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「すみません、お時間いただいて」
 
すっかり常連となったチャンピオンの執務室でアイルは身を縮こませた。ヒビキの言葉通り、アイルはワタルに彼らのことを尋ねに来たのだ。
セレビィのことをヒビキから出され、気が急いたとはいえ、急な来訪に今更ながら申し訳無さがアイルに募る。チャンピオンである彼に空いた時間は僅かだろうから、その時間を自分に使わせてしまうのは余計に。恐縮しきった彼女の隣に腰を下ろしたワタルは「頼りにしてくれて嬉しいよ」と、どこか嬉しそうに目を細めた。

「それで訊きたいこととは?」
「はい。えっと……ワタルさんはヒビキくんとシルバーくんという少年を知っていますか?」
 
その名を彼女が口にしたときワタルの瞳が揺れた。一瞬の出来事だったので、あいにくとアイルは気づかなかったが。

「……驚いた。どうして君がその二人を?」
「実は二人にウバメの森で出会って」
 
少年たちと出会ったときのことを掻い摘まんで話す。さすがにそのときに見た夢のことは伏せたが、ヒビキがセレビィのことを知っているようだったと伝えれば「そうか、ヒビキくんならおかしくはないか……」となにやら納得した様子を見せた。
しかし次の瞬間、ワタルの眉間に皺が刻まれる。

「それはそれとして、ウバメの森でそんな時間に一人でいるのは感心しないな。いくら朝方とはいえね」
「あっ」
 
彼にはバレないようにと思っていたのに、自ら自白してしまった。やってしまった、と顔を青ざめるアイルの姿に、ワタルは諦めたように表情を緩める。

「ほ、本題に戻りましょう! その反応からすると、二人のことを知っているんですか?」
 
アイルは慌てて話を戻す。これ以上追及されるのは避けたい。その気持ちを汲んだのかワタルはすんなりとそれを受け入れ、頷いた。

「ああ、知っているよ。――ヒビキくんは殿堂入り≠オたトレーナーだ」
「でんどう、いり……!」
「シルバーくんは彼のライバルだね」
 
ついでに、とばかりに彼は付け加える。なんでもヒビキという少年は先にあったロケット団復活の阻止にも協力したとのこと。そのエピソードを聞けば、彼がそれだけ実力のあるトレーナーということを否応がなしにも伝わった。
しかしアイルが気にかかったのは違う箇所だった。

「……ヒビキくん、ワタルさんに勝ったんですか?」
 
殿堂入り≠したということは、そういうことだ。目の前のセキエイチャンピオンにあの子供は勝利したと、他ならぬ本人が言っている。
「ああ、そうだよ。おれはあの子に負けている」
 
さも当たり前のように彼は答えた。その表情は清々しささえ感じるほど。しかし、アイルは彼とは反対に「まさか」という驚愕の気持ちが強かった。ロケット団を相手にしたという時点でヒビキの実力は確かなものだろう。それが揺るがないこともわかっている。けれど、どうしても彼女にはワタルが負ける姿が浮かばないのだ。
伝えれば、ワタルは「別に不思議なことはないさ。それだけ後進が育っているということだから」と言う。

「おれはヒビキくんの前にも二人の子供に負けているしね」
「まさか!」
「本当だ」
 
それは彼がまだ四天王時代のことであるという。セキエイリーグ・四天王の将として席を置いていたとき、彼は二人の少年にある日負けた。

「それがグリーン。そして彼のライバルでもあったレッドという少年だ。ちょうど……今のヒビキくんと同じくらいの年だったかな」
 
それまでセキエイリーグにチャンピオンはいなかった。そもそもそこまで――四天王まで――たどり着くトレーナーが少なかったこともある。しかし二人の少年がワタルを突破し、チャンピオンたる資格を得た。あいにくとアイルは他地方であること、バトルトレーナーではないこともあり知らないでいるが、当時はニュースを賑わせたという。

「いろいろあって最終的にレッドくんがチャンピオンになる権利を得た。しかし彼は玉座にはつかなかったんだ」
 
かの少年はさらなる高みを目指し、今も旅を続けていると彼のライバルから聞いている。いまさらチャンピオン≠欲したりはしないだろう。

「……じゃあ、なんで今もワタルさんがチャンピオンに?」
「ロケット団の件があったからだな」
 
カントーで暗躍していたポケモンマフィアのロケット団。その影響力は解散後の今なお健在で、熱狂的なカルトファンを生み出しているという。そのボス――サカキはトキワのジムリーダーであったことは有名だ。

「あろうことか、リーグ関係者にマフィアのボスがいた。そのことを問題視する意見は多くてね。やはり抑止力になるチャンピオンがいたほうがいいという話になった」
 
しかしレッドはその権利を放棄。グリーンもまた己を見つめ直すと、同じく辞退した。
そこで白羽の矢が立ったのがワタルだった。四天王の将であり、フスベ一族の中でも有数のドラゴン使い。実力は申し分ない。

「最初はおれも断ろうと思った。おれが彼らに負けたのは事実だから」
「……でも受けた。ロケット団がいるから」
「そう。ロケット団の野望を暴いたのは、レッドくんだ。おれたち大人は何もできなかった。気づけなかった」
 
悔しそうに顔を歪め、血が滲みそうになるほどにワタルは拳を握る。音が出るほどに力むそれに、アイルはそっと自分の手を重ねた。彼女の体温がワタルのものと溶け合うと、彼は少しだけ力が緩む。

「チャンピオン≠ニいう存在が犯罪の抑止になるのなら、おれは喜んでその身を捧げるよ」
「…………」
「まあ、それと同時にバトルトレーナーたちの目標的な存在も必要だったからね。いろいろと、ちょうどよかったんだ。おれももうそう簡単に負けはしないと誓っていたから」
 
そしてワタルがその玉座に身を置いて、まっさきにしたことは「未成年はチャンピオンに就任できない」というルールを作ることだった。それは彼がチャンピオンになった理由を考えれば自然なことだろう。守りたいと思っている存在を、危険に晒しては意味が無い。
以降、人員の交代もありはしたが、セキエイリーグは混乱もなく運営されている。これからも、ずっと。

リーグ本部であるセキエイが整えば、自然と他地方のリーグもそれに倣う。少なくともホウエンとシンオウ、イッシュとカロスは、そのルールを導入しているとのこと。きっとそれは目の前にいる彼の努力に違いない。アイルは目の端に映る彼のデスクに山積みになる書類たちを無理矢理視界から外した。

「なによりまだあの子たちには未来がある。チャンピオンになるのが全てじゃない。もっと旅をしてもいいし、トレーナーとして極めてもいい。博士やコンテストマスター……それこそポケモンレンジャーにだってなれる。いくらでも選択肢があっていい。そんな可能性を秘めたあの子たちを、この場所に縛り付けておくのはいやだったんだ」
 
レッドはバトルが好きで、ヒビキは旅が好き。だからこそここにいる必要はない、と彼は言う。その瞳は可能性に満ちた少年たちの未来を見ているのだろう。
この人はすごいな、とアイルは率直に思った。どんな相手にも敬意を払い、導となり壁となる。自分の正義を持っていて、困っている人がいれば当たり前に手を差し伸べる。本当にすごい人だ。口にするのは簡単だけれど、それを実践できる人は少ない。

「ワタルさんはすごいですね。いろんなこと考えて、ちゃんと実行していて。そんな人、そうそういませんよ」
「……どうかな。時に思うんだ。これは全ておれの――傲慢かもしれないって。大人≠フルールを子供≠フ彼らに押しつけているのかもしれないと」
「っ、そんな!」
「もしくはおれが無自覚で、この玉座に固執しているのかも。 この地位は、良くも悪くも絶対的だ」

自嘲気味に笑うワタルに即座にアイルは「ありえません!」と叫んだ。ありえない。ありえないから、胸に迫るものを抑えきれなかった。

「そんなこと、絶対にありえません!」

今にも泣き出すしそうで、悔しさと怒りに身体が震えながら、アイルは何度も「ありえない」と口にした。

「いくらワタルさんでも許しませんよ!」
「おれ自身のことなのに?」
「だからです!」
 
潤んだ瞳で彼を睨みつける。

「そうやって、自分を大切にしない発言はやめてください!」

ワタルが誰よりもポケモンのため、人のために自身を捧げているのをよく知っている。知っているからこそ、許せなかった。

「チャンピオンとかそういうのに関係無く、あなたは自分の信念を貫ける人です。あなたの心が、そんな弱さで曲がるはずがないです。そういう不正をワタルさん自身が一番許さない、じゃないですか……」
 
ワタルはただのポケモントレーナーだ。たまたまそこにチャンピオン≠ニいう名前がついているだけの。もし彼が玉座を降りることになったとしても、またその名を手に入れるためにがむしゃらに自分を追い込んで、そして勝つことができる。そう言い切れる自信がアイルにはあった。

「……わからないよ。そういう場面にきたら、おれは新しくルールを作ってしまうかもしれない」
 
まるで自分を試すような口ぶりに、アイルはまた怒りが感情を支配する。

「だからそれは絶対にありません! なんでそういう言い方するの!?」
 
どうしてこの気持ちが伝わらないのか。歯がゆくてたまらない。奥歯を噛みしめて、アイルは声を絞り出す。

「もし、もしもそんなことが起きたら、私が止めます……! 止めてみせます! バトルでも、リアルファイトでも、どっちでも私が必ず勝って、ワタルさんを止めるから! だから」
 
そんなこと、もう言わないで。

「…………ふ、ははは!」
 
アイルの激情を真正面で受けたワタルは堰を切ったかのように腹を抱えて笑い出す。そんな彼の様子を見て、アイルはまた怒りで顔を赤くした。

「っ、ワタルさん!」
 
名を呼べば「ごめん」と彼からは悪びれない返事。アイルは顔を背け、目元を拭う。わかりやすい怒っています<Aピールだ。
そんな彼女を見てワタルは必死に湧き上がる愛おしさを押さえ込む。まさかあのアイルが自分に勝負を挑むと言うだなんて。ポケモンバトルもリアルファイトも、正直なところどちらも彼女に分はないだろう。それでも、そのもしも≠フ時は、そんな勝算など度外視でぶつかってくるのだとわかる。そんな姿が目に浮かんだ。
 
ワタルは深呼吸で息を整えると、アイルへ少しだけ身を寄せる。そして彼女の目尻にいまだ残る滴を優しく指で拭った。自然と顔をこちらへ向けさせる。濡れた瞳が彼のそれと交わった。

「――ありがとう、アイルくん」
「怒ってます」
「うん。ごめん。意地悪言って」
「……自覚あるじゃないですか」
 
不服そうにぼやく彼女にワタルは言った。

「もしおれの進む道が間違っていたら、きみが止めてくれ。きみの言葉なら、きっとおれは耳を傾けるだろうから」
「……わかりました。言っておきますけど、容赦しませんので!」
「はは、頼もしいな。おれも、そう簡単にはやられはしないから、覚悟しておいてくれ」
 
ワタルの言葉にアイルは「上等です」と挑戦的に彼を見上げた。
――その表情に、言葉に、自分がどれほど胸を擽られるか彼女はわかっていないのだろう、とワタルは諦めに似た感想を抱く。
 
まったく、惚れたほうが負け、とはよく言ったものだ。ある意味で、もうとっくにワタルに勝利していることをアイルは気づいていない。
でも、まだそのままでいてくれよ、とワタルは甘く微笑むのだった。片想いの期間は、恋人になったあとには味わえないものだから。
 
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