「アイルくん!」

月明かりを背に、マントを翻し、カイリューから飛び降りたのはワタルだった。アイルは彼に駆け寄る。セキエイリーグからここまでかなりの距離があるはずなのに、あれからそんなに時間が経っていない。どれだけ急いでくれたのかと思うと、申し訳なさで押しつぶされそうになる。
謝罪と共に彼女が頭を下げれば「おれが来たくて、ここにいる」と彼は首を振った。

「それよりも頼ってくれたことが嬉しいよ」
「ワタルさん……」
「ああ、やっぱり泣いていたんだな」

ゆるりと微笑むワタルの指が頰を撫ぜ、アイルの目元を擦る。こちらを気遣う優しい仕草に、アイルの胸が締め付けられた。

「赤くなっている」
「……気のせいです」
「そうだな、おれの気のせいかもしれない。暗いから、よくわからない」

向けられる微笑みは、アイルの不安な心を溶かしていく。再びじわりとにじむ涙を隠すように顔をそむければ、彼の困ったような笑い声が聞こえた。そして一瞬にして、真面目な表情へと戻る。

「さて、盗まれたのはどんなものだ?」
「手のひらぐらいの、石の歯車です」
「……学術的価値は?」
「わかりません。これからそれを調べようかなと思っていた矢先で」
「なるほど」
 
そう呟いてワタルは考え込んだ。一方でアイルは『歯車』に対して深く追求されないことにほっと胸を撫で下ろす。今はまだその時ではない。それに「話せば長くなる」から、なんてそんな言い訳を胸の中で重ねていたからだ。

「ポケモンの技を受けた、と言っていたが」
「はい。そんな感覚がありました。レンジャー時代にも、似たようなことがあったので」
「……そのことについては、今は水に流そう。そうなるとトレーナーの仕業か、野生ポケモンのせいか」
「トレーナーなら、他のものにも手を出しそうな気がします。金銭とか。ただ野生ポケモンだと、本当にどこに行ったかが全くわからなくて……」

トレーナーならある程度、アジトにしている場所は絞られるだろう。しかし、野生ポケモンならそうはいかない。いわゆる巣のようなものがあればいいが移動し続けるポケモンだと、その足跡を辿るのは難しいだろう。ワタルも同じことを考えたのか、再度念を押すように尋ねてくる。

「本当に犯人に心当たりは無いんだな?」
「はい」
「わかった」

そう言って彼はマントを翻し、カイリューの背に乗った。そして、アイルに手を差し伸べる。

「エンジュに向かう。乗ってくれ」
「えっ」
「きみは空を飛べるポケモンが手持ちにいないだろう? この時間じゃ交通機関も動いていない。カイリューなら二人ぐらい大丈夫だ。さあ、乗って」
「……わかりました」

散々迷ってから手を取った彼女を、ワタルは軽々と引き上げる。それに身を任せていると、気づいた時にはアイルの背中には彼の体温を感じていた。視界は広く、見晴らしがいい。少し呆けたのち、アイルは叫び声をあげた。

「え!? 私が前ですか!?」
「何か、問題が?」
 
首を傾げる彼にアイルは言葉を詰まらせる。「えっと、その……」と迷う声をあげる。
その姿に、なにを考えたのかワタルは軽く笑いながらアイルの腹部に腕を回す。そのまま自身の身体のほうへ寄せた。

「ひぃっ」
「その反応は傷つくなぁ。大丈夫、落としやしないさ」
「そうじゃないです!」

し、脂肪がバレる! とアイルは青ざめる。女性ならではの悩みはなかなか男性には伝わらないものだ。せめて後ろにしてください、と口を開こうとするが、それを阻止するかのようにエネコがちゃっかりと空いた前のスペースに乗り込んだ。これでは動くこともできない。

「エネコ! どいて!」
 
小声で相棒に文句を言うが素知らぬ顔。むしろ、今から始まる空の旅にわくわくしているようだ。

「よし、行くぞ」
「えっ!」

アイルの身体はワタルとさらに密着する。触れた背中に感じる体温は先ほどよりも熱い。トレーナーの指示を受け、カイリューは空へと舞い上がる。こうなってはもう諦めるしかない。アイルはぎゅうと目を瞑り、束の間の空の旅に身を任せるのだった。


***


エンジュの地に降り立つと、ワタルはまっすぐにジムへ歩みを進める。その道すがら、アイルはふらつく足でなぜエンジュに来たのかを尋ねる。なんでも、ここのジムリーダーは『千里眼』という特殊な能力を持っているらしい。

「その力を借りようと思って。もう話はつけてある」

ジムの扉を数回叩く。建物の中はすっかり電気を落としていて、彼を疑うわけでは無いが本当にジムリーダーはいるのだろうか。しばらくすると静かにドアが開かれ、中から金髪にタレ目の男性がひょこりと顔を出す。

「ああ、ワタルさん。お待ちしていました」
「夜分遅くに申し訳ない」
「いえ、普段もこの時間は起きていますから。ゲンガー達に付き合っているので。――そこの女性が話の?」

彼からの視線を向けられたので、アイルは頭を下げる。

「アイルといいます。この度はお手間をおかけしまして、申し訳ありません」
「ぼくはマツバ。このエンジュジムのジムリーダーです。とりあえず中へ。立ち話をする時間でもないですし」
 
彼の言葉に甘え、ジムの中へ入る。エネコはボールの中へ戻した。(彼女は不満そうだったが)

「足元暗いので、ぼくの後ろをちゃんと着いてきてくださいね」

暗いってレベルじゃなくないかな? これ。アイルは心の中ツッコミをいれた。一歩先さえ、真っ暗で何も見えないのに、気をつけるもなにもないのでは?
だというのに、自分のジムだから慣れているマツバはともかく、ワタルさえも気にせず進んでいく。自分がおかしいのか? と狼狽えてしまうほどに、彼の歩みは淀みない。

しかし自分は違う。大丈夫だとはわかっていても最初の一歩がなかなか踏み出せず、生まれたてのシキジカのように怯えているアイルにワタルは気づき、おかしそうに笑った。

「足を踏み外すとまた入口に戻るからな」
「えっ」
 
シンオウのジムも変なギミックが多かったが、ここもなかなかだ。さらに尻込みするアイルの姿に、ワタルはさらに言葉を続ける。

「この前みたいに抱えようか? おれはここ、慣れているから落ちる心配も無いぞ」
「結構です!」
「なんだ。残念」

残念ってなんだ、残念って! 
この前、というとトキワのことだろう。グリーンの前でさえ恥ずかしかったのに、加えてマツバにまであんな恥ずかしい姿を見られるのは勘弁してほしい。

「ほら、手」
「?」
「つないでおけば、怖くないだろう? おれが先導する」
「そういう問題では無いような気が」
「おれはそういう問題な気がしている。ほら、3秒以内につながないと問答無用で抱えるからな。いーち、にー」
「よろしくお願いします!」
 
がしりと彼の手を握る。背に腹は代えられないとはよく言ったものだ。まだ手をつないでいるほうが恥ずかしくない。二人の手が結ばれたことを確認し、ゆっくりとワタルは歩き出す。その後ろを恐る恐るついて行くアイル。歩みは遅いが、道を踏み外すことなく進んでいく。

「あの……」
「なんだ?」
「離さないでくださいね」
 
彼の背中へアイルは申し訳なさそうに言葉を投げる。それを聞いて、黒いマントが大げさに揺れた。愉快そうな笑い声が聞こえてくる。

「……言われなくても」

ぽつりとワタルは呟いた。彼女に言われるまでも無く、この手のぬくもりを手放すことを自分はひどく惜しいと感じている。たとえこのような状況であったとしても。

「ワタルさん?」
「――いや、なんでもない。少しスピードをあげるぞ。マツバくんと距離が遠い」
 
言うやいなや一気に歩く速さが変わる。アイルはそれに追いつくのが必死になってしまい、先ほどの感じたワタルへの違和感をすっかり忘れてしまうのだった。 
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