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レストランの外に出た頃にはとっぷりと日は暮れ、ホウエンの高い夜空に星が瞬いている。
ホテルへ戻る別れ際、アイルはダイゴと連絡先を交換し、改めて『時の歯車』とルカリオのボールを渡した。

「よろしくお願いします」
「こちらこそ。責任を持って預かるよ」
 
ふいにダイゴは真剣な表情を崩す。その顔があまりにもやわらかいものだったから、アイルは思わず目を丸くした。それが、まるで仲のいい友人へ向けるような――彼のプライベートを思わせるような微笑みだったからだ。同じくらい優しい声で彼は言う。

「ワタルが心を許す相手がアイルさんのような人でよかった」
 
急に口にされた名に「ええと」とうろたえる。

「それはどういう?」
「その言葉のままさ。ほら、あなたも知っての通り、ワタルってちょっと滅私奉公なところあるから」
 
少し心配していたんだよね。同僚として、友人として、と彼は続ける。

「チャンピオンという肩書きに伴う責任は大きい。それをボクたちは『重い』とは思わないけれど、だからといって背負いすぎるものではないとも考えている」

ダイゴはそっと目を伏せた。

「その点、ワタルは不器用だなと常々思っていて。周囲の人の協力もあるけれど、どちらかというとボクは自分の融通を利かせてしまうタイプだし、シロナさんもそう。でもほら、彼はそうでもないだろう?」
 
確かに、とダイゴの言葉にアイルは同意する。
ワタルは責任感も強く、自ら進んで物事を解決していくタイプだろう。それが彼のやりたいこと――いわゆるワタル自身の信念に基づくものではあるが――周囲からすると「ちょっと休んで!」と言いたくなるのも事実。
しかし、そうは思っていても何かあればチャンピオン≠自分たちは頼ってしまう。その地方で最も強いポケモントレーナーだから。
 
いつかのトキワシティのことを思い出す。大小問わぬ事件がいつだってやってくるのだろう。
それだけ頂の玉座は誇りと責任があるものなのだ。それを軽々背負ってしまうのが、まさに選ばれた一握りの人間。ワタルも、ダイゴも、シロナも。その一握りに違いない。そのことを今更ながらにアイルは痛感した。彼らは手の届かない場所にいる。歯がゆい思いがわきあがった。
そんな彼女の胸中を知らず、ダイゴは言葉を続ける。

「だからアイルさんと一緒にいるとき、ワタルがだいぶ自分の素……プライベートな部分を出していることに気がついて、ちょっとほっとした。彼もそういうところを見せられる相手を見つけられたんだって」
「そんな、私なんて……」
「謙遜しないでよ。本当のことだから」
 
謙遜では無かった。ダイゴの言うワタルの素≠ニいうのが、アイルにはわからなかったからだ。なにしろ自分はワタルに助けられてばかりであるし、頼りっぱなしの心配されっぱなし。
プライベートな部分を出すということは、相手へ全幅の信頼がないと難しいだろう。その点、自分にそれがあるとは到底アイルは思えなかった。
例えばそう、そういうのはシロナのような人が相応しい。同じチャンピオンで、バトルトレーナーで、聡明で美しく、信念を持つ人――
 
ふと、談笑する件の二人が視界に入る。なんだかその空間がとても遠いように思えて、アイルは思わずくちびるを噛みしめた。


***


翌日、今日からワタルたちはチャンピオン会となり、アイルやデンジとは別行動になる。
しかし、アイルが気づいたころにはデンジはとっととキンセツシティへ出かけてしまった。曰く「別に約束していたわけじゃないだろ」とのこと。悩んだ末、せっかくなので彼女はミナモの海へと散歩に出かけることにした。
 
近場ですませたことには他にも理由がある。本当は図書館などでホウエン地方におけるあいいろのたま≠ニべにいろのたま≠ネどの文献を読み漁るはずだった。けれど昨夜の光景が目に焼き付いて、いまいち集中ができない。もやもやとした気持ちがなんとなく渦巻いていて、気分がすぐれなかった。
 
たまにはいいよね、気分転換にもなるし、と一人言い訳を重ね、アイルは観光地と名高いミナモの海岸をゆっくり歩く。涼やかな潮風が日差しにほてった身体を冷やす。故郷のオブリビアの浜辺を思い出し、懐かしさに浸った。
せっかくなのでポケモンたちを出せば、マリルリを筆頭に波遊びを始める。それをぼんやりと眺めていると、なんだか人が集まり騒がしくなりつつあることに気がついた。次第にそれは無視できないほどに大きくなっていく。

「あの、どうしたんですか?」
 
アイルが思わず騒ぎの中心付近にいたジュンサーに声をかけると、彼女は「メノクラゲとドククラゲの群れがビーチに迷いこんでいるの」と困ったように眉を下げた。

「普段は沖にいるのだけれど、潮の流れのせいかこっちに来ちゃっていて。今は避難して、ビーチを閉鎖しているから大丈夫なのだけれど、毒の触手に刺されてしまった人もいてね。あなたも海には入らないように」
「はい、気をつけます」
 
対応に追われるかのように小走りで去って行くジュンサーの背中を見送る。何か手伝えることがあればと考えもするが、様子を伺う限り自分の出る幕は無さそうだ。自然と群れが離れるのを待つしか無いな、と結論を出す。 残念だけれど落ち着くまで海からは離れていよう。手持ちたちをボールへ戻すため踵を返した矢先に鋭い声が飛ぶ。

「おい! 子供とポケモンが取り残されているぞ!」
 
周囲の人間がざわりと騒ぎ出す。超えだした男性の指が示す方向を見れば、幼い子供とそのポケモンであろうパウワウがメノクラゲたちの群れの近くで漂っていた。

「どうして子供があんなところに!?」
「逃げ遅れたのか? 保護者はどこだ?」
「もしかしてさっき触手に刺された人の中にいたんじゃないかしら?」
 
メノクラゲやドククラゲの毒は人体にあまりにも危険だ。刺されたのならすぐさま処置が必要になる。しかも、場合によっては意識を失うこともあった。仮にあの子供の保護者がその被害者であるならば、子供のことを誰かに伝える前に処置へ回された可能性は高い。最悪の場合、気絶して誰にも伝えられていないのかもしれない。

「ジュンサーさんはいないのか?」
「近くのジムリーダーへ応援を依頼しに行ってしまったわ!」
「俺たちでメノクラゲたちを刺激しないように助けるしかない」
「でもどうやって? 無理だろ!」
「だからといって放ってはおけないでしょ!」
 
こうしている間にも子供たちには群れが迫り、包囲網を狭めている。今はまだ、おそらくあのパウワウがなんとか子供を守っているが時間の問題だ。なにしろそのパウワウもまだ幼い。いつ体力が尽きてしまうかもわからない。
――迷う暇はなかった。ここで一歩踏み出すのは当たり前のこと。自分ができるからやる。ここにいる誰よりも自分は知識と経験があった。シンプルな答え。『時の歯車』を調べるのも、あの子供たちを救うのも、自分ができるからやる。彼女にとって至極当たり前の結論だった。
瞼の裏に一瞬だけ彼が翻すマントを思い描く。それだけでアイルは誰よりも強くなれた。

「私が助けます」
 
その声は静かに響く。

「でも一人じゃ無理です。みなさんのお力も貸してください」
 
『頼る勇気を持って欲しい』。あの人の言葉を思い出し、アイルは周囲へ頭を下げた。

「む、無茶を言うな!」
「いいえ、できます! みなさんが力を貸してくれれば、必ず!」
「……何か策があるの?」
 
尋ねてきた女性に強く頷く。

「私は元ポケモンレンジャーです。私を信じてくださるのなら、作戦に協力してください。ここにいるみんな、あの子たちを救いたいはずです」
 
アイルの真摯な声と表情に、意を決したようにその女性は言った。

「手伝えることがあるのなら」
 
最初の一人が手を挙げれば自然と人は続くもので、いつの間にか浜辺にいた全員がアイルの元へ集まっていた。
アイルは何回も「ありがとうございます!」と頭を下げ、すぐさま行動を開始する。ポケモントレーナーたちの手持ちを確認し、ポケモンを所持していない人にはジュンサーさんやポケモンセンターへ連絡を依頼する。
 そして練っていた策を脳内でシミュレーションした。いける、と確信し、アイルは口を開く。

「今から作戦を伝えます。改めて、みなさんよろしくお願いします!」
 
説明した作戦は至ってシンプル。上空から子供たちを救出する作戦だ。下手に複雑化した作戦は、素人が多いこの場では逆に足を引っ張ってしまう。

「まずはオオスバメとピジョットで空から接近します。それにエスパータイプのソルロックとチリーンも同行させてください。子供たちの真上へ来たらサイコキネシス≠ナ救出して、オオスバメとピジョットの背へ」
「サイコキネシスでそのまま陸へ運んだらだめなのか?」
「もし群れがソルロックたちへ攻撃したときに対処できません。いくら有利タイプとはいえ、運搬と戦闘を同時に行なうことは難しいです。なによりダメージが入らないに越したことはありませんから」

だから役割を分担する。ひこうポケモンたちに運搬を。エスパーポケモンたちには万が一の場合の戦闘を。

二匹には護衛をお願いしたいんです。それこそ有利タイプですので」
ただ飛行部隊に戦闘はさせたくない。だからもう一つの舞台で気を引く予定だ。海から群れの注意を引きつけます、と説明を続ける。

「むしタイプのアゲハントとアメモースは微量のしびれごな≠撒いてください。微量でいいです。少し麻痺してくれれば、いいので。あとは私とマリルリが正面きって接近します」
 
そう言いながらアイルは自身の上着を脱ぐ。水分を吸った服はただ重いだけだ。なるべく軽装にならなければいけない。
靴も置いていこうと決める。本来であれば足の裏を守るため履いていったほうがいいのだろうが、マリルリに身を任せるのならば、不要だろうと判断した。

「救出が完了したら、私は陸へ戻ります。おそらく追いかけてくる個体がいると思うので、陸で待機しているポケモンは牽制をお願いします。元々沖合にいた群れとのことなので、少し威嚇してやればすぐ逃げるはずです」
「それはわかったが、君が海へ出る必要あるのか?」
「不測の事態が起きたときのことを考えれば、近くで指示するトレーナーがいないとだめですので。大丈夫、ご安心ください! こういうの慣れていますので! 元≠ニはいえ、私は結構実力のあったレンジャーだったんですから!」
 
もし仮に自分に何か起きた場合は、相棒であるエネコが然るべき対応を取るから問題ない、と彼女を心配するトレーナーへ伝えた。

「ということでよろしくね、エネコ」

相棒が突き出した拳を尻尾で応え、気をつけていってこい、とエネコは一鳴きした。「任せろ」と胸を張る小さな頭をめいっぱい撫でてから、アイルは「よし」と頬を軽く叩いて、気合いを入れる。

「ミッション、スタートします」




マリルリの身体にしがみつき、共に群れに近づけば、メノクラゲたちはすぐさま敵としての視線を向けてきた。わかっていたとはいえ、少しいたたまれないのも事実。アイルは苦笑しながら、瞳だけを動かして、上空を見る。飛行部隊はまだ子供の元へ着いていない。

「……頑張ろうね、マリルリ」
 
いつものバトルと具合が異なることに怯えているのか、マリルリは不安そうに身体を震わせる。ポケモンレンジャーを引退してから仲間になったマリルリはこういう場に慣れていないことはわかっていた。

「大丈夫だよ。いつもの通り、あなたはたくさん泳いでくれればいいだけなんだから」
 
そっとその背を撫で、アイルは後方に控えたむしポケモンたちへ指示を出す。二匹が静かにゆっくりとしびれごな≠風に乗せる。アイルたちにもその粉がかかるが、クラボの実をかじることで痺れを取るようにしていた。
ゆっくりと確実に時間を稼ぐ。たまに痺れが解け、攻撃をしかけてくるメノクラゲには、マリルリが対処する。順調に手順を積み重ね、ついに子供たちが救出された。遠目ではあるが、特に目立った怪我もなさそうだ。
注意を引きつけていたおかげかポケモンたちから飛行部隊への攻撃もない。離れていく彼らを視界の端で確認し、アイルはほっと息を吐く。よかった、と胸を撫でおろし、むしポケモンたちに先に戻るよう指示出した。

「マリルリ、身体は大丈夫? 痺れは無い?」
 
その問いに力強く頷いたのを確認し、自分たちも同じように浜辺に戻るべく踵を返す。

「――まあ、そう簡単にはいかないよね」

最悪パターンだ、とアイルはくちびるを噛みしめる。
注意を引いていたのは自分たちだけではなかった。彼らもまた同様だったのだと、今更ながら気づく。
メノクラゲとドククラゲがアイルたちを取り囲み、その毒手で彼女たちを狙っていた。
 
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