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船のタラップを降りる。その瞬間、熱い空気と船の上で感じていたのとは違う海の匂いがアイルを包んだ。彼女の出身であるオブリビア地方も比較的温暖な気候ではあるが、故郷とはまた異なった日差しに目を細めた。
その様子を見て、ワタルは頬を緩める。

「初めてのホウエンはどうだい?」
「とても素敵な場所ですね。気持ちいいです」
 
新たな土地に足を踏み入れるのはいつだって胸弾むものだ。観光が目的でないとはいえ、ワタルがチャンピオン会に出席している間に多少は街を巡ることができるかもしれない。実際のところ目星はつけてはきたが、どうだろうか。
想像が膨らむ彼女を置いて、ワタルは周囲を見渡す。

「一応、迎えが来るはずなんだが」
「迎えですか?」
「ああ。宿泊ホテルへの案内を。先ほど、ダイゴから連絡が来てね。『相応しい人物を用意した』と」
「い、意味深ですね……」
 
夕方に差し掛かる時間に着いたとはいえ、港はまだ賑わっている。これでは人捜しも一苦労だろう。周囲を見渡すワタルに加勢しようとアイルが案内人の詳細を尋ねようと口を開こうとした――その瞬間、彼女の肩が優しく叩かれる。驚いて、振り返る。そこにいるのが誰かわかった途端に、アイルは満面の笑みでその名を呼んだ。

「シロナさん!」
「ふふ、久しぶりね。元気そうでなによりだわ」
「もちろんです! シロナさんこそ、お変わりないようで!」

アイルは喜びのまま彼女に飛びついた。そしてそれを当たり前のようにシロナも受け止める。シロナ愛用の甘くてどこか深みのある香水の香りが、アイルは大好きだ。

彼女へホウエンに行くこともあらかじめ連絡をしており、その返事ももらっていた。お互いに会うつもりでいたけれど、それはチャンピオン会の直前であるとアイルは考えていた。こんなに早く再会できるとは思っていなかったこともあり、アイルは嬉しそうに顔をほころばせる。

それはシロナも同様だった。久しぶりに会った妹分を思い切り抱きしめる。少し痩せた? 心配だ。でも顔色はいい。それに表情は晴れやか。きっとアイルは前進しているのだろう。そんなことが覗える。

「――ジョウトに行かせてよかったわ」
 
思わず言葉がもれた。

「シロナさん?」
「なんでもないの。さあ、久しぶりなんだからよく顔を見せてちょうだい」
 
シロナは両手でアイルの頬を包み、顔を近づける。二人のくちびるが触れ合いそうなほどまでに縮む距離。それをアイルも当たり前のように受け入れているものだから、ワタルは気まずそうな咳払いで自身の存在を示した。
あっ、と声をあげるアイルはともかく、シロナはきょとんとした表情をワタルへ向ける。

「あら、ワタルいたの?」
「なにをいけしゃあしゃあと……。最初からわかっていただろうに。それで、迎えはシロナということになるのか?」
「ええ。あたし達はいい時間の便が無くて、昨日こっちにきたのよ。アイルも来るってわかっていたから、あたしが立候補して迎えにね」
 
早くアイルにも会いたかったのが一番の理由だけれど、とシロナはアイルの頭を撫でた。しかし、にこにこと笑みを浮かべる彼女と違って、アイルはその言葉に何かに引っかかったのか首を傾げる。
それはワタルも同様だったようで「『達』ってどういうことだ?」と尋ねた。しかしシロナはその答えの本質には言及せず、「あなたと同じで、あたしにも連れがいるのよ。誰かはホテルに行ってから教えるわ」とはぐらかす。加えて「アイルにはきっとサプライズになるわ」とウインクを飛ばした。
その様子を見て、ワタルはアイルへ耳打ちする。

「……心当たりは?」
「今のところまったく」
 
実際、アイルの頭には何人かの顔が浮かんでいる。しかし、同時に「まさかあいつが来るわけ無い」とも。なにしろこんな場所へわざわざ来るタイプではないと他ならぬ彼女がわかっていた。
悩むアイルにシロナはくすりと笑う。

「そんなこと言ったら、拗ねるわよ。さ、行きましょ。そういえば、アイルはまだそらをとぶ≠ェ苦手なの?」
「に、苦手です」
「そのせいで出掛けに一悶着あったもんな」
「わー! ワタルさん、余計なこと言わないでください!」
「えっ、なになに? 教えて」
「いいから早く行きましょう! 日が暮れてしまいますよ!」
「ふふ、はいはい」


***


ホウエン地方でも屈指のリゾート地であるミナモシティに用意されたホテルの一室。アイルは宛がわれた部屋で、軽く身支度を整えた。あらかじめ送ってあった荷物と手持ちのバッグを整理して、準備完了。最後に姿見鏡で最終チェックをしてから、待ち合わせのロビーへアイルは向かう。
 
それにしてもシロナの連れとはいったい誰なのだろうか。長い廊下を歩く彼女は考える。自分へのサプライズとシロナは言っていた。
やっぱりあいつか? と最初に思い浮かんだ顔を、頭を振って追い出す。さすがにそれはない。面倒くさがりの代名詞であるのに、こんなところへわざわざ来ないはずだ。しかも自分に会いにくるというだけの理由で。というか、来て欲しくない。ワタルの前で彼≠ニやりとりするのは避けたい。
あの人の前では少しでもいい格好をしたい、とアイルは心の奥底で想っていた。

違うことを考えよう。アイルは無理矢理、思考回路を切り替える。これから向かう夕食の場でホウエンチャンピオンも含め、全員が勢揃いする。ならば、そこで『時の歯車』について話すことができるかもしれない。その可能性も含め、資料を持ってきたが……食事の場にはあまり相応しくない話題でもある。
やはり改めて時間を作ってもらった方が、と考えて、ふと彼女は気づく。

「って、あれ?」
 
右を見て、左を見て、もう右。

「ここどこ……?」
 
それに応える言葉は無く、まっすぐな廊下に吸い込まれていくだけだった。さあっ、と血の気が引いていく。

「も、もしかして迷った?」
 
アイルは慌てて来た道を戻ろうとするが、エレベーターホールを通り過ぎたのか、はたまたまだ先なのかもわからない。廊下はただ広く、代わり映えのない壁や廊下が延々と続いている。しかし、まさか屋内で迷子になるなんて……。がっくりと肩を落としながら、案内板を探しアイルは当てもなく歩きだす。もしくは壁伝いに歩いて行けば、ぐるりと一周して、ロビーへたどり着くはずだ。時間がかかることだけが気がかりだ。

「ったぁ!?」

そんな彼女へ唐突に衝撃が襲う。しかも頭をそこそこの力で叩かれた。遠慮のないそれにどこか既視感を覚える。先ほど脳内に浮かんでいた顔を思い浮かんだ。まさか、と背後にいる襲撃者に目を向ければ、案の定そこには脳内にある顔と同じものが。

「なにしているんだ、こんなところで」
「…………ど、どうして」
「大方、ぼんやりして迷ったってあたりか。変なところ気が抜けているのは相変わらずか」

彼はいつも通りの気怠さを纏いながら、呆れたように頭を掻いた。
その仕草はアイルの記憶の彼と変わらない。
アイルの数少ない友人であり『時の歯車』について知る一人、ナギサジムジムリーダー・デンジがそこにいた。

「シロナさんの連れって、デンジだったの!?」
「うるさい。大声を出さないでくれ」
 
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