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ギラギラと頭部の紅い玉を光らせ威嚇するメノクラゲたちに取り囲まれ、アイルはくちびるを噛みしめた。
しかし彼女とて、この状況を考えていなかったわけではない。撒いたしびれごな≠ヘ微量。そのため麻痺が解けてしまったのだろう。ただ数はアイルが想定よりも多かった……それだけのこと。
アイルは気持ちを落ち着けるために大きく息を吸い、吐く。そして自身の身体を預けるポケモンへ明るい声で話しかけた。

「私、必死にしがみつくから、この群れを抜けられるほどのスピード出して」
 
不安に揺れる瞳をマリルリから向けられる。

「大丈夫! 私を信じなさい!」
 
にこりと笑いかければ、腹を括ったかのようにマリルリは勇まく表情を引き締めた。

「いくよ!」
 
その言葉を合図に動き出す。アイルが大きく息を吸ったタイミングでマリルリは海中へ潜った。
先に動いたほうが勝つ。マリルリはそれを熟知していた。群れの合間を縫うようにスピードをあげて泳ぎ続ける。アイルはそれに振り落とされないように必死に腕へ力を入れ、食らいつく。

しかし、ポケモンのスピードについていくことは人には辛い。人とポケモンが共に歩めるのは、いつだってポケモン側が寄り添ってくれるからに他ならないからだ。
アイルは襲いかかる水圧せいで、つい目を瞑ってしまった。それが悪手だったことに気づいたのはすぐのこと。

「っぁ!」
 
予想しなかった衝撃がアイルの背中を襲ったのだ。
ごぼり。嫌な音を立てて、口から息の泡が漏れる。痛みによって目の前が霞む中、振り向くと一匹のシェルダーがこちらを睨み、威嚇していた。このシェルダーが海底で眠っていたことは簡単に予想がつく。騒ぎで目を覚まし、そして近くにいた自分に怒りをぶつけた――あたりが無難だろうか、と海水に飲まれていく意識の中でアイルは考える。
 
異変に気づき、マリルリは泳ぐスピードを緩める。それを叱咤するようにアイルは彼女の身体を叩いた。私は大丈夫だから行って、と。
トレーナーの覚悟を受け、マリルリは自身に生まれたためらいを振り払いながら、岸へ向かって泳ぎ続ける。だが、そのスピードは先ほどよりも遅い。酸素が無くなったアイルを無意識に気遣っていたせいだ。

だからこうなってしまったのは仕方ないこと。
一匹のドククラゲがアイルたちに追いつく。目の前に踊り出たその姿にマリルリの判断が鈍る。戦うか? 逃げるか? どちらが正しい? いつも的確に指示を出すトレーナーは意識が朦朧としている。自分が行動を決めなければいけない。

アイルもまた指示を出さなければ、と薄れゆく意識の中で思っていた。マリルリの実力なら、このドククラゲを倒すことも可能だ。相性はよくないが、きっといける。
マリルリに攻撃指示を出そうと、アイルも必死に手を動かそうとするが上手くいかない。その間にも彼女へドククラゲの触手が迫る。まっすぐに向けられる毒手は狙われているのはマリルリではなく自身であることに気づいた。慌てて無理矢理身体を捻りそれを避ける。同時に無理な動きをしたゆえに、残りの酸素が泡になって消えていった。
 
瞬間、大きな水圧のうねりがドククラゲ諸共アイルたちを押しつぶす。そこにいた全員が呆けたが、マリルリは瞬時に体勢を整えて、再び岸に向かって泳ぎだした。

「(今の、は……)」
 
遠ざかっていく影を見つめながら思う。
渦の向こうに見えた巨体はギャラドスだった。その隣にはミロカロスもいた。もしかして、という予感が走る。野生だったらこちらを追ってくるはずだ。しかし、あの二匹はまっすぐに群れのほうへと向かっていった。おそらく自分たちを襲おうとしているポケモンたちを牽制してくれているのだろう。
 
ざぱん、と大きな音を立てて、勢いよく身体が砂にたたきつけられる。ようやく肺へ酸素が流れ込み、アイルは思わず咳き込んだ。
声をあげながら顔を覗き込んでくるマリルリの表情は心配そうに歪んでいる。僅かな力を振り絞り、無理にでもアイルは微笑んだ。問題ない、ありがとう、と伝えるために。
次第に海岸にいた人たちも彼女の元へ集まってくる。残していったエネコとデンチュラもその中にいて、不安げに瞳を揺らしていた。

「ほん、と、だいじょ、うぶ、だから」
 
呼吸もままならない中で手持ちたちへ声をかける中、ふいに人影が落ちてきた。

「そんなにも息を切らしていて?」
 
逆光で顔は見えない。でもその声はよく知っていた。怒っているなぁ、と他人事のように感じる。ああ、やっぱり。あのギャラドスは。

「あの、ワタル、さ……」
「言い訳はあとで聞く。――ひとまず、よく頑張ったな」
 
濡れて冷えた頬に熱い指が触れる。優しく撫でられたそれに思わずアイルは目を細めて、すり寄った。その体温が心地いい。
ワタルは一瞬だけ息を詰まらせた後、大きくそれを吐き出して、アイルの膝裏と背中に手を入れた。自分が濡れることも厭わず、彼女を横抱きにする。

「わ、ワタルさん……!?」
 
自身の置かれた状況にアイルはじたばたと足を動かすが、力の抜けたそれは大して抵抗にはならない。たとえ、彼女が万全の状態だったとしても、その程度ではワタルにとって障害でもなんでもなかったが。

「じっとしていてくれ。ポケモンセンターに運ぶから」
 
鋭さを滲ませた声で告げると、アイルは彼の腕の中で途端に大人しくなった。さすがに引け目を感じているのだろう。
ワタルは彼女が抵抗をやめたのを確認して、自身のマントでアイルの身体を隠すように覆う。こうやって運んでいるのは彼女を労る意味もあるが、水に濡れた服が強調する女性らしいラインを衆目に晒すことが彼にとってなにより嫌だったのだ。おそらくアイル自身はその事実に気づいていないが。
存外自分は嫉妬深いな、とワタルは己にわく感情を隠しながら、ポケモンセンターへ足を向けた。
 
そこでは、すでに連絡を受けていたこともあり、万全の状態でジョーイが待ち構えていた。ストレッチャーにアイルを乗せ、簡易検査が始まる。
検査の終盤にはアイルもだいぶ落ち着いて、体力も取り戻していた。怪我も背中の打撲だけ。加えて、幸運なことに骨にはヒビも入っておらず「もしずっと痛むようでしたら病院へ行ってくださいね」と釘を刺されて、検査から解放された。
その後は併設された宿泊施設でシャワーとランドリーを借りることができた。服と身体の潮水をきれいさっぱり流し終わった彼女はようやく人心地つく。

しかし、ほっとしたのも束の間のこと。
ポケモンセンターのロビーで自分を待っていると思われるワタルの姿を見て「ひえっ」とアイルは悲鳴をあげる羽目になった。同時に彼が向けていた怒りの感情が脳裏に蘇る。また怒らせてしまった、という申し訳なさと、でも私が動かないといけない場面だったし! という開き直りの気持ちがまぜこぜになり、前へ進むことができない。
 
なにより理由がもう一つ。ワタルの隣にシロナがいるからだった。二人は何かを話しているようで、シロナは笑みを浮かべ、それを受けてワタルは視線を彷徨わせる。元から二人は仲がいいと思っていたが、なぜか今それをアイルは再認識した。いや、「させられた」が正しい。
彼らの緩やかな表情を見て、ふいに思い出す。昨夜ダイゴに言われた言葉を。

――ワタルが心を許す相手がアイルさんのような人でよかった。
 
やっぱりそれは買い被りすぎている。自分なんかよりシロナのほうが、その役目によっぽど相応しい。同じチャンピオンで、バトルトレーナーで、苦楽をともにしていて……『お似合いの二人』というのはこういうことを言うのだろう、とアイルはぼんやりと考えた。
そんな呆けた彼女を見つけたのは、件のシロナだった。「アイル!」と名を呼んで手招きする。声をかけられれば、アイルの足は反射的にそちらへ向かう。

「身体は大丈夫?」
 
労りの言葉をかけながら、シロナは三つのモンスターボールをアイルに手渡した。どれもアイルのもの。それをお礼を言いながら、受け取った。

「すっかり大丈夫です。シロナさんもありがとうございます。あのミロカロス、シロナさんのポケモンですよね?」
 
シロナが「あの状況で気づくなんて、さすがアイルね」と褒めるので、首を横に振る。すぐにわかることだ。野生のミロカロスはあまりいない。そして共にいたのはワタルのギャラドス。消去法で考えれば、シロナの手持ちとしか思えなかった。
――そう、ワタルがいるのだ。今も、ここに。

「ええと、その……」
 
先ほどからチクチクと刺さる視線にいたたまれなくなったアイルは「すみません!」と不機嫌そうに眉をひそめるワタルに頭を下げた。

「お説教はお早めにお願いします!」
「……潔いのはいいことだな」

深いため息が聞こえたこともあり、アイルは恐る恐る顔をあげる。目に映るワタルは彼女の想定よりも怒っていなかった。その代わり、どこか寂しげな光を瞳に宿している。

「心配した」

静かな声が響く。つきり、と心が痛んだ

「……はい」
「会議を終えて戻ってきたら騒がしいし、海岸へ行けば君のエネコがいた。まさかと思い、話を聞けば海へ行ったと――大人しくしていろとは言わないから、もう少し自分を大切にしてくれ」
 
その声は真摯にアイルを心配しているものだった。同時にワタル自身を責めているようにも聞こえて、アイルは再び謝罪の言葉を口にする。「でも」と、顔をあげた。

「間違ったことをしたとは思いません。あの時、動けたのは私だけです。自分を軽んじているわけではなくて、あの場で相応しいのは私だったから」
「そうだな」
「だからその……」
 
こういう性格なので諦めてください、とはさすがに言えなかった。こんなにも自分を心配してくれているのに、放り投げるような言葉は言いたくなかったのだ。
そんな彼女の複雑な心境をもちろん目の前の男は気づいている。まったく本当に頑固な性格だ。そこが魅力的でもあるのだが、と自身の感情と天秤にかけ、彼は仕方なくここは折れることを選んだ。
事実として、アイルが動いたことで子供とポケモンは無事救出され、保護者の元へ怪我の一切も無く帰ることができたのだから。

「――まあ、アイルくんの無茶はいまさらだしな。おれが慣れるしかないか」
「あっ、でも今回はワタルさんが言うとおり、たくさんの人に頼ってお力を借りました! 一人でなんとかしようとは……あいたた!」
「屁理屈を言うのはこの口か? だいたい、君なら海へ出る以外の方法も思いついただろ?」
 
ワタルは遠慮無くアイルの頬をつねる。加減はしているようだが両指でためらいもなく、ぐいぐいと頬を引っ張る。

「ら、らって……!」
 
必死にその指から逃げようとするがそうはいかないようで、アイルはしばらくワタルの好きにさせる道しか残されていなかった。
やわからさを堪能したワタルはようやく手を離す。じんじんと痛む彼女の頬を今度は優しく包んだ。

「今度無茶する時はおれの目の届く範囲にしてくれ」
「…………」
「返事」
「……はぁい」
 
少しふて腐れたような声。不満の色を滲ませたそれとは逆に、ワタルは先ほどまでの暗い気持ちが晴れていくようだった。なにしろこういう態度をアイルが見せるのは、自分に心を許しているに他ならないからだ。まるであのデンジとのやりとりのような――ある意味で、甘えが見え隠れするそれに胸が擽られる。なんて現金な性格なのだろうかとワタルは自嘲した。

「――ところであなたたち、あたしがいることを忘れているのかしら?」
 
こほんと咳払いが一つ。にっこりと微笑むシロナへ顔を向けて、アイルはたちまち顔を赤くさせる。ワタルにばっかり頭がいって、申し訳ないがすっかりシロナの存在を忘れていた。
ということは今の一部始終をすっかり見られて……?

「!」
 
まるで凍りづけられたように身を固くしたアイルにシロナは「まあ、もちろん目の前で繰り広げられていたらね」と肩をすくめた。
すぐさまアイルはワタルから離れる。羞恥で顔を赤くしたアイルは「そろそろホテルに戻りましょう!」と叫び、大股で出口へ向かっていく。
一方で、ワタルは隣にいる友人に非難めいた視線を送る。それを受け取ったシロナは当たり前のように言う。

「ご存知の通り、あたしはアイルの味方よ。それに、簡単にあの子をあなたへ渡すつもりもないの」
「……ポケモンバトルよりも厳しいな」
「バトルだってそう簡単に負けるつもりはないけれど?」
 
不適に微笑むシロナはワタルを置いて、大切な妹分の背中を追いかけた。
 
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