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夜、アイルは当てもなく海を目指し歩く。身体はすごく疲れているはずなのになかなか寝つくことができず、気分転換に、と夜の散歩へと繰り出したのだ。

慌ててポケモンセンターから飛び出し、ホテルに戻ったアイルは助けた子供と再会することができた。自身よりもずっと元気な姿を見て胸を撫で下ろしたのも束の間、両親からも深々と頭を下げられる。「たいしたことはしていない」とアイルは頬を緩ませた。子供とポケモンが無事なら、それでよかった。ワタルも先ほどとは打って変わって優しい顔をしていたことも彼女へ安堵を抱かせる。

ようやく宛がわれた部屋へ戻り一人になると、いっきに身体に疲労が襲ってきた。しかしなぜか目は冴えてばかり。夜になれば自然と眠気が来るかと楽観視していたが、あいにくと訪れる様子も見えない。
仕方なしに眠ることを諦めたアイルは海の様子が気になったこともあり、外に出かけたというわけだった。手持ちのポケモンたちは彼女と正反対にすっかり夢の中だったので、一人で。

もうすぐ日付を越える時間なせいか、浜辺に人の気配は無い。佇み、海を眺めているのはアイルだけ。潮騒が美しい音色に耳を傾けていた。
昼間、あれほどいたメノクラゲたちはもういない。代わりに遠い黄色の輝きがまばらに見える。目を凝らすと、それはチョンチーとランターンたちだった。彼らの光が星のように輝いている。

「きれい……」
 
海へ溶ける光に感嘆の呟きを思わずもらした。しばらくそれを眺め、はたと思いつく。

「そうだ。ワタルさん、起きているかな……」
 
まだギリギリ日付は越えていない。迷惑かもしれないけれど、この光景をワタルにも見せたくなった。アイルは懐から取り出した端末に彼の連絡先を立ち上げて――
ふと彼がシロナと二人でいた時の姿を思い出す。
 
嬉々としていた気持ちはみるみる内に萎み、動いていた指はぴたりと止まった。なぜか胸の内のざわめきを感じ、アイルは自身の感情に困惑する。日中で見た彼らの姿が、なかなかめの奥から離れない。どうして、こんなに不安な気持ちになるのだろう。

「おい」
 
そんな思考の海を漂っていた彼女へ突然背後から投げられた声。思わず肩が跳ねる。振り向けば、そこには呆れた顔のデンジがいた。

「お前、一人でこんな時間になにして……しかもポケモンも連れていないのか」
「え、えっと寝付けなくて……」
「昼間、事件に首を突っ込んだのに?」
「うっ! なぜそれを」
「騒ぎになっていれば、気づくだろ」
 
デンジは「まあ、放っておけなかったっていうのは、お前らしいけどな」と一応のフォローをいれる。じりじりと刺す視線からのがれるよう話を変えるため、尋ねた。

「デンジはどうしてここに?」
「この時期はここからチョンチーとランターンの移動が見られるってキンセツで聞いた」
「ああ、でんきポケモンだもんね」
 
その言葉にアイルは納得する。さすがでんきポケモンジムリーダー。そういう時に彼は行動的になるのだったと思い出す。確かにこの光景は、その専門のトレーナーなら見たくなるのも頷けるほど美しい。
しばらく二人は無言で光の帯を眺めていた。そしてランターンたちの移動が終わり、輝く彼らが視認できぬほど遠くなっていくころに「……気にしているのか?」とデンジは静寂を切る。

「え?」
「表情が暗い。解析依頼の交換条件、デボンの」
「あれは違うでしょ。わかっているよ、それぐらい」

吹き抜けた夜風で乱れた髪を直しながら、アイルはさも当たり前のように言った。

「守ってくれていることぐらい、わかるよ」
 
ダイゴが提示した条件の一つである『解析結果をデボンコーポレーションで独占したい』のことをデンジは指しているのだろう。確かに表面だけを捉えれば独占≠ニいう言葉の強さが迫る。しかしそれは裏を返すと『デボン以外に流出がされない』に補かならない。デボンコーポレーションのセキュリティは折り紙付きだ。そうそう簡単に第三者が手にすることはなくなる。仮にその第三者に情報が渡る場合に提供料を徴収するとダイゴは約束してくれた。つまり「誰に渡したか」が明確になる。加えて、提供料に法外な値段を提示しさえすれば、安易に手に入れようと考える人間はいなくなるだろう。
 
つまり、『時の歯車』の解析結果は実質アイルしか得られないことになる。それをダイゴは自身のメリットとして置き換えて、彼女に提案したのだ。アイルがダイゴを頼ることへ、少しでも負担を感じないように。

「ほんと、すごいよね。適わないよ」
 
困ったように苦笑するアイルにデンジは眉根を寄せる。またこの友人は変なことで悩んでいるようだ、と気づいたからだ。

「じゃあ、理由はそれか?」
「んん、どうだろ……」
 
先ほどまで頭に浮かんでいたのはワタルとシロナのツーショット。二人きりでいる光景にどうしようもなく胸がざわめいた。しかし、確かに言われてみれば、そういう意味としても納得できる。

「――まあ、似たような感じかも。なんか改めて、立場が違うって見せつけられたから、戸惑っていたのかな」
「立場?」
「うん。改めてみんなすごい人たちなんだなって思って」
 
ワタルもシロナもダイゴも。そして隣にいるデンジも。バトルトレーナーたちの導であり壁である存在。誰もが憧れ、目指す頂の人たち。そう考えれば考えるほど、自分との間に越えられない溝があるような気がしてくるのだ。
今は『時の歯車』のこともあるが、この研究が終わったらそう簡単には会えなくなるのではないかという不安もある。特にワタルはカントーとジョウトの二つの地方のチャンピオンだ。
今のように気軽に会えることのほうが、珍しくて、奇蹟なのだろう。

それはすごく寂しくて、いやだ。もうワタルとは会えなくなることを考えたくない。
彼女の心に初めて「研究が終わらなければいいのに」と今まで考えたこともない感情が生まれる。寂しいとも違う、途方にも無く不安で悲しくて、たまらない気持ち。

「……おいていかれたく、ないな」
 
小さな声を波の音が誘う。眼前に広がる雄大なそこには、ランターンの光はもう見えない。
――追いかければいいのだろうか。レンジャーから研究員になったように、今度はバトルトレーナーへ。しかし、なんとなく自分にはそれが向いていないことをアイルは理解していた。野良バトルをしていても、ちょっとした拍子に頭のスイッチが「バトル」から「ミッション」へ切り替わることが何度もあったからだ。相手を倒す指示ではなく、可能な限りダメージを与えず無力化する方へ。それはもう身に染みついてしまったクセなのだろう。

そうしてわかりやすく落ち込んだ彼女に友人であるジムリーダーは「あのなぁ」と頭を小突く。いつもより優しい力で。

「少なくともお前と一緒にいるおれはジムリーダー≠ナはなくただの<fンジとして、お前といる。あの二人だってチャンピオン≠ナもあるけれど、アイルの友人でもあるだろ? 友人に会うのに立場なんているかよ」
「で、でも、会いに行きにくくなるし……」
「そんなの立場どうこうの問題じゃないだろ。お互いに会いたい気持ちがあれば、時間なんていくらでも作れる。そういう人たちだろ」
 
現にデンジはアイルのためになら、無理にでも時間は作る。なぜかそれだけは断言できた。アイルも同じだということも、理解しているからかもしれない。だからこそ、自分たちは「友人」なのであると胸を張って言える。

「特にワタルさんは自分からお前に会いに行くタイプだろ」
「ああ。私、ワタルさんに変な意味で要注意人物だと思われていそうだもんね……」
 
そういう意味じゃ無い、という言葉をデンジはぐっと飲み込んだ。友人の色恋沙汰に首をつっこむとろくなことにならない。あと単純に誤解しているアイルが面白かったというのもある。
そんな胸中を誤魔化すように咳払いをして、デンジは言った。

「いつだって来いよ。ナギサに。オーバも呼ぶ」
「うん。オーバくんにも全然会っていないからなぁ。落ちついたら会いに行こうかな」
「そうしろ。あいつ結構心配しているから」
 
そっか、とアイルは微笑みを返す。確かに世話焼きのオーバのことだ。自分が考える以上にアイルのことを気にかけていてくれるのかもしれない。現に「当たり前だろ!」と怒る彼の姿が目に浮かぶ。

「それに置いて行かれたって思ったのは、アイルだけじゃない」
 
ぽつりと呟かれたその言葉にぽかんと口が開く。デンジは自分がらしくないことを言っているとわかっているのか、目を海に向けたまま続けた。

「ちゃんと研究者≠オていて、すごいなって思ったんだよ。――すごいよ、お前。前進している」
 
その横顔は確認するまでもなく照れていて、アイルはみるみるうちに頬を緩ませた。

「デンジが私を褒めてる!」
「うるさい」
「しかも照れてる!」
「照れてない」
「ちょ、ちょっと、録音するからもう一回言って!」
「言わない」 

嬉々とした表情を浮かべ端末を近づけるアイルを振り払い、デンジは背を向ける。「そろそろ帰るぞ」と言うやいなや、どんどんホテルへと歩き出す。だが、アイルが慌てて追いつく途端に歩幅を彼女に合わせスピードを落とすのだから彼は素直ではない。
 
もちろんそれにアイルが気づかないはずもなく、なんだかんだ優しいなとほくそ笑む。

「にやにやするな。気色がわる――」
 
ふいにデンジが振り返る。先ほどまでいた海岸から少し外れた木の陰をじっと見つめた。

「ん? どうかしたの、デンジ?」
「いや、なんか視線を感じたような気がして」
「ちょっと怖いこと言わないでよ」
「いてもゴーストタイプのポケモンだろ」
「まあ、そうだろうけど……」
 
なんとなく腑に落ちないアイルではあったが、隣の彼はホテルへ戻りたそうだ。確かにとっくの前に日付は変わっているし、気づけば待ちかねた睡魔も押し寄せてきている。後ろ髪を引かれながらも、渋々とアイルはデンジと共に帰路についた。



遠ざかっていく二つの背中を見送り、その男は息を吐いた。
デンジがこちらを向いたときは危うかったが、どうやら自分であるとはわからなかったようだ。――いや、いっそのこと気づかれた方がよかったのかもしれない。
 
普段は開けているせいか、目にかかる前髪をうっとうしく感じ、掻き上げる。もう寝る間際の予定だったから、入浴を済ませセットを解いたこともあり指を抜ける髪はいつもよりもやわらかだ。
しかし今はそれさえもワタルの心をざわつかせる。

「……まったく子供じゃあるまいし」
 
数時間前、ワタルはアイルが外へ出て行くところを窓越しに見つけた。しかもポケモンを連れている様子もない。こんな時間に一人で、と頭を抱えたが行き先が海岸ということもあり、日中の事件のことを思い出した。彼女は海が気になったのかと考え、その後を追った。

しかし着いてみれば、その海岸でデンジと話し込んでいるではないか。ワタルは出るタイミングを誤り――かといって部屋へ戻る気にもなれず――彼女たちの姿を見守ることにした。幸か不幸か、会話の内容は聞こえない。そのせいか目から入る情報がいっそうのこと気にかかる。つまり、デンジにじゃれるアイルにワタルの心は荒れ狂ったのだ。

端的に言えばそれは嫉妬といって差し障りない。もちろんデンジに対して。あんな気安く、アイルは自分に話しかけないのに、と。
なまじ一人で生きていかれる力を自身が持っていることを、ワタルは理解している。理解しているからこそ、彼は「誰かに向ける感情」を抱くことがなかった。立場上、簡単に恋人を作ることが難しいこともあるのだろう。ワタルもそれでいいと考えていた。それどころか「自分は誰かに情を抱くことがあるのか」とさえも思っていた。
 
だからこそ、今、アイルへ向ける感情が始末に負えないことをよく理解している。誰かに取られるのを子供みたいに嫌がっている。
いつの間にか大切な存在になっていた。彼女の心に惹かれ、信念に惹かれ――その優しい色の瞳に自分以外を映してほしくない。心も表情も身体も全て、自分だけが知っていればいい。温かであり、薄暗い感情。気づけば簡単な感情だった。初めて知ったものだから、最初は戸惑ってしまった。

今ではワタルはアイルも自分に惹かれ、焦がれるようになればいいのに、と身勝手なわがままを望むほどに成長しているが。
――つまるところ、ワタルはアイルへ恋をしているのだ。彼女の隣に相応しいのは自分以外に無く、そしてアイルが選ぶのも自分であってほしいと、乞うほどには。
 
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