12



白い巨体に金の輪を背負い、翡翠と紅蓮を重ねた瞳。シンオウ神話に登場し、世界を作ったという幻の――神にも等しきポケモン。
そのアルセウスが、今、静かに佇んでいる。

「なぜここにアルセウスが?」
 
ワタルの疑問ももっともだ。ここはジョウト地方、アルフの遺跡。アルセウスの神話との関連は薄い。しかし、まったく縁が無いわけでもなかった。その可能性にすぐに気づき、彼は呟く。

「シント遺跡に繋がったか?」
「えっ? シント遺跡はシンオウですよ?」
 
神話が語り継がれ、多くの遺跡が残っているシンオウ地方。かのシンオウチャンピオン・シロナもそれらの考古学を研究する一人である。
神秘が息づくあの地方には、神話にまつわるスポットがいくつもある。その一つがシント遺跡。雪深い奥地に隠され、人の訪れを拒むような遺跡。そこと繋がったとは?

「過去にアルフの遺跡からシント遺跡へテレポートしたという事象があるんだ。その時もアルセウスがいたらしい。それにきみも感じただろう? あの浮遊感。もしかしたらあれが――」
「シント遺跡へのテレポートということですか?」
「可能性はある」
「でも、シント遺跡にはこんな石室はありません。一度訪れたことがあるのでわかります」
 
シロナに案内され、アイルもまたシント遺跡には足を踏み入れたことがある。そこには『みつぶたい』と呼ばれる、三本の柱が建った祭壇があるだけだった。こんな石室は無かったし、あそこには常駐する研究員もいるから見落としていたという可能性も低いだろう。 

思考の海に沈んだアイルへ、アルセウスに集中しろ、と言いたげな相棒の声が飛んでくる。そうだ、今はこのポケモンをどうにかしなければならない。
ぎゅっとくちびるを噛みしめる。意を決して、振り返る。

「ワタルさん、あの……」
「だめだ。危険すぎる」
 
自身の言いたいことを先回りして否定する彼へ、つい笑みがこぼれる。あまりにも予想通りすぎて。どうしてだろう、彼から向けられるその感情にどうしても心があたたかくなる。
肩に回る腕にそっとアイルの手が触れた。

「大丈夫です。――私、アルセウスと一度会っているんです」

だから、大丈夫。
根拠は? と訊かれると困るけれど、エネコもルカリオもいる。ボールには、控えに回ってくれているマリルリとデンチュラがいる。全員、油断はしていない。なにより――

「ワタルさんがいますから、大丈夫」
「きみは、まったく……」
 
何を言っても無駄だとワタルは察した。彼女は本当に頑固だ、と苦笑を零す。彼は彼女を送り出す前に、最後にもう一度だけアイルを抱きしめた。そしてその耳元で囁く。耳朶に触れる吐息は、どこか熱っぽい。

「本当は行かせたくない。……一緒にアルセウスの元まで行かれたらいいんだが、どうやらあのポケモンはきみだけをお呼びらしい」
その言葉と同時に拘束は解かれる。軽く背中を押された。彼からもらった勢いを、そのままにアイルの足はアルセウスの元へと動き出す。
そのポケモンは静かにそこに佇んだまま、ぴくりとも動かない。まるで彼女を品定めしているかのように。

「アルセウス。久しぶり、でいいのかな?」
 
まずは軽い挨拶。しかし、何も答えない。ただ静かにこちらを見下ろすだけだ。その瞳は『あの時』と何も変わっていない。凪いでいて、何も感じ取れない瞳。それが無性に悔しくて仕方ない。

「あなたは、何を伝えたいの? 私に、何を言いたいの?」
 
その言葉さえ、かのポケモンには聞こえているのかわからない。微動だにしない表情からアイルは何も読みとることはできないでいた。自分に何ができるのか、どうしたらいいのか。焦るばかりだ。小さな存在には目もくれないのだろうか、神様は。

そんな心揺れる相棒の代わりと言わんばかりに、エネコが一歩前へ出る。小さな身体をめいっぱい大きくして、叫び声をあげた。普段以上に勇ましい鳴き声を懸命に響かせている。
バトルしたらひとたまりもない神に等しいポケモン相手に果敢に食って掛かるエネコにアイルは思わず面食らった。決して、無謀なことをする子ではない。それなのに、何かを訴えるかのように鳴き続けている。
 
今にも飛びかかろうとする勢いのエネコは、さすがに隣にいたルカリオに抱え込まれた。それでも手足をばたつかせ、ルカリオの腕の中で暴れている。こういうときに冷静でいてくれるのはいつもルカリオだ。それに比べエネコは――本当に自分に似ている。

その光景はアイルへ勇気を与えるのに充分だった。相棒が小さな身体であんな大きなポケモンに訴える姿を見て、奮い立たないトレーナーはいないだろう。くよくよしていた自分はもういない。
アイルはアルセウスを睨みつけ、パートナーに負けないほどの大声で叫んだ。

「アルセウス! あなたが何を言いたいのか教えて! ちゃんとあなたの声を聞きたいの!」
 
エネコの声が通じたのか、はたまた彼女の願いを聞き入れたのか、ようやくアルセウスは動いた。その大きな頭をこちらに近づけ、目線を落とす。その視線の先を辿ると、何を求められているかに気がついた。

「……手を出せってこと?」
 
頷きは肯定だった。
要求のとおりにアイルは両手を差し出す。すると、もたげられた頭が一瞬だけそこへ触れ、離れていった。瞬間、手のひらの上に何か重量を感じる。

「『時の歯車』……?」

アイルの探していたものがそこにはあった。しかし諸手を挙げて、すぐには喜べない。彼女の胸中は驚きと戸惑いでいっぱいだった。なぜなら、その手のひらの上にある『時の歯車』は二つに増えていたからだ。
一つはいままで持っていたもので間違いない。いやというほど、何度も目にしていたからだ。傷のつき方、色、全て網膜に焼き付いている。しかし、もう一つのものは知らない。なんだろう、これは? 紋様も大きさも瓜二つ。でも、傷つき方や欠け方が異なっている。まったく別のモノがいまここにある。

「これは……なに……?」

すがるようにアルセウスに尋ねた。教えてほしい。どうして歯車が2つあるのか。この2つ目を渡すために、自分を誘導したのか?
訊きたいこと、問いかけたいことはたくさんある。なのに何から発していいかアイルにはわからなかった。言葉は出てこなくても何かを言わなければ、と彼女は口を開く。しかし、喉からは乾いた音しか出てこない。

アイルが『歯車』を受け取ったことを確認すると、アルセウスはまるで役目を終えたとばかりに、輪郭がぼやけていく。徐々にその姿が光に包まれる光景を見て、「行かないで」も「待って」も叫ぼうとした。それでも声は出てこない。混乱でパニックを起こしていた。

――時ヲ動カス、術ヲ探セ――
 
そんな彼女を突き放すように、脳内に響く声。「テレパシーか?」と背後でワタルの声が聞こえる。つまり、この声は自分だけじゃなく彼にも届いているということだ。もしかしたらポケモンたちにも。

――光ヲ守ル、術ヲ見ツケヨ――

「どうして……」

ようやく出た言葉は驚くほどに震えていた。かろうじて言葉になっているような、そんな状態の音。

「なんで前と同じことしか、言ってくれないの? ディアルガを調べた、セレビィを調べた。でもそこからどうしたらいいかわからないの。……あなたが何を求めているのかわからないの! 教えて! 私は何をすればいい!?」

――アノ世界ノ、光ヲ、時ヲ、守レ。オマエナラ、見ツケラレル――

「私だって守れるなら守りたいよ……! でも、もう次どうしたらいいかわからないの……お願い、教えてよ……神様なんでしょう……?」

アルセウスの姿は輝きを増していく。どんなに目を凝らしても、その姿はほとんど見えない。直視していると、こちらが焼かれてしまうような光に溢れていた。
そして終わりは急に訪れる。ここに来た時と同じような浮遊感が襲ってきた。強制的にこの場から飛ばされてしまう、と理解した。

「アルセウスっ!」
 
必死に手を伸ばすが、それは空を切る。激しい光、浮遊感、絶望。それらにアイルは耐えきることができなかった。いろいろな思いが、感情が、彼女を襲う。

――私の叫びは、あの神様にはきっと届いていない。
 
そして、ふつりと意識は途絶えた。


***


ぼんやりとアイルの目が覚める。間接照明なのに、その明かりがまぶしい。ようやく慣れたころに、ゆっくり身を起こすと自分がソファで横になっていたのがわかった。それと身体にかけられているのはマント。――彼のものだとすぐわかった。そのことにひどく安堵する。

意識がはっきりしてくると、ここがポケモンリーグのチャンピオン執務室であるとわかった。ここに入ったのが随分前に感じてしまう。そこまで遠い記憶ではないはずなのに。

「……エネコ」
 
アイルが起きたことに気づいたのか、傍らにいたエネコが心配そうに擦り寄ってくる。ずっとそばにいて、相棒の目覚めを待っていたのだ。

「心配、かけちゃったね。ごめんね」
 
言葉とともに身体を優しく撫でると、ぺろりと手のひらを舐めてきた。エネコが甘えるときのサインだ。それほどまでに心配をさせてしまったのだと、申し訳なくなった。

アイルはエネコを撫でながら、ぼんやりと考える。自分はあのアルフの遺跡で気を失い、ここまでワタルが運んでくれたのかもしれない。ああ、なんということだろう。あまりにも迷惑をかけすぎている。その事実に自己嫌悪に陥りそうになる思考を遮るように、ドアが開く。案の定、そこには彼がいた。

「ああ、起きたのか」
「ワタルさん。それに、ルカリオ?」
 
ワタルの横にはルカリオがいて、手にしたトレーにフーズやきのみを乗せている。

「いろいろと手伝ってくれたんだ。とりあえず、きみにはこれ」
 
ワタルはマグカップを一つこちらに渡す。「こぼさないように」と注意を促しながら。湯気と共にふわりと甘くやわらかい香りが鼻をくすぐった。

「きのみベースのハーブティー。気持ちが落ち着くらしい。前にカリンにもらったのを思い出して。嫌いじゃなければ、飲んでくれ」
「ありがとうございます。――いい香りですね」
 
いただきます、とアイルはゆっくりそれに口をつけた。甘酸っぱい、でもどこかしっとりとした味が広がり、温かさが身体に染み渡る。

「……美味しいです」
「それはよかった」
 
ワタルも彼女の向かいに座り、一つ飲む。しかし彼の口には合わなかったようで、わかりやすく表情を渋くさせたものだから、アイルはつい笑ってしまった。バツの悪そうにワタルは顔を背ける。

「あまり見ないでくれ、恥ずかしい」
「こんなレアなワタルさん、見過ごすわけにはいきません」
「やめてくれ……」
 
そんな二人の軽やかな会話の横でルカリオはてきぱきと準備をしていたらしく、エネコを呼ぶ。ソファから飛びおりたエネコと共に、きのみとフーズを頬張る。
その光景を見て、ワタルはくすりと微笑んだ。

「君のルカリオは賢いな。いろいろと手伝ってくれた」
「リオルの頃は甘えただったんですけどね。進化したら一気に大人びちゃって」
 
エネコのほうが先輩でお姉ちゃんなのに今じゃ正反対なんです、とアイルも笑う。その言葉にワタルも思うところがあるのか、含んだ声で「なるほど。なんとなく、わかるな」と頷いた。

「ワタルさん、こちらありがとうございます」
 
軽くたたんだマントをお礼の言葉と共に渡す。彼は受け取りながら「本当なら仮眠室のほうがよかったのかもしれないが、さすがに女子仮眠室に入るわけにいかなくて」と苦笑した。

「マントが無いワタルさん見るの、初めてです。レアですね」
「まあ、外に出るときはかならずつけているからな」
 
彼がそのマントにこだわりを持っているのは知っている。聞けば、タマムシデパートが行きつけであるらしい。なるほど確かにあのマントの手触りは別格だった。
そして静寂が訪れる。アイルもワタルもカップを傾けるだけの時間。気まずくはないけれど、かといって穏やかでもない静寂に部屋が満たされる。

彼が何も訊かないのは優しさだ。アイルはもちろんわかっている。自分から言わない限り、彼は尋ねもしないだろう。同時に、アイルが彼に伝えようか悩んでいることもわかっているのだろう。
ここまで巻き込んで、真実を話さないのはただの裏切りだ。彼の誠意への。

――わかっている。ワタルはいつだって心配してくれて力を貸してくれて、守ってくれている。なら、その誠意に答えなければいけない。
自分が彼と対等でありたいのなら、なおさら。ワタルと共にいたいのなら、話さなければいけない。

「ワタルさん、聞いてもらいたいことがあります」
「……いいのか? 聞いて」
「はい。たくさんご迷惑をおかけして、巻き込んでしまいました。今更かもしれないんですけど……ちゃんとお話しないといけないと思って」
「迷惑なわけがないだろう。おれはおれの意思で君の隣にいる。――アイルくんのことを知りたい」
「ちょっと長くなるんですけど」
「構わないさ。まだ夜は明けないから」
 
そう言って彼は微笑んだ。その笑みに身体がぬくもりに包まれる。優しくて、誠実で、ちゃんと受け止めてくれる人。こんなにもかっこいい人が、自分を支えてくれることを噛みしめる。
アイルはカップに残っているハーブティーを一口飲み、ルカリオへ声をかけた。彼は頷いて、と近付いてくる。

「お隣、いいですか? それと手を」
「……? いったいなにを?」
「口で話すより『見てもらった』ほうが早いので」
 
アイルはワタルの隣へ移動する。そしてルカリオはちょうど二人の間に立ち、アイルの右手、ワタルの左手にそれぞれ触れた。

「ルカリオの波導を通して、私の記憶を見せます。気分が悪くなったりしたら、ちゃんと言ってくださいね」
「ああ、わかった」
「ルカリオ、お願い」
 
アイルの言葉に頷き、ルカリオは波導を流し始める。特有のエネルギー波が流れこんでいるのを確認し、彼女は瞼をおろし、過去を思い出す。

――さて、どこから始めればいいのやら。 
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