っている。
さすがにピオニーも察した。先程彼女が言っていた好きな人≠フ正体を。ちらりとカブを見やれば今の娘の声はちゃんと聞こえていたらしい。肯定するように眉を下げ、肩を竦めている。ほら、やっぱりバレている。

「……ま、オレは応援するぜ! カブちゃんの説得は任せておけよ!」
「そ、それは、その、あのっ」
「ド・青春だなぁ! 好きだぜ、そういうの!」
 
盛大に笑い声をあげながら、ばしばしとまふゆの背を叩くピオニーにカブは「こら、ピオニーくん」と諌めながらも、楽しげに緑茶が入った茶缶を取り出すのだった。

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