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アルセウス。シンオウ神話に登場する幻のポケモン。この世界を創ったとされる、神と崇められる存在。実際、かのポケモンのことを神として祀ることは多い。アイルも「神様とは?」と尋ねられれば、まっさきにアルセウスの名を出す。
しかし、その神様がなぜここに? 目の前にいるのだろう? 開いた口が塞がらないとはまさにこのことだ。
しかしアルセウスはじっとアイルを見つめ、動こうとはしない。佇むだけだった。

「えっと……」
 
何をしたらいいのか、どう動いたらいいのかわからない。しかし対話を諦めてはいけない。自分はポケモンレンジャーだ。ポケモンと心を通わせ対話する。そしてお互いに足りない部分を補い、世界をよりよいものにしていく。そんな職業に自分はついている。

だから「心を通わせる」ことは十八番のはずだ。アイルはイチかバチかでキャプチャを構える。このアイテムを使えば、きっとこのポケモンの考えていることもわかる。そして、自分の考えもアルセウスに伝わるはずだ。アイルが行なったことはないが、伝説ポケモンのキャプチャに成功した事例もある。自身のレンジャーとしての経験値を信じるしか、今はできない。
 
アイルの動きを見て攻撃をされると思ったのか、はたまた元よりそのつもりだったのか――。彼女がキャプチャを起動する前に、アルセウスは咆哮した。ただの咆哮ではない。強大な力を伴ったその響きは洞窟内に響き、遠く離れたエネコとリオルさえも身体を震わせる。そしてそれを間近で受けたアイルは一瞬意識が飛んだ。
よろめき、尻もちをついた彼女の脳内に映像が流れ込んでいる。目の前のポケモンが見せていることに気づくのは、ごく自然のことだった。
 
それを見て、一番に感じたことは「苦しい」だった。
光が無い、空が暗く厚い雲に覆われ闇が満ちた世界でポケモンたちが生きていた。狂暴化した個体もいるのか、一方的に傷つけられているポケモンの姿もある。食料もわずかのようで、飢えを凌いでいるベビーポケモンたちがいた。人間の姿が見えないことだけは不思議だったが、そんな疑問が飛んでいくほどに悲惨な光景。

暗い闇の世界でも、必死に生きようとするポケモンたちへ襲い掛かる無慈悲な現実。それでも立ち上がり、必死に食料と光を求め歩き出すキモリにアイルは思わず手を伸ばし、わずかに触れ――ぷつん、とテレビのスイッチを切るように映像は唐突に終わりを告げた。

「……今のは、なに? どこの光景なの?」
 
身体の奥から寒気が上ってくる。思わずアイルは自身の肩を抱いた。少しでも熱を逃さないように。この寒さは、水に入ったせいではない。もっと生理的なものだ。あんな世界、認めたくない。でもとっくにアイルは理解していた。あれは『どこかに存在している世界』なのだということに。ポケモンたちしかいなかったのも、ここではないどこかを表しているのだろう。
では、なぜそれを自分に見せたのか。わいてくる疑問の答えを求めるようにアルセウスへ尋ねた。

「あれはいったいなんなの? どうして私に……?」
 
そもそも、あの世界は自分たちが生きている世界と地続きと考えていいのだろうか。それとももっと別な――パラレルワールドという可能性もある。人の姿が見えなかったことを考えれば、無視できない仮説だ。しかし、どんなに考えても最終的に一つの疑問に行きついてしまう。
このポケモンはアイルに、自分へなにを求めているのか、と。

「アルセウス、お願い。教えて」
 
再びアイルは尋ねた。返事は元より期待していない。
しかし、予想と反してアルセウスは答えた。映像と同じく脳内に直接響く。テレパシーの類であると思われるそれから、重く強い声。

――時ヲ動カス、術ヲ探セ――
「時を、動かす?」
――手掛カリガ、ソノ『歯車』ダ――
「あの世界はなんなの? 時を動かすってどういう意味?」
――光ヲ、時ヲ、守ル術ヲ見ツケヨ。人ノ子ヨ――
「お願い、ちゃんと話を聞かせて! 私だって力になれるならなりたいの!」
――朝陽ヲ、アノ、世界ニ――
 
言葉を重ねるごとに、アルセウスの声が徐々に消えていく。同時に身体も。時間が無いということが、いやでもわかった。ことさらアイルは叫びを強くする。少しでも届くように。

「お願い! 待って!」
 
アイルは必死に手を伸ばす。しかしそれは情けなく空を切った。うっすらとしか見えなくなったアルセウスは最後の力を振り絞るように咆哮した。そして引っ張られるような、浮くような、不思議な感覚がアイルを襲う。「戻ってしまう」とすぐに理解した。

「アルセウス!」
 
叫び声は届かなかったのだろう。 次に彼女が目を開けると、そこは洞窟の入り口だった。数時間前に、任務へ出発するときにつけた目印のスカーフが揺れている。どのくらい時間が経ったのかはわからないが、あたりはすっかりと暗くなっていた。
ふいに鳴き声が聞こえた。エネコとリオルが耳と尾を下げ、こちらを見つめている。その声は弱々しい。その理由をなんとなくアイルは察していた。とびきりの微笑みを作り、言う。

「エネコ、リオル。よかった、戻ってこられたんだね。怪我はない?」
 
とたんに胸に飛び込んでくる二匹を力いっぱいにアイルは抱きしめた。アルセウスと対話していたとき、離れた場所にいたため不安があったが、一緒に戻ってくることができた。二つのぬくもりに、無性に心が締め付けられる。この子たちはちゃんと生きているのだと、痛感する。

「……あの光景、あなたたちも見た?」
 
躊躇いつつも、二匹は頷いた。そうか見てしまったのか。同じポケモンがあれほど苦しんでいたのだ。人間の自分よりも悲しんでいるに違いない。

「私たち、どうしたらいいんだろう……」
 
つい漏れた不安な感情。心配して、すり寄ってくる二匹を再び抱きしめた。アイルの手にはずっと握りしめたままの歯車がある。それが、あの光景を夢ではないと訴えていた。早く動け、とアイルを急かす。そうでなくとも、リオルをポケモンセンターに連れていかなければいけないし、任務の報告もしなければいけない。
これから自分に休む時間は許されないだろう、という予感がアイルにはあった。実際、朝陽や夜の闇を見る度に、アイルの心は焦燥感に苛まれることとなる。


***


夜が明け、切り替えてからのアイルの行動は早かった。入っていた任務が落ち着いたころ、彼女はレンジャーを辞めることにしたのだ。実力も実績もあるアイルの退職に所属している隊長も引き留めたが彼女の意志は強く、結果として受理されることとなる。
 
「真っ暗な世界を救え」とアルセウスは言っていた。あの光景を目にしてしまった以上、選択肢は残されていないのと同義。自分しかできないのなら、やるしかないのだ。他の道は無い。レンジャーの片手間でできることではないことを、アイル自身が一番わかっていた。
 
では、どうすればいいのか。答えは簡単だ。あのポケモンはしきりに「時間」と口にしていた。加えて、アルセウスはシンオウ神話に登場している。そうなるとディアルガにたどりつくのは当たり前のこと。ディアルガの研究、それがアイルの「やれること」へ変わっていく。
 
レンジャー寮を引き払い、実家に戻る。急に帰ってきたアイルに家族は驚き説明を求めたが、彼女は理由を濁して必死に机にかじりつく。ルーティンのトレーニングと必要最低限の生活要素以外に、席を立つことはなかった。
こんなに勉強したのはレンジャー資格試験以来。そのおかげか、なんとか一発でポケモン学会の入会資格を取ることができた。
 
本来であればここから各研究所や企業へ就職活動を行なうのだが――アイルはあえてフリーの道を選ぶ。金銭面含め不安要素は多いが、『時の歯車』についてはなるべく伏せていたほうがいいと考えたのだ。秘密することは難しいだろうけれど、話すとしたら信頼できる相手だけ。それでもアルセウスに会ったこと、あの時目にした光景のことは言わないと誓った。自分でさえよくわからない状況なのに、誰かを巻き込んでしまうのは本意ではない。その人を守れる自信が、今のアイルにはなかった。

「よしっ、と」
 
持ち物全てのチェックを終える。任務で野宿や旅には慣れているから、そこまでの不安は無い。あるとしたら、『時の歯車』のことだけだ。バッグの奥底に隠したそれを想い、息を吐く。この歯車の謎を解き、あの世界を救う。それは自分のやるべきことであり、自分しかできないことだ。

物思いに耽っていたアイルを呼ぶように、エネコとリオルがじゃれついた。エネコはレンジャー所属のポケモンのため、本来ならば『手持ち』にはなれない。しかし、他でもないエネコ自身が「一緒についていく!」と譲らなく、アイルと同じ道を進むことを選んだ。ずっと共にいたパートナーとの別れを覚悟していただけあって、これからもずっと共にいられることが決まった時、思わず泣いてしまった。
 
そしてリオルも。傷が癒えた後、野生に戻るよう促したがエネコと同じようにアイルの手持ちとなることを決めてくれたのだ。二匹ともあの世界を目にしたからこその選択。同じ使命を背負うという覚悟を感じたアイルがどれほど勇気づけられたか、二匹はきっと知らないだろう。
ノック音が響く。返事をする前に、ドアが開いた。

「そろそろ時間だろ。港まで送ってく」
「ん、ありがと」
 
兄の言葉に頷いて、二匹をボールに戻す。やっと戻ってきたと思ったらすぐに出ていく――振り回してしまう家族に心は痛んだが、それでもやらなくてはいけない。
まずは予定通りシンオウ地方へ。ありがたいことに伝手もある。できればすぐに神話研究の第一人者であるチャンピオン・シロナに会えるといいのだが……こればかりは神のみぞ、もといアルセウスのみが知ることになるだろう。

「頑張ろうね、みんな」
 
カタリと腰のボールが揺れる。それを確認し、アイルはバッグを肩に掛け、新しい一歩を踏みだす。次に帰ってくるときは全ての謎を解き、あの世界に光を取り戻したあとだと、誓いながら。
 
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