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一悶着ありつつも、二人は問題無く時間通りに乗船することができた。

船に乗り込んでもしばらく青い顔でふらふらしていたアイルだったが、案内された部屋を見て途端に回復する。なにしろ、普段の彼女では絶対に利用しない個室なものだから、否応が無しにテンションがあがってしまったのだ。ソファにテレビ、簡易テーブルもあれば、部屋備えのトイレと洗面台――ベッドが無いだけで、設備はほぼ普通のビジネスホテル並み。しかも窓の外は一面の海。これが噂のオーシャンビュー。窓を大きく開ければ潮騒が届く。ブリッジではなく部屋でそれを迎えられるなんて。常に貧乏旅行なアイルには初めての体験だった。
エネコとともに部屋中を見て回る嬉々としてアイルにワタルは「そんなに目を輝かせるほどか?」と苦笑する。

「初めて乗るわけじゃないだろう?」
「船は安旅の強い味方ですからね。でも、私が基本的に利用するのなんて一番安い雑魚寝部屋ですよ。こう、多少の仕切りがあるぐらいの。だからこんな個室なんて初めてで! あ、個人的には乗り継ぎで乗船した、イッシュからシンオウの船便のマットレスが一番やわらかいのでおすすめです」
「なるほど。知識の1つとして、覚えておくよ」
 
まるで子供のように目を輝かせる彼女を見て、少し奮発したチケットを用意して正解だった、とワタルは緩む口元を手で隠す。それほどまでに今の彼女の表情は魅力的だったからだ。
己に冷静さを取り戻すように話題を変える。

「部屋の探検もいいけれど、船内を見て回らないか? 食事もしたいし」
「賛成です!」

この船は連絡船といってもなかなかに立派であり、それに伴って少しの船旅も飽きさせないよう娯楽施設も充実している。
アイルはさきほど船員にもらったパンフレットを捲った。掲載されている店舗の多さに思わず声があがる。そして今までの船旅を思い浮かべた。いつもの倍、いやそれ以上ほどのお値段がすることは間違いない。

「ワタルさん、チケット代いくらですか? 持ってきた分で足りるといいんですけど……」

足りなければATMで引き出す旨を伝えつつ、アイルはバッグから金の入った封筒と財布を取り出した。彼に立て替えてもらっているチケット代を払うために、分けていたお札になる。彼女なりにジョウトからホウエンへの相場の料金を調べて用意したが、こんな立派な船なら相場よりかかることは明確。
しかし、ワタルはたった一言「いらないよ」と首を振るだけだった。その様子に、アイルはむっと眉を顰める。

「そういうわけには」
「これは勝手におれが用意したものだから、元々もらうつもりはないよ。もし金の出所を気にしているのなら言うが、おれのポケットマネーだから安心してくれ」
「そういう問題じゃないし、安心できないです! こういうのはけじめの問題ですから」
 
あの一件からアイルはワタルを頼ろうと決めた。決めはしたが、それに金銭的な面は含まれていない。彼に比べれば少ないが、アイルにだって稼ぐ手立てはあるのだ。――不安定ではあることは否めないが。なによりワタルとは対等でありたいと思っている。そういうけじめが彼女にはあった。
 
本日二回目の言い合いの末、ワタルはようやく封筒を受け取った。アイルとしては全額を払いたかったのだが、受け取るのは封筒の額のみということで手打ちになったのだから仕方ない。口から出そうになる「足りないかもしれないのに」という文句を抑えつつ、アイルは封筒を渡した。あとでこっそり中身を足してやろうか。
 
そう画策するアイルに足元のエネコが「やめておけ」と鳴いて諫める。残念ながら自分の相棒あのチャンピオン様の裏をかけるとは到底思えないのだ。バレたら今度はそれを理由に封筒の中身ごと突き返されてしまうだろう。
あいにくとアイルは素直で、顔に出やすいタイプだ。そこが彼女のいいところではあるのだけれど、こういったことには向いていない。
未だにワタルの隙を窺うアイルを、エネコは尻尾でぺしりと叩いた。



ようやく部屋から出るころには出航したこともあり船内はおおいに賑わっていた。小型ポケモンならボールから出してもいいとのことなので、ポケモンを連れているトレーナーも多い。

「カイリューを出してあげられなくて残念ですね」
「まあ、こいつらも慣れているからな。ただ、あとで甲板に行ってもいいかな? あそこなら大型ポケモンも出していいらしい」
「ぜひ! マリルリも泳ぎたいと思いますし」
 
アイルのマリルリもそうだが、みずポケモンは船でじっとしているより、そのそばを泳ぐのが好きだ。彼らの泳ぐスピードなら、船に置いていかれることもない。

とはいえまずは腹ごしらえ。出かけにいろいろとあってまともな食事はとれていない。いい加減何かを食べないと。アイルが取り出したパンフレットを眺めつつ、2人はどこのレストランへ行こうかと相談する。いくつものカフェやレストランがあるせいか、つい目移りしてしまう。しっかりとしたコースが振る舞われるカロス料理のレストランまである。本当に自分がいつも乗る船とは違うな、とアイルは噛みしめた。

「ワタルさんは行きたいところありますか?」
「そうだな……」
 
手にしたパンフレットを覗き込んでくるワタルに、アイルの心臓が跳ねる。彼女の身長に合わせるため屈んだせいか、無防備に近づく距離。彼の体温を纏う空気が頬に触れた。アイルはこっそりと彼の横顔を盗み見る。少し日に焼けた肌。焔を秘めた瞳。紅の髪。わかっていたけれど、この人すごくかっこいい。きゅうと心臓の奥が鳴った。
ふと、いつだか見たバトル中の表情を思い出す。あの時とは違い、今はリラックスした顔をしている。ほんのり緩んだ口元が可愛らしい、なんて。

「……えっと、アイルくん? おれの顔になにかついているかな?」
「ひえっ」
「そんなにじっと見つめられると……その、さすがのおれも、照れる」
「!」
 
ぎゅんっと音が鳴る勢いでアイルはワタルから離れた。指摘されるほど自分は彼を見つめていたのだと気づく。一気に顔が熱くなり、息が詰まる。

「す、すみません!」
「い、いや。おれのほうこそ、なんだかすまない……」
「ご飯行きましょうか! レストランフロア行ったら食べたいものが決まるかもしれませんし!」
 
取り繕うように早足で歩きだすアイル。その後ろ姿を見つめながら、ワタルは顔を隠すように口元を手で覆う。彼女がどういう意図を持って見つめていたのかを、ワタルはわからない。しかし、アイルが向けていたあの熱い視線にすっかりとやられていた。

「……あまり見ないでくれ」

足元で一部始終を目撃していた小さなポケモンに頼み込むように呻く。
エネコは「仕方ないな」と言うかのように、ぺしりと尻尾で彼の足を叩いた。この二人、案外似たもの同士だな、と思いながら。


***


昼食を取り終え、2人は船の甲板へと出ていた。大型のポケモンも多く賑わっている。食事をしているポケモンたちも少なくは無い。特に喜んでいるのがみずポケモンたちだ。アイルのマリルリとワタルのギャラドスも、そのうちに入る。食事もそこそこに二匹は海へ飛び込み、船の近くを他のみずポケモンたちと共に泳いでいた。
その光景をアイルは船ばたから覗き込む。時たまマリルリが手を振ってくるので、それを返していた。

「すまない、待たせた」
「いえ。大丈夫です」
 
席を外していたワタルが戻ってくる。チャンピオンとして顔も名前も知られているせいか、彼は多くの人に声をかけられていた。主にバトルの申し込みで。チャンピオンではなく個人としてのバトルならば、とワタルはほとんどのバトルを受けていた。老若男女問わずに。そして、そのトレーナーたちをカイリューだけで倒しきっているのだから、さすがとしか言いようがない。

一方アイルはそこまでバトルが得意ではないので、もっぱら見学組だ。何回かタッグバトルも誘われたが丁重にお断りした。足を引っ張る未来しか見えない。

いくらワタルといえども、立て続けに連戦を重ねて疲れたのだろう。ワタルは大きく息を吐き出し、乱れていた前髪を整える。傍らのカイリューはまだまだ元気そうだから、少し休んだからまたバトルをしにいくに違いない。

「それにしても人気者ですね。さすがセキエイチャンピオン」
「みんな船の上で暇を持て余しているからね。いい息抜きになったなら幸いさ」
「おお、さすが言葉の重みが違う」
「きみ、からかっているな?」
 
えへへ、と誤魔化すように笑えば、ワタルは頭を小突いてくる。

「まあ、でもおれ程度だからバトルだけですんでいるんだろうけれど」
「え?」
「他地方のチャンピオンだともっとすごいってことだよ」
 
ワタル曰く、彼はメディア露出が少ないほうらしい。向かっているホウエンのチャンピオンは大企業の御曹司、シロナは言わずもがな有名な考古学者。二人はよく一般的な雑誌にも取り上げられる機会は多い。他にもカロスチャンピオンはトップスターで、ガラルチャンピオンはリーグそのものがショー的な意味合いが強く、知名度は比でもないとのこと。

「イッシュ地方のチャンピオンぐらいじゃないかな。他の地方でそんなにメディアに出ないのは」
 
まあ、あの人もおれも避けているわけじゃないけどね、と笑う。
確かにポケモン育成の専門誌に彼はよく登場するし、リーグ公式発行の季刊誌などにもよく取り上げられている。ネットメディアもしかりだ。決して、ゼロではない。

「表に立つことで、ロケット団のような相手へ抑止力になるのならいくらでも、と思うんだけれど……」
「けれど?」
 
そこでワタルは言葉を探すように視線を彷徨わせて、どことなく不服そうに呟いた。

「おれ、写真映りが悪いらしいんだ」
「しゃしん、うつりが、わるい」
「カリンやカンナにことごとくダメ出しをされてね。あのイブキでさえ顔をしかめる始末で――」
「もしかして写真、苦手ですか?」
「そういうつもりはないんだが……」
 
笑顔を作っても目が笑っていない、とよく言われる。どちらが悪のボスだかわからないと言われて……と悩み始める彼の横でアイルはついに抑えきれなくなったのか、クスクスと声を漏らす。それを目ざとく見つけたワタルは苦虫をかみつぶしたような表情を浮かべた。アイルにはあまり格好悪いところを見せたくはないのだけれど、こうして笑ってくれているのならばいいか、という複雑な気持ちが混じり合う。
アイルはひとりしき笑い、目尻に浮かんだ涙を拭う。笑ってごめんなさい、と謝罪する。

「でも、もったいないですね」
「もったいない?」
 
訊き返された言葉に頷く。

「だって本当のワタルさんはこんなに優しくて、あたたかくて、かっこいい人だって、知らないなんてもったいないです。すごく素敵な人なのに」
「…………」
「写真映りが悪いならテレビのインタビューとかどうですか? 映像なら動きがありますし、多少は印象わかるかもしれませんよ! 今は、動画投稿サイトも多いですし」
「……そうだな。考えておくよ」
「ぜひぜひ! ――あ、マリルリ! そんな遠くまで行っちゃだめだからね!」
 
海で遊ぶマリルリへ身を乗り出し、叫ぶアイルの隣でワタルは先ほどとは違った意味で渋い顔を浮かべるしかできなかった。

「アイルくん、きみ、『タチが悪い』って言われたことないか?」
「そんな人聞きの悪い……。ありませんよ!」
 
抗議するアイルにワタルは「おれにはそう思えないよ」とほんのり赤くなった耳を隠すように、頭を抱えるのだった。 
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