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港はほどよく賑わい、誰もが別れを惜しみ、そして新たな旅立ちに胸を弾ませている。
数日のチャンピオン会を終え、アイルとワタルは本日カントーへ帰ることとなった。往路と同様に船旅で。

「またしばらく会えなくなると思うと、寂しいわ」
「はい。私もです」
 
別れを惜しむようにアイルを抱きしめるシロナに彼女も、同じようにハグを返す。シロナとデンジは次の便で帰るとのことなので、アイルたちを見送りに来てくれたのだ。シロナはぽつりと妹分の耳へくちびるを寄せ、言い聞かせるように囁く。

「無理しちゃだめよ。なにかあったら必ず連絡してね。ワタルに変なことされてもよ」
「ワタルさんはそんなことしませんよ」
「いいえ。男はみんなグラエナなの」
 
隙を見せればすぐに食べられちゃうんだから。あなたなんて特に、と脅すよう、からかうように声を潜めるシロナ。その姿にアイルは苦笑する。ワタルがしないことを誰よりもシロナが一番わかっていることを知っているからだ。二人の仲の良さを見せつけられているようで、なぜか少し胸が痛い。

「そういう心配は受け取っておくものだよ」
「ミクリさん」
 
手を挙げこちらへやってくるミクリに頭を下げる。予定ではダイゴが見送りに来るはずだったのだが、デボンのほうで抜けられない会議が入ってしまったらしくで、代わりに来たとのこと。

「それと、これ」
「わ、ありがとうございます!」
 
彼から封筒に入った厚い紙の束をアイルは受け取った。それらはルネシティに伝わるべにいろのたま≠ニあいいろのたま≠フ資料。少しでも彼女の研究に役立てば、とミクリが用意したものだった。

「紙ですまないね。データ化したものは持ち出し禁止で」
「いえ、充分です。お手数をおかけして申し訳ないです」
 
頭を下げるアイルをじっと見て、シロナは感慨深そうに言う。

「……こうしているとアイルも立派な研究者ね」
「まだまだですよ」
「そんなことないわ。あたしの論文を手伝ってもらいたいぐらい」
 
憂鬱そうにため息を吐くシロナ。その表情を見て、次の学会はもうすぐか、と頭の片隅で思い出す。

「憂いを帯びた表情も美しいですが、シロナさんならそこまで心配する必要はないのでは?」
 
尋ねるミクリにシロナは「あと少しが詰められないのよねぇ」と答える。一方で、アイルはぽかんとした表情を浮かべながら他人事のように呟いた。
「大変なんですねぇ」
「アイルも落ち着いたら博士号取ったら? 推薦ならあたしがするわよ」
「ああ、それはいいかもしれないね。ポケモンはまだ謎深い生き物だから、研究する人間は多い方がいい」
 
それにポケモンエネルギー≠ノついてはわからないことのほうが多いから、とミクリは続けた。

「どちらにしろ、選択肢の一つとして考えてみて。アイルならきっといい研究者になれるわ」
 
楽しそうに微笑む友人に、アイルは曖昧な笑みを浮かべるだけだった。簡単に頷けない難しさも、向けられる期待もわかっている。
そんな会話をしている内に、ようやく乗る船の準備が整ったようでアイルとワタルは船へと向かう。その道中で、アイルはワタルに尋ねた。

「デンジと何を話していたんですか?」
「……内緒」
「なんですか、それ」
 
アイルがシロナたちと話している間、ワタルはデンジとなにやら話し込んでいたようだ。意外な組み合わせということもあり、その会話の内容が気になっていた。しかしワタルは曖昧に濁すだけである。つまり話す気はないということ。不満げな表情を浮かべ、ワタルの後ろをついていく彼女の背中に声が投げられる。

「アイル!」
 
デンジの声だ。振り返ると、珍しく声を張り上げている姿が目に入る。彼はアイルの瞳をまっすぐに見つめて、再び叫んだ。

「待っているからな、ナギサで」
「……! うん!」
 
それは彼なりのエール。少なくともそうアイルは受け取った。全てが終わっても自分たちの友人≠ニいう関係は変わらないという遠回しな背中を押す言葉。
アイルは船に乗り込む寸前まで手を振り、勢いよくタラップを駆け上がった。


***


ちらりとアイルは、ソファに腰掛けたワタルを見る。なんだか先ほどから、雰囲気が剣呑としていて近寄りがたいのだ。何かを深く考えているようで、いつも以上に眉間に皺が寄っている。
自分が相談に乗れればいいのだが、そう簡単な話ではないだろう。なにしろワタルは『チャンピオン』なのだ。今回の会議で頭を悩ませるような議題があがったのかもしれない。
ワタルにはいつも力になってもらっているのに、自分はなにもできない、と思うとアイルはなんだかひどく悲しい気持ちになっていった。きっとシロナならば、ワタルの心労を軽くできるだろうことにも気づき、また心が落ち込んでいくのもわかった。
 
だめだ、と首を振る。自分が暗くなってどうする! とアイルはぐっと不安になった気持ちを飲み込んで、立ちあがる。部屋に備えつけたケトルでお湯を沸かし、アメニティのインスタント緑茶を淹れる。
ふわりと温かく香るそれをテーブルに置く。

「あの、ワタルさん。お茶淹れたので、もしよかったら飲んでください」
 
自分のできることをちゃんとする。それが彼女が心に決めていることだ。今はきっとこれが最善のこと。そう信じてアイルはやるしかないのだ。
そしてそれをワタルはちゃん受け取ってくれる人であると、彼女は知っている。
アイルからかけられた言葉を聞いてワタルは少し呆けたあと「……すまない」とバツの悪そうな声を出した。

「子供じゃあるまいし、きみの前で恥ずかしい姿を見せてしまったな」
「そういうときは誰でもありますよ。人なんですから。あっ、もしかして、まさかデンジが変なこと言ったりしました!?」
 
彼が直前に会話をしていたのはあの友人だ。自分にはともかくワタル相手に失礼な態度は取らないだろうが……いやでもデンジなら、とぐるぐる考えるアイルに「違うよ」とすぐに彼は否定する。

「おれ個人的な問題。デンジくんは関係ない」
「そうですか? なにかあったら私に言ってくださいね」
 
あいつの弱点、知り尽くしているので! と胸を張る彼女にワタルはふっと頬を緩めた。いつも自分に見せるやわらかな表情を見て、ほっとアイルは胸を撫でおろす。いつものワタルに戻ったからだ。

「……頼ってくださいね。私は頼りないかもしれませんけど」
「そんなこと。――でもせっかくだから、さっそくお言葉に甘えようかな」
「はい! もちろんです!」
 
勇んで彼の隣に座る。無いはずのイワンコの尾が盛大に振られているのが見えるようで、ワタルは喉の奥で笑った。
目を細め、言う。

「きみ、デンジくんと付き合ってる?」
「…………は?」
「だから、デンジくんと恋人?」
「な、な、そんなわけないです! なに言っているんですか!?」
 
大声をあげ、必死に否定するアイルに「そうだよな。きみ、そういうのは隠せないタイプだもんな」と彼は肩を竦める。

「わかってはいたけれど、確証に変わったよ」
「何を急にそんなことを……」
「実は相談したいことがあって」
「相談、ですか?」
 
唐突な単語に目を丸くする。ワタルがこんなにストレートに言ってくれるとは思わなかったのだ。驚くアイルを放りながらワタルは続ける。

「おれ、好きな子がいるんだ」
 
一瞬、アイルの世界が止まった。じっくりと意味を咀嚼する。
――すきな、こ。つまりワタルさんがしたい相談って恋愛相談?
走る衝撃。線が繋がった。だから彼は自分とデンジの関係を尋ねてきたのだ。相談をする相手の恋愛経験値の確認は必須だから。

あいにくとアイルにその手の経験はあまり無い。レンジャー時代は任務ばかり、そして今は『歯車』の研究。年齢の割に恋愛のあれやそれやはしてこなかったのだ。
しかし、彼がこうして頼ってくれたのなら、わずかな知識を生かして話を聞くしかないというもの。

「お、お相手を聞いても?」
「それは秘密」
 
はっきりと言われてしまう。そうなると詮索はできない。しかしアイルに相談するのならば、多少は自身が知っている範囲の相手だろう。
なら最初に思い浮かぶのはやはりシロナだった。
同時にすとんと腑に落ちる。彼と仲が良くて、信頼もある。そしてなによりあの人は魅力的。二人の姿を思い浮かべれば、なんともお似合いだろうか。

「その子は魅力的で愛らしくて――おれもこんなに好きになるなんて思わなかった」
「……」
「すごく、彼女が愛しいんだ」
 
相手を想う、甘い声。どこかの誰かへ向けられる瞳の奥に宿る感情に、アイルはなんだか見てはいけないものを見てしまったかのようで身体を硬直させた。しかしワタルはアイルから目を逸らすこと無く、言葉を続ける。

「だから嫉妬した。おれより距離の近い相手がいると思わなくてね」
「しっと……」
「そう、子供みたいな癇癪さ」
 
デンジのことだ、と直感的にアイルは思う。シロナがこういう席に彼を連れてくることが、予想外だったのかもしれない。それに同じシンオウ地方のトレーナー同士。二人が並ぶ姿を見て、抱く感情はさまざまだろう。ワタルの場合、それに恋のフィルターがかかっているのだから、余計に。

「……嫉妬しちゃうぐらい、その人が好きなんですね」
「ああ。好きだ。まっすぐ前向きで、一生懸命で。おれよりもずっと小さな身体で必死に頑張る姿も。ああ、もちろん彼女の心も好きだ。――ちょっと無理をするような危なっかしさはいただけないが、微笑ましさも感じるよ」
「こ、告白とか、しないんですか?」
 
核心を突く問いにワタルは、初めて声を詰まらせた。そして、意を決したように言う。

「今はそのときでは無いと、思っていたんだ。その子にはやるべきことがあって、きっとおれの気持ちで困らせてしまうだろうから」
「そんなこと!」
「それ以上に、おれがその彼女のやるべきこと≠応援したい」
 
シロナのやるべきこと――学会の論文だろうか。確かに行き詰まっているとぼやいていた。どんどんピースがはまっていく。アイルの中で「ワタルの想い人=シロナ」の等式は確固たる者へと変わっていった。
そんな彼女の胸中をワタルは知らない。

「でも他の誰かに取られるぐらいなら、言ってしまおうかという気持ちが生まれてね。彼女がおれ以外を選ぶのが耐えられる気がしない。自分はこんなに耐え性がないとはな」
「…………」
「なあ、アイルくん。きみならどうする?」
 
探るようなその声に、心が揺れる。
アイルの知っているワタルはいつも自信に満ちていて、自分の選択に誇りを持っている人だ。しかし今の彼はどうだろう。迷って悩んで、まるで普通の人だ。――いや、違う。これも彼なのだろう。ワタルという人そのものだ。普段隠れて見えにくいだけで、彼だってただの男の人なのだ。自分と同じ、ただの人。恋に迷い、悩むことぐらいあるだろう。
 
チャンピオン・ワタルも目の前にいるワタルも等しく彼で――そこに違いなどない。もし仮にここで何かトラブルがあれば、すぐさま彼は「チャンピオン」へと切り替わる。言い切れる。
全部、全部、「ワタル」という人間なのだ。
同時にアイルに相談し弱音をこぼしてしまうほどに、彼が抱く恋は大切なのだとわかる。大切にしたくて、誰にも譲りたくない。彼らしい熱を帯びた恋をワタルはシロナへしているのだ。
 
――いいな、シロナさん。こんなにワタルさんに恋をしてもらえるなんて。
思わず口から出かけそうになり、留める。意識して深呼吸を繰り返し、言葉を選びながら言う。

「それは私が決めちゃいけないことです」
「…………」
「やっぱりワタルさんが決めないといけないことですよ。確かに、その人が他の人と結ばれる可能性は否めません」
 
同性から見ても、シロナとても魅力的だ。

「でも、私はいろんな意味であなたに後悔してほしくない。気持ちを伝えて結ばれたとしても、最初の一歩で悔やむこともあるかもしれない」
 
アイルはワタルの瞳をそらすことなく、見つめる。

「私は、ワタルさんにまるごと、全部、幸せになって欲しいです。そういう恋をして欲しいです」
「……そうか」
「はい」
 
どうやらアイルの気持ちはワタルに伝わったようだ。彼は長い息を吐き、ソファへ脱力した。はずみで額に落ちた髪を掻き上げて、何か吹っ切れたような表情を浮かべる。

「そうだね。今はまだ言わないでおくよ。全部終わったときに、する」
「はい。そうしてください。きっとワタルさんの想いは伝わりますよ!」
「どうかな、彼女すごく鈍いみたいだから」
 
そう言ってワタルは笑う。確かにシロナはたまに抜けているところがあるな、とアイルは納得した。お片付け、いまだに苦手みたいだし。

「……情けないところ見せた。忘れてくれ」
「ええ、どうしようかな。こんなワタルさんレアだから、早々忘れられませんよ」
「酷いな。いじわるしないでくれよ」
「人聞きの悪い!」
 
普段通りの軽口の応酬。ワタルからも重い空気が無くなっている。よかった、力になれた、と安心すると共に彼の代わりに暗い気持ちがアイルの心になだれ込む。

「(そっか、ワタルさんはシロナさんが好きなんだ)」
 
なぜか、その事実が少し――いや、すごく寂しい。
いつか二人が結ばれたとき、自分は笑顔でそれを祝福できるだろうか。そんな不安を胸に、アイルのホウエン旅が終わりを告げた。
 
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