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アイルがまだポケモンレンジャーとして活躍していたころ、彼女はいくつかの地方に転々と配属されていた。その一つがシンオウ地方である。任期は一年少しとあまり長くはなかったが、レンジャーの数が少ない地方の支部に配属されたせいもあり、東奔西走した記憶が強い。

その中で最も出動回数が多かったのがナギサシティだった。言わずもがな、ジムリーダーであるデンジによる停電騒ぎのせいである。理由が理由のため(主に犯人がわかっているというのが大きい)ポケモンレンジャーのアイルにとってできることは少なかったが、それでも可能な限り任務にあたり――結果としてデンジと顔を合わせる機会が増えた。
 
すると必然的に交流も生まれていく。歳が近いこと、なによりデンジにとってポケモンレンジャーが珍しかったのか……紆余曲折あり、オーバも含め三人はよき友人となった。そして、アイルがレンジャーを辞め、神話を調査するために最初に頼ったのは彼だった。
駆け込んできた友人をデンジは追い返すことも無く受け入れ、突拍子もなく重要な箇所は伏せられていた『時の歯車』の話を「お前が言うことなら」と信じた。無条件に寄せられた信頼にアイルがどれほど助かったかは言うまでも無い。

しかし「チャンピオンに会うためにはリーグを勝ち上がるしかない」とアイルに嘘を吹き込んだのもデンジだったので、最終的には感謝の気持ちが半減したが。

「ほんと最低ですよね!? そういう嘘つきます? 普通」
「結果的にバトルの腕もあがったからいいじゃないか。これからはバトルもする機会が増えるから、少しでも力になればいいというオレなりの気遣いだろ。そうだ、デンチュラは元気にしているか?」
「もちろん。ほんと、デンジにもらったたまごから孵った子なのに、素直ないい子に育ってくれました」
「……それどういう意味だ」
 
言い合いをしながら目的地のエレベーターホールに着いた二人を、すでに到着していたワタルは目を丸くして出迎えた。普段、自分へ接する際の態度とはまったく違う砕けたそれに、面食らう。一方で全てを知っていたシロナは楽しげに笑みを深めるのみ。
 
アイルはまずワタルへ、デンジとの関係を説明することとなったのだが、都度、茶々を入れてくるデンジのせいで話がろくに進まない。なんとか一通りの説明を終え、アイルは重く息を吐いた。

「シロナさんも、デンジがいるって教えてくれればいいのに……」
「ふふ。言ったでしょう? サプライズだって。アイルが来るならと思って、デンジくんに声かけたの。そうしたら、彼、思いの外乗り気になっちゃって」
「まあ、たまにはお前の顔を見てやるのもいいかと思って。やることと言えば、ジムの改造をするだけだしな」
「まだナギサを停電させているの!? いい加減にしなよ……」
 
デンジはふいとそっぽを向く。つまり、肯定。アイルは頭痛を覚え、こめかみを押さえる。ナギサシティの住民が未だに振り回されているのかと思うと、なぜだか自分が申し訳なくなってくる。実力があるのにやる気がないのは彼の悪いクセだ。

「最近はそうでもない」
「そういう意味じゃないから! ――ワタルさん?」
 
ふと、背中に感じた視線。その先の彼へ振り向く。呼ばれたワタルは絡んだ視線を受け「……ずいぶん仲がいいと思ってな」と呟いた。

「いつの間にか遠慮が無くなってしまって……むしろ、デンジにする遠慮がもったいないというか」
「おい。もっと敬えよ」
「どこを?」
「全部」
「寝言は寝てからお願いしたいんだけど」
 
頬をつねってくるデンジにお返しとばかりにアイルは彼の腹部に拳を入れる。ワタルやシロナの前だから大人しくしてほしいのに、とぶつくさ文句を言う彼女に「いまさらだろ」とデンジは鼻で笑う。それがまた頭にきて、アイルは力のこもっていない拳を叩きこんだ。
 
売り言葉に買い言葉。口も手も出るが、二人は決して本気にはならない。なんだかんだ、このじゃれあいをお互いに楽しんでいるのだ。そのせいもあって、久しぶりのやりとりにアイルもデンジもやわらかい空気をかもしだしていた。
「…………」
 
しかし、彼女らと正反対に、ワタルは冷ややかな瞳をそのじゃれあいへ向けていた。そんな彼を目ざとく見つけたのは、もちろんシロナである。アイルたちへ聞かれぬよう、声を潜めてワタルに囁いた。

「気になるんでしょう? 嫉妬していますって顔しているもの」
 
図星を突かれ、ワタルは気まずそうに視線をアイルたちから外した。そのあまりにも子供のような癇癪めいた行動に、シロナはさらに笑みを深めていく。

「ワタルもそういう顔するのね。ふふ、いいもの見ちゃったわ」
「――おれは嫌なものを見られた」
「いつの間に二人はそういう関係になったのかしら? それともあなたの片想い?」
「……うるさい」
「えっ、本当にワタルの片想い!? 詳しく聞かせてちょうだい!」
 
少女のように輝かせワタルに詰め寄る。それを必死に振り払いながら、ワタルはようやくやってきたエレベーターに乗り込むのだった。


***


懇親会という名のディナーの席にはホウエンチャンピオンであるダイゴとその友人でありルネシティジムリーダー・ミクリの姿があった。加えてワタルにシロナ、そしてデンジ。個室に揃う面々にアイルがつい後ずさりをするほどの顔ぶれである。
なにしろ彼女以外は各地方のリーグ関係者。そしてこのレストランも三ッ星だったはず。相応の場所での食事になることは覚悟していたが、本当にここにいていいのかと、今更ながら己の存在を疑いはじめた。

いくらダイゴとミクリが気さくで優しい人柄でにこやかに彼女を迎えてくれたとはいえ、アイルは緊張で常に身体が震えていた。必死にテーブルマナーを頭の中で反復するほどに。しかし、デンジがコースの一皿目で「よくわらかんが、高級な味がするな」と呟いていたり、隣に座るワタルも「緊張しなくていいから。マナーとかとやかく突いてくるような面子じゃない」とこっそり囁いてくれたこともあり、なんとか緊張が解けた。それからは食事自体も楽しむことができた。
 
またミクリはみずポケモンのエキスパートということで、アイルの手持ちにマリルリがいることが嬉しかったらしく「ぜひ後で見せてほしい」と顔を綻ばせてきたことも大きい。懇親会は和やかに進んでいった。
全員が食後のコーヒーを楽しみ、ゆったりとした空気が流れる。その中、「さて」とダイゴは切り出してきた。

「本題に入ってもいいのかな?」
 
アイスブルーの瞳が鋭く光る。それはまっすぐにアイルへ向けられた。途端に刺さる緊張感を覚え、アイルは身体を強張らせる。
ダイゴに同意したのはシロナだった。

「そうね。ワタルがアイルをここに連れてきたのは――『時の歯車』絡みだと踏んでいるのだけれど?」
 
あたしへ会いに来てくれただけでも、もちろん嬉しいけれど、とシロナはウインクを飛ばす。

「『時の歯車』というものがホウエンへ来た理由ということかい?」
 
ミクリが探るように問いかける。アイルは顔を強ばらせながら頷き、姿勢を正しダイゴへと向き直る。

「ダイゴさんに依頼をしたいことがあります」
「聞こうか」
 
こちらを試すような声音に怖じ気ついている暇はない。
アイルはすぐさまバッグの奥底にしまった資料と『時の歯車』を取り出そうとして――手が止まった。自分の指先がひどく冷たくなっていることに気づいたからだ。しかも小刻みに震えている。

自分が思うよりずっと、緊張している。そのことを自覚した途端、周囲の音が遠くなっていった。レストランに流れるクラシックの曲が、アイルの耳から離れていく。
不安で仕方ない。ここでダイゴの信頼を得られなかったら? せっかくワタルに連れてきてもらったというのに、全てが無駄になる。

――そのことが、たまらなく怖い。どうしよう。
 
ひやりとした恐怖がアイルの全身を浸す。呼吸が浅くなっていくのが自身でもわかった。漠然とした感情が脳内を占めていく。なにをしていいのか、なにをするべきなのか、見失う。

「大丈夫」
 
目の前が暗くなるかという間際、何も聞こえない彼女の世界に声が降ってきた。
ワタルはコーヒーカップで周りから口元を隠しながら、もう一度言った。アイルにだけ、届くように。

「大丈夫だ。アイルくんなら、絶対に大丈夫」
「――はい」
 
それだけでアイルには充分だった。深呼吸と共に、渦巻いた不安を吐き出す。震えはもうないし、全身は温かい。
またこの人に助けられてしまった。淡く疼く心に気づかぬまま、彼女は資料を勢いよく引っ張り出して、机上へ並べる。全員にそれを渡す。
これが無駄に厚いだけの紙の束にならぬよう、改めて気合いを入れ直し、アイルは顔をあげた。

「長くお時間をいただくことをお許しください」
「もちろん。いくらでも」
 
試すようなダイゴの笑み。それを正面から受け止め、同じようにアイルも不適に笑った。

「ありがとうございます。――それでは」
 
お手元の資料をご覧ください。



かいつまんだとはいえ、そこそこの時間を要した説明を終えると、ダイゴは含みを持たせながら「なるほど」と呟いた。そして顔をあげ、話の途中で取り出し、机上へ置いてあった『時の歯車』へ視線を移す。

「触っても?」
「もちろんです」
 
ダイゴはためらうことなく二つの『歯車』に触れる。まじまじとそれを見つめ「思ったより軽いな」と声を漏らした。彼の隣にいたミクリもその手元を覗きこみ「『あいいろのたま』や『るりいろのたま』とはまた違うようだね」と言葉を添える。

「それにしてもアイルがアルセウスと出会っていたとはね……。言ってくれたらよかったのに」
 
ダイゴとミクリが『時の歯車』を観察し、資料の内容と見比べている横で、シロナは先ほどアイルが話した過去について想いを馳せた。まさかあなたがアルセウスと邂逅していたなんて、と。
初めてアイルがシロナへ協力を求めた時に、かのポケモンのことについて触れられていなかったからだ。そして彼女が見せられた悲惨な光景にも。

「そのことについては本当に申し訳ないです。どこまでお伝えしていいのか、私もよくわかっていなかったもので……」
 
肩を落とす友人にシロナは首を振った。

「責めているんじゃないのよ。あたしがあなたの立場でも口を噤んでしまうでしょうから。ただちょっと妬けちゃって」
「妬け……?」

急なその感情の意味をはかりかね、きょとんとした表情で首を傾げるアイルに「わからなくていいのよ」とシロナは微笑む。

そう、妬けてしまうのだ。

ぼろぼろになりながらジムリーダーたちと四天王を倒してシロナの元へやってきて開口一番「ディアルガのことを教えてください!」と叫んだアイル。その時からアイルはシロナにとって、弟子のような妹分のような――そんな特別な存在になっていた。
 
だから自分の知り得る知識を伝え、ワタルへの紹介文も用意して送り出した。なんとなくアイルには他人へ言えない「枷」のようなものがあるとは察していたが、それでもこの『時の歯車』の件に関して最も信頼を寄せているのは自分であったと思っていた。――このときまでは。
 
それなのにいつの間にか、盗られてしまっていたなんて。彼女の用意した資料がワタルへ配られていないことがなによりの証拠。自分より先にアイルの全てを知ったのだ。この男は。
話しを終えた瞬間、まっさきにアイルはワタルへと視線を向けていた。ワタルもまたアイルへ瞳を向け、二人は微笑みあっていたのだ。自分の知らない彼女をこの男は手にしていると気づくのも無理はない。

「ほーんと妬けちゃうわ。ねぇ、ワタル?」
「そりゃどうも」
 
唐突に話を振られたというのにワタルは狼狽えることなく、言葉を返す。会話についていかれず、おろおろとしているのはアイルだけ。
でも、やっぱり、愛しい妹分をそう簡単には渡してはたまらない。そんな意味を込めて、シロナはワタルへと意味深に「妬けちゃうわ」と同じ言葉を繰り返した。 
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