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ようやく辿り着いたバックスペース。硬い床が広がる光景に、アイルは大袈裟なほどに安堵した。そのことに目ざとく気づいたワタルは笑いを隠すことなく、肩を震わせる。それを彼女はじとりと睨みつけて抗議すれば「すまない」と軽い詫びの言葉を彼は口にした。あいにくとアイルには全然そう思っているように感じられなかったが。

「こちらへ」

マツバの声に案内され、靴を脱いで畳の座敷にあがる。夜ならではのものとは違う静寂がその場を支配していて、アイルの背筋は自然と伸びた。予め用意されていた座布団にそれぞれ座る。マツバの向かいにアイル、その隣にワタルだ。
マツバは先ほど迎えてくれたよりも、どことなく張り詰めた表情を浮かべているように見える。しかし彼の纏う雰囲気は柔和で、ちぐはくとした違和感がぬぐえない。

「改めて、ぼくはエンジュジムのジムリーダーをしているマツバです。よろしく」
「アイルです。この度はご迷惑をおかけいたします……」
 
頭を下げる彼女に、「大丈夫だよ」と彼は微笑んだ。

「チャンピオンから聞いているかもしれないけれど、ぼくには『千里眼』と呼ばれる能力がある。少し先の未来が視えたり、さまざまな場所に意識だけを飛ばして、そこを視たり――アイルさんの探し物にも力になれるはずだ。失くした物の特徴を教えてもらえるかい?」

失くしたもの≠サの言葉に胸が締めつけられる。途端に嫌な汗が噴き出した。早く見つけないと、と焦燥感が迫ってくる。巻き込んでしまう申し訳なさを感じながら、アイルは口を開いた。

「……石でできた、歯車です。手のひらサイズの。中央に六角形の穴があり、その周囲を囲うように窪みがあります。さらにそこから外側に向かって、時計の針のような紋様が――」

そういえば写真があったと思い出す。説明するよりもそちらを見せたほうが早いだろうと考え、手帳に挟んでいた写真を取り出した。

「これです。このペンの横に置いてある歯車が失くしてしまったんです。便宜上、私は『時の歯車』と呼んでいます」
「……なるほど。『時の歯車』か」
 
写真をまじまじと見つめる姿に「探せますか?」つい尋ねかけると、その問いをわかっていたかのように「大丈夫」とだけ彼は答えた。そして眉間に右手の人差し指と中指を当て、瞑想を始める。すると、どこからか現れたゴーストとムウマが彼の周りを漂いだす。その光景に目を奪われていると、ワタルが「彼はゴーストタイプ専門のジムリーダーなんだ」とアイルに耳打ちした。

「こうやって『千里眼』を使うときは、彼のポケモンたちがいつの間にかそばにやってくる」
「……そうなんですね。驚きました」
 
集中を邪魔しないように小声で話していると、1匹のムウマが彼女へ近づいてくる。こちらを誘うようにころころと笑って、遊びたいとでも言いたげにアイルの周りを泳いだ。その笑みに惹かれるように、手を伸ばし――

「こら、ムウマ。アイルさんにちょっかいを出したらいけないよ」

と、マツバの声が鋭く刺さった。ムウマは悪戯がバレたときの子供のようにぺろりと舌を出して、大人しく彼の元へ戻る。アイルの代わりにそのポケモンを撫でた彼は、やわらかな目元を引き締め、告げた。

「『時の歯車』を見つけました」
「本当ですか!?」
「ただ――」
 
言葉を詰まらせ、浮かべる表情は優れない。もしかして壊れているとか、そういう可能性があるのだろうか。一瞬晴れたアイルの心にまた暗雲が立ち込める。マツバはそんな彼女の様子に気づき「壊れているとか、そういう訳じゃない」と首を振った。

「じゃあ、何が視えたんだ?」
 
ワタルの続きを促すような質問に彼は答える。

「『時の歯車』があるのはアルフの遺跡に間違いないかと。そしてその目的は――」
 
一呼吸。たったそれだけの空白が、ひどく長くアイルには感じた。

「アイルさん、あなただ」
「私が、目的?」
 
予想にもしなかった言葉をつい聞き返す。つまり、アイルをおびき寄せるために犯人は歯車を盗んだということだろうか? そう尋ねると、彼はすぐに頷いた。

「正確には『時の歯車』を持った人物をポケモンたちは探していたようだ。そして何かの機会に、アイルさんが歯車を持っていたことに気づいた。そして君と接触しようとして――」
「『歯車』を盗んだ……」
 
自分とコンタクトを取るために。正面から野生ポケモンが向かってきたら、警戒されると踏んでの行動。あくまで『歯車』を盗んだのは手段だったのだ。アイルという目的のための。

「最近、遺跡のポケモンたちが騒がしいのも何か関係が?」

ワタルの発言で思い出すのは、遺跡でこちらを凝視していたネイティオのこと。そうか、あの時に自分が歯車を持っていたことに気づかれたのだろう。同時に遺跡のポケモンのことは彼にも話が通っていたんだ、と頭の片隅で考える。

「ええ。おそらくは。……あくまでぼくの予想ですが、遺跡のポケモンたちは『歯車』の存在をうっすらではありますが、認識していたのかもしれません」
「なるほど。ヒワダと遺跡は比較的近い。なんらかの予兆を感じていた可能性もあるのか……」
 
話し込む2人に、アイルは遺跡でネイティオに歯車を目撃されていたことを告げると、マツバは合点がいったようで「確かにネイティオが視えた」と頷いた。

「とりあえず遺跡に向かおう。行くぞ、アイルくん」
 
マツバに礼を言って立ち上がろうとするワタルに、思わず待ったをかける。これ以上、彼のお世話になるわけにはいかない。そう伝える彼女とは裏腹に、彼は眉根を寄せ、不機嫌そうな表情を浮かべた。

「今更、放り出せと?」
「充分お世話になった、と言っているんです。元々私の事情なのに、これ以上ワタルさんに迷惑はかけられません」
「エンジュと遺跡からは距離がある。空を飛べるポケモンもいないのに、どうやって向かうつもりだ?」
「私を待っているのなら、時間がかかっても大丈夫なはずです。それに罠かもしれない。危険です」
「なら余計に俺がいたほうがいいだろう」
「私なら大丈夫です!」
「あいにくと、君の『大丈夫』は信用ならないことをよく知っているものでね」
 
必死に反論するが聞く耳を持ってくれない。しかしアイルもここは引くことができない。遅いかもしれないが、彼を巻き込みたくはないのだ。それほど自分の研究は――目的とするものは特殊だと理解している。そこに関わるポケモンも。

ワタルもすべての事情を話せないことで、察してくれているはずだ。それなのに、共に行くという。
両者一歩も引かず、言い争いはヒートアップしていく。ついついアイルも頭に血がのぼり、声を荒げてしまった。

「ワタルさんはどうしてこだわるんですか! 放っておいてくれてもいいのに!」
「放っておく? そんなことできるものか」
「どうしてですか!?」
「そんなこともわからないのか? おれはきみが誰よりも心配なんだ!」
 
叫んだ瞬間に、彼は口を噤んだ。先程までの勢いが一気にそぎ落とされ、手で口元を押さえている。つい、自分の感情が零れ出てしまった、そんな顔をしている。
その急な変化につられて、アイルも言葉が出てこなくなる。心配してくれている。それは嬉しい。嬉しいけれど、なにかが違うような。その言葉の奥に何かが隠されているような。そんな予感が心を這う。

アイルは思わず「ワタルさん?」と彼の名を呼ぶ。少しだけ温度が乗ったその声を聴いてもワタルは微動だにしなかった。ただ、ほんのりと目元が赤くなっていたが、残念ながらアイルは気づかない。
ふいに笑い声が聞こえた。そちらへ2人して顔を向ければ、すっかり蚊帳の外となってしまったマツバがくすくすと笑っている。

「……マツバくん」
 
バツの悪そうなワタルの声に、マツバはいっそう笑みを深くする。

「ふふっ、すみません。ワタルさんが思ったより子供だなと思ったら、つい。――アイルさん、ぼくもワタルさんに賛成かな。もう少し力を借りたほうがいい」
 
千里眼でそう視えたからね、と彼は言う。マツバに肯定されたせいもあってか、ワタルからの「ほらみろ」といった視線を感じるがしれっと無視をした。

「正直なところ今回の事については、きっとあなた一人でもなんとかなる。いや、なんとかなってしまう」
「それでも、ワタルさんに迷惑をかけろと?」
 
反論しかけるワタルをマツバが手で制する。

「アイルさん。今、『歯車』を取り返すだけならあなただけでもなんとかなる。けれど本来の目的≠ヨ目指すのならば、1人ではどうしようもできない。断言するよ」
「…………」
「ここからはぼくの余計なおせっかいだけれど、今から自分だけでなんとかするクセを治した方がいい。そうでないと、最善のゴールには辿りつけない。幸運なことにワタルさんもぼくも、あなたの力になりたいと思っている。これは『よくある』ことじゃない」
 
だからこそ、頼るべきであると言うのだろう。彼は。しかしそれをすぐに受け入れられるほど、自分は大人になれていない。その自覚がアイルにはあった。
ふとワタルが気になり、横目で彼を盗み見る。すると、その行動さえもお見通しだと言わんばかりに、こちらをまっすぐ見つめる瞳と視線が交わった。浮かぶその真摯さに胸が締めつけられる。

そうだった。頼りたいから、自分にも頼ってほしいと言ったのは、他ならぬ己自身だ。

「……わかりました。ワタルさん、もう少しお力を借りていいですか?」
 
ご迷惑をおかけします、と頭を下げる。すると、こつんと軽やかな衝撃が頭に走る。恐る恐る顔をあげると、「きみ、本当に変なところで頑固だよな」と不服そうな表情。その表情は見慣れていたものだったから、彼とは反対にアイルの頬は緩んだ。 
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