13



それはまだ、アイルがポケモンレンジャーとして相棒のエネコと共に任務に励んでいたころまで遡る。


湿気により、まとわりついてくる髪の毛を手櫛で払った。この任務が終わったら、美容院の予約でもしようかな、なんて現実逃避をしながらも足は止めない。

「エネコ! あんまり先に行かないで!」

てこてこと先へ進むエネコの行く先を照らすため、慌ててハンドライトを向けた。そんなアイルの苦労も知らず、彼女は先へ進んでいく。
か細い鳴き声が聞こえたのは、この洞窟での任務を終わらせた矢先。遠くから響くその声は幼いポケモンのようで、無視することはできなかった。しかも今回の任務内容が「洞窟内の落石の調査」である。つまり、その落石事故に巻き込まれている可能性も否めない。
そうでなくてもポケモンレンジャーとして、そしてそのパートナーとして、困っている誰か≠見過ごすことはできなかった。「助けに行かない」という選択肢は元より消えている。

うっすらと聞こえてくるその声を頼りに、一人と一匹は入り組んだ洞窟内を歩いていく。幸いなことに方向は合っているようで、声も徐々に近づいてきた。
しばらく進むとアイルたちは急に開けた場所へ出る。どこからかうっすらと光が差し込んでいるのか、ぼんやりと全体像が把握できた。天井は見上げるほどの距離で、呼吸さえも反響する。

「この洞窟にこんな開けた場所、あったんだ……」
 
予めもらっていた地図にはこの場所の表記は無かったが――まあ、よくあることなので気にしない。満ちる空気はなんとなく今までの不快なものよりも、澄んでいるように思えた。
辺りを気にしていたアイルを呼ぶようにエネコが鳴く。慌ててそちらへ向かえば、エネコの傍らに足を怪我した一匹のリオルがいた。涙を浮かべるこのポケモンが、声の持ち主のようだ。
アイルはしゃがみこみ、笑みを浮かべる。

「足を見せて? 大丈夫、何もしないから」
 
リオルが頷いたのを確認して、足にそっと触れた。ハンドライトで患部を照らす。傷は大きく深いが、骨が折れている様子はなさそうだ。痛みで動けないのかもしれない。放っておけば熱も出てしまうだろう。早くポケモンセンターへ預けなければ。
アイルはウエストポーチから取り出したきずぐすりを使い、手早く包帯を巻く。これで少しは痛みが和らぐだろう。傷も多少はふさがるはずだ。だが、猶予はあまりない。

「さて、と。リオルは背負えばいいよね。あとは……」
 
他に怪我をしているようなポケモンがいないか確認をするべく立ち上がる。
瞬間、視界がぐるりと回った。立ちくらみにも、眩暈にも似た感覚。これはポケモンの技を喰らった時のそれだ。やはりどこかにポケモンがいるのだろうか。しかし、考えがまとまらず、同じことばかりを考えてしまう。

「っ、!」
 
ついにアイルは立っていられなくなり、身体が崩れる。地面の冷たさをダイレクトで感じながら、かろうじて頭を動かしエネコとリオルを確認する。二匹ともアイルと同じように不快感に苦しんでいた。つまり、どこかにいるポケモンは自分たちを明確に狙っているということになる。
だがその目的が見えない。可能性としては縄張りに足を踏み入れたあたりが有力だが、その場合には、ここに来た瞬間にこうなっていただろう。
 
ともあれ、弱っている二匹に、これ以上技が当たらないようにしないといけない。アイルは残った力を振り絞り、覆いかぶさるようにポケモンたちを身体の下に押し込む。「大丈夫だからね」と覇気も説得力もない声で呟いて、事が過ぎるのをひたすらに待った。


***


どのくらい時間が経ったかはわからない。頭痛に吐き気、上へ下への揺さぶられるような浮遊感。それらがようやく落ち着いたころに、アイルの耳に届いたのはせせらぎの音だった。同時に先ほどまで気づかなかった水辺特有の冷気が肌に触れる。洗練された水の匂いにアイルは瞼を開けた。
丸めた身体を起こしてポケモンたちの様子を伺う。二匹とも無事のようだ。ほっと胸を撫で下ろし、ポーチからきのみを取り出し半分に割る。それぞれを片方ずつ渡し、食べるように促した。これで多少は回復できるはずだ。

「それで、ここはどこなの……?」
 
あえて意識から遠ざけていたが、周囲の様子が明らかに一変している。自分たちは一切動いていない――もとより動けなかった――のに、ここは先ほどまでいた場所とは全く異なっている。その象徴たるは湖だ。これほどに大きい湖なら、いくら暗かったとしても絶対に目に入る。それを気づかなかったということは、攻撃してきたポケモンに隠されていたか、本当自分たちがどこかへ移動してしまったかのどちらかだ。
 
アイルは警戒しながら立ち上がり、歩く。湖の淵まで行き、水に触れた。さすがに口にすることは憚られたが、匂いや透明度からして飲用できるレベルであろうと判断する。
みずタイプのポケモンがいればもっと詳しくわかるだろうが、トレーナーと違いレンジャーが手持ちに――パートナーとして行動できるポケモンは一匹だけだ。アイルの場合はエネコになる。近くにポケモンもいないから、キャプチャを使って一時的な仲間にもできない。

水面へ触れた指先から波紋が広がる。それを追うように視線を移せば、中央に祠のようなものがあることに気がついた。目を細め、よく観察すると、台座の上に仰々しく祀られているモノ≠ェある。それはエメラルドグリーンに輝き、アイルのもとまで光りを届けていた。灯りが無くても行動できるのは、あの光のおかげなのだろう。――先ほどの洞窟はハンドライトが必需品だったのに、だ。

「きれい……」
 
アイルの口からつい呟きが漏れた。目を、心を奪われる。静かでやわらかい光に惹かれる。神聖でどこか温かいそれを『危険なもの』と認識するのは、彼女にとって難しかった。
少し悩んで、アイルは湖に足を入れる。靴の中に染みる水はかなり冷たい。駆ける寒気に身体が震えた。それを無視して、祠を目指す。幸か不幸か湖は底が浅い。もっとも深いところでも、彼女の胸元ほどだった。

アイルは訓練を積んでいるレンジャーでもあるので、水中を進むのは苦ではない。さほど時間もかからず、そこへ着いた。改めて、まじまじと祠を眺める。光るそれは、石で創られた歯車だった。時計のような針の模様が刻まれているところから、何か儀式にでも使うのかもしれない。

そもそもどういう原理で光っているのだろう。アイルはてっきり台座などに光源があるかと考えていたのだ。しかし、近くで見ればその予想は外れていることがわかる。歯車自身が発光しているからだ。
――ふと、違和感に気づく。

「さっきより、光が弱くなっている?」
 
目に見えて、というわけではない。なんとなくアイルがそう感じるだけだ。わずかな、違和感。でもなぜか胸を逸らせるような感覚が彼女を襲う。
アイルはポーチからカメラを取り出し、数枚ほど写真を撮ることにした。レンジャー協会から支給されるものはだいたい防水・防塵加工だから、そう簡単に壊れることもない。その代わり不便なこともあって、データ確認がすぐできないのだ。不便だけれど、問題なく撮れていることを祈りながらシャッターを切る。
 
さまざまな角度からそれを撮り、アイルはカメラをしまった。さて、ここからどうしようか。この歯車以外には何も見つからない。なにか手がかりがあればと思ったが、そう簡単にはいかなさそうだ。ならば一旦岸へ戻り、エネコと合流したほうがよいだろう。
最後にもう一度だけ、とアイルは歯車を見て、飛び上がった。

「ちょ、ちょっと待って!?」
 
明らかに、光が弱くなっている。少し目を離した隙になにがあったのかと疑うほどに。思考を回している場合ではない。その間にも光は薄くなっていく。

「ど、どうしたの!? なんで!?」
 
歯車相手に何を言っているんだ、と冷静な自分がツッコミを入れるが声をかけずにいられなかった。蝋燭のようにか細くなった輝きは、最後にちかちかと瞬き、ついに沈黙する。普通の石となってしまった歯車は、力を失ったかのように台座から転がり落ちた。今まで自分の力で浮遊していたと言わんばかりにだ。思わず手を出してそれをキャッチする。驚くほど軽いそれに目眩さえ覚えた。
 
しかしそれ以上の違和感をアイルが襲う。言葉にできない不可思議な感覚が迫る。唐突に「時間が止ってしまった」と頭を言葉が過ぎる。
文字通り、その場の時間が止まってしまったかのようだった。せせらぎの音も、空気の流れも、なにもかも。世界が生きている≠ニいう感覚が消えていく。息が詰まりそうな無音に耳奥が痛んだ。
 
理由として考えられるのは、この歯車だ。しかし、たったこんな小さな石の塊が、そんな大きな力を持っているのか、と疑問もわく。光っていたメカニズムはわからないが――この歯車が光を失ったせいで、この空間の時間が止まってしまったことになるのだろう。実感させられれば、いやでも信じざるを得ない。

手の中にある軽いそれが急激に重くなったように感じた。けれど、それを放り投げることを、なぜかアイルはできない。
そんな彼女はふと気配を感じた。何かが近くにいる。誘われるようにそちらへ顔を上げ、同時に言葉を失う。目を見開き、そのポケモンがなぜここにいるか必死に理解しようとする――が、できない。

「アルセウス……?」
 
白い巨体を持つ、神様たる一柱が彼女を見下ろしていた。
 
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