とびきり贅沢な悩み

これはきっと贅沢な悩みなのだろうな、とまふゆはキュウコンの毛並みを整えながら、ぼんやりと考える。
ガラルへ戻り、キバナと想いを確かめあった。そして二人は無事に「友人」から「恋人」へと関係を変えることができた。今でもたまに夢なのではないかと思う。しかし、そのたびにキバナがまふゆの不安を払ってくれるものだから、ゆっくりとまふゆは「恋人」に慣れていった。だから最初はそれだけで充分……だったのに。
メッセージのやりとりやデートを重ね、キバナに大切にされればされるほど、次第に欲というものが生まれていく。じわじわと、確実に。それは具体的に言うと――

「キス、したいな……」

もれた呟きはまふゆの本心。
だって好きなのだ。彼のことが。そしてキバナも自分のことを好きだと言ってくれている。二人の想いが向く先は同じ。それに疑いはなんてあるはずがない。あるはずがないから、余計に『次』を期待してしまう。手だって繋いだのだから、セオリー通りにいけば次はキスなのでは? ステップアップとしては間違いじゃない、はず。まふゆは一人、心の中で言い訳を連ねた。

キスしたい、と伝えれば、もちろんキバナは叶えてくれるだろう。彼はとびきり自分に甘いから。でも、どのタイミングでそれをねだればいいのかが、わからない。そもそも言っていいものなのだろうか? こういうのは雰囲気に後押しされて、自然とするものなのでは? 

残念ながらまふゆの『そういった知識』は元の世界で読んだ少女漫画や恋愛ドラマによるものが大きい。フィクションだとわかっていても、それに頼るしかないのだ。せめて映画でも見ておくべきだった、と後悔が募る。なんとなく映画のほうがリアリティがある……ような気がする。それがプラスになるかどうかは置いておくとして、ゼロにはならないだろう。
遅いかもしれないが今からでも映画館に駆け込もうか。確かポケウッドの新作が公開されていたはずだ。

そんなことを考えていたせいか、いつの間にかブラッシングしていた手が止まっていたらしい。続きを催促するキュウコンの声で我に返ったまふゆは、いまさらながら頬を染め、再度手を動かす。いまだに舞い上がっているのだと改めて自覚すると、今度はなんだか恥ずかしくてたまらなくなってきた。どきどきと高鳴る胸は恋に染まっていることなんて、考えなくてもわかる。

「会いたいなぁ……」

なら会いに行けばいいのに。きっとあの男はすぐにでも、文字通り「飛んで」くるはずに違いない。
まふゆの呟きを聞いたキュウコンは大きなあくびをしながら、身を伏せた。


***


「それでわたしに?」
「はい。急にお邪魔しちゃってすみません」
「それは全然! コイバナ大歓迎!」

研究もちょうど行き詰まっていたからさ、とソニアは苦笑しながら、オレンジ色の髪を指でいじる。

「でもわたしでよかったの?」
「はい。ソニアさんにお願いしたくって。すみません、そこまで面識もないのに、プライベートなことを相談してしまって」
「いいのいいの! コイバナ大好きだからさ。 それに、これを機にまふゆちゃんとも仲良くなれたらって思うし!」

よろしくね、と手を差し出されたソニアの手を取る。

あれから、いろいろと悩んだまふゆが頼ったのは年上の同性であるソニアだった。ユウリやマリィには相談が躊躇われ(なんとなく恥ずかしかったのだ)、かといってルリナやメロンの二人はキバナと同僚だから、と避けた結果である。

ソニアもキバナと関わりがないわけではなかったが、ルリナとメロンよりは距離が遠い。なによりソニアなら第三者的な視点でアドバイスをくれるのではと考えたのだ。研究者とは、そういう視点を持っているはず。

ソニアに聞きたいことがある、と内容は伏せてユウリ経由でアポイントメントを取り、ホップがいないタイミングを見計らってまふゆは研究所へやってきた。
持参した菓子折りを腰を折って渡せば、ソニアは「ロンド・ロゼのパウンドケーキじゃん!」と嬉々として、まふゆを招き入れた。

彼女は鼻歌交じりにロズレイティーを二人分淹れ、早速切り分けたパウンドケーキをまふゆにもふるまうころにはソニアはすっかりとまふゆにとって『頼れる年上のお姉さん』になっていた。

促されるように口を開く。
長年片想いをしていた相手(さすがにキバナであることは隠した)と晴れて恋人同士になることができた。それに満足していたけれど、次に進みたい。具体的にいえばキスをしたくなった。しかし、それを切り出すタイミングがわからない。

「そっかぁ、キスかぁ」

ソニアはフォークでパウンドケーキを切り分け、頬張った。洋酒が染みこんだしっとりとした生地に素朴な甘み、きのみとドライフルーツの甘酸っぱさが広がる。さすがロンド・ロゼのケーキだ、と感動さえ覚える味に震えた。

そんな美味しいケーキにまふゆは手をつけることなく、湯気が立つカップを見つめているだけだ。その表情に「なにか不安なことがあるの?」とソニアが尋ねると、おずおずと声が返ってくる。

「……わたしだけがそう思っていたら怖くて」
「キスしたいって?」

うなずきは肯定を示した。
自分が望めばキバナは叶えてくれるだろう。しかし、そこに彼自身の気持ちが伴っていないと意味がない。今日のディナーを決めるのとはわけが違うのだ。適当にしていいことではない。
なによりこういうことはお互いの気持ちを揃えて前に進んでいきたかった。それが「恋人」というものだと思うから。

ソニアは遮ることなく話を聞いた。静かにカップを傾け、香り高いお茶を楽しみながら。未だにカップへ視線を落とすまふゆへ、微笑みかける。

「そのまま、まっすぐ伝えればいいと思うな。その言葉が絶対、二人には必要だよ」
「でも……」
「わたしはね、まふゆちゃんのその気持ちが一番大事だと思うの。飾らない、まっすぐな言葉って、なかなか言えることじゃないし、言えなくなっちゃうから。本当に大事なの。それに、恋人さんはまふゆちゃんの真剣な気持ちを突き放す人じゃないでしょ?」
「もちろんです」
「なら大丈夫! ソニアお姉さんがお墨付きをあげましょう!」

それでももし傷つけられることがあったら教えてね。わたしがボコボコにしにいくから! ダンデくんもホップも連れて行くよ!
笑顔で胸を叩くソニアにつられ、まふゆの頬も緩む。それを見たソニアはほっと胸を撫で下ろした。ちゃんと相談に乗れたみたいだ、と。

さて、それはそれとして――

「ねえねえ、もっと話聞かせて? 出会いは? 告白はどっちから? というか、お相手さんってわたしの知ってる人?」
「ええと……」
「おねがーい! コイバナなんて久しぶりだから飢えてて! ときめきのお裾分けちょうだい!」

身を乗り出す彼女の瞳は輝いている。これは話すまで解放してもらえない、と早々にまふゆは諦めをつけた。



その夜、まふゆからキバナへ「通話をしたい」とメッセージが飛んだ。もちろんキバナは二つ返事で了承する。通話が繋がったことを確認すると、彼は当たり前のようにそれをビデオ通話に切り替える。一瞬のタイムラグのあと、画面に目を丸くしたまふゆが映る。

シャワーを浴びたばかりなのか、少し濡れた髪と上気した頬が画面越しに見えた。リラックスしているのか、少し気が緩んだ恋人の表情がキバナの心を締め付ける。つい「かわいい」と言葉が出そうになったのを寸でと堪えた。口に出したら最後、彼女は恥ずかしがって通話を切ってしまうだろうから。

一方、まふゆは焦っていた。普通の通話かと思ったら急に画面が切り替わったのだ。誰だって驚くに違いない。慌てて前髪を整える。それさえもキバナには見られているのだと気づき、取り繕うのをやめた。
案の定、クスクスと笑うキバナへじとりとした視線を向けると、心の篭っていない「すまない」と詫びが入る。

『オレさま、まふゆのそういうところ見るの好きだぜ』

画面の向こう側で肩を震わせながら言われても、残念ながらまふゆには効果がない。

『まあ、格好つけたいっていうのはわかるけどな』
「なら急にビデオ通話にしないでください」
『同じくらい無防備な姿も見たいんだよ。しかもまふゆから通話したいって言ってきたもんだから、余計に』

物は言いようだ。
反論しかけて、口をつぐむ。本題を思い出したからだ。自身の性格上、ちゃんと冷静になって伝えなければいけないことを理解していた。特に説明不足だ、とキバナの顔を顰めさせたことが何度もあるのだから。脱線していたら、また同じことを繰り返す。

「あのキバナさん。実は大事なお話があって」

真剣な声で放たれた言葉にキバナの緩んだ頬がぴしりと固まる。『大事な話』しかもこんなに改まって言い出すこととは一体……? 急速に思考回路が動く。
彼女の雰囲気から別れ話といった内容ではなさそうなことだけがわかる。同時に何を話すのかもわからない。キバナはごくりと唾を飲み込み『……会って話せないことなのか?』と探りを入れた。

「話せないことというか……」
『今からそっちに行くから、会おう』
「だ、ダメです!」

キスしたい、だなんて面と面で言うにはまだハードルが高すぎる!
だからせめて通話で、と考えたのに。だというのに、ビデオ通話となって緊張が高まってしまった。ここで会いに来られたら、自分の心臓は爆発してしまうだろう。会えるのは嬉しいけれど、いまは違うのだ。

しかし、彼女がしどろもどろになればなるほど、キバナの意志は固くなっていく。脱いでいたパーカーを羽織り、フライゴンが入っているボールを腰へセットする。その動きを目にした瞬間、まふゆは反射的に叫んだ。

「き、キスしたいんです!」
『………………は?』
「キバナさんとキスしたいって思っていて、でも直接言うのは恥ずかしいし、キバナさんはそう思ってないかもしれないから怖くて! でも通話なら大丈夫と思ったのに、なんか急にビデオ通話になるし……と、とにかく会うのはだめです!」

まふゆは矢継ぎ早に同じ言葉を繰り返す。キスしたい。恥ずかしい。会うのはだめ。混乱しているせいか、そのことに気づくことなく何度も何度も。キスしたい、と言い続ける。

彼女の声をBGMにし、キバナは天を仰いで、奥歯を噛みしめた。嫌な音が頭蓋骨に響いたが、そのぐらい力を込めないとどうにかなってしまいそうだった。

キバナだってまふゆとキスをしたいに決まっている。しかし、相手は恋愛初心者といっても過言ではなく、なにより自身が彼女を大切にしたかった。そしてキバナは平均よりもだいぶ――いや、かなり体格がいい。身長差はメリットにもデメリットにもなることを、他ならぬ本人がよく理解している。キスの場合には後者だ。近づくタイミングを見誤れば、いくら恋人とといえど、その圧力に怯んでしまうに違いない。

だからキスのタイミングは、とびきり慎重に、ここぞというときを待っていたのだが――これはもう耐えられない。というか、耐えていたら男が廃る。

『……とりあえず、そっち行くからイイコだから待っていてくれ』
「な、なんで」
『キス、しにいく』

くちびるに触れる許可が本人から許しがでたのた。じっとしてなんか、いられない。

『このキバナって男は、今すぐにお前のもとへ行って抱きしめて、キスをしたいワケ。いいな、逃げずに待っていろよ』

逃げても、追いかけるけどな。
まふゆの返事を聞く前に通話が切れる。ぷつん、と閉じた画面は『通話終了』と表示されていた。キスの予告だけを残して。

まふゆはどうしよう、と呟いた。
キバナの言葉を信じるのなら、今すぐにでも彼はここへ来るらしい。しかもキスをしに。
くらくらと熱で目の前が揺れる。とりあえず前髪を整えながら、カブに気づかれぬようこっそりと家を出る準備を始めるのだった。

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