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アイスコーヒーとサイコソーダのグラスから滴が流れ、敷かれたコースターを濡らす。
アイルが渡した資料を読み終わり、ヒビキは詰めていた息を大きく吐き出した。
コガネシティ、チェーンではなく個人経営されているカフェのテラス席。アイルはワタル経由でヒビキへアポを取り、この時間を手に入れた。シルバーにも声をかけたのだが、取り付く島もなく断られてしまった。(ワタルは「おれから連絡取ったのがいけなかったかな」と肩を竦めた)
 
ひとまずヒビキへ研究について包み隠さず伝えたのはいいが、彼の反応は芳しくない。アイルは恐る恐る切り出した。

「わ、わかりにくかったかな? ごめんね。まとめるの、うまくなくて……」
 
ルカリオがいれば以前ワタルに見せたように映像で伝えることができるのだが、あいにくと彼はホウエンだ。
顔色を悪くするアイルにヒビキは慌てて首を振る。

「大丈夫です。わかりやすかったですよ。――でもそうか、こんな理由があったんだ、って驚いちゃって」
 
ヒビキはストローを咥え、淡い色のサイコソーダを飲む。自販機で売っているそれと、カフェのものはほんのりと味が違った。さわやかに香るシトラスを感じながら、少年はそのままグラスの半分ほどを減らした。

「……アイルさんっていい人なんですね」
 
ストローでからりと氷を回す。

「だって、こんな先が見えないわからないことに今までの自分を全部捨てたってことですよね。すごいなって」

ポケモン≠ニいう存在は未知で不可思議。そして人を越えたチカラを持っている。だからお互いに協力して、この世界を生きている。
そんな彼らを助けたいと思うのは、自分だって同じ。全てを投げ打ってでも、手を差し伸べるだろう。しかし、同時に称賛もしてしまうのだ。あのアルセウスに助けを求められたとはいえ、アイルはポケモンレンジャーとしての経歴含め、過去全てを捧げたということになるのだから。

「そう簡単にできることじゃないなって思います。すごいです」
「……ありがとう」
 
アイルは素直にその言葉を受け取りながら「でも違うよ」とゆるやかに否定を口にする。

「私、捨てたつもりないもの」
「え?」
「レンジャーであること、捨てたつもりはないよって話。まだライセンスは残したままだしね。ライセンスさえ残っていれば、一応現場復帰はできるんだ」
 
って、そういう話じゃないか、とアイルは明るく笑った。アイスコーヒーのグラスに触れ、付着する滴を指で拭う。

「全部ひっくるめて私だからね。結局、未来を勇気づけるのって、過去の全てだと思うの。確かに私はもうレンジャーじゃないけど、その時代の経験もきっと今の研究に繋がっているに違いないから」

バトルトレーナーじゃわからないことを自分は知っている。逆もしかりだけれど。
だから全然捨てたつもりはない。過去に得た知識を、コネを、全て活用してこの謎を解いてみせる、とアイルはまっすぐと言い切った。

「私は絶対にやりとげてみせるよ。その未来だけは譲れない。――なーんて、かっこよく言ってみたところで、正直生かせているかわからないんだけどね! なんでアルセウスが私を選んだのかもわからないし!」
 
そうアイルは困ったように眉を下げる。その笑みを見て、ヒビキはなんとなく、アルセウスが彼女を選んだ理由がわかった気がした。
この人は過去も未来も諦めない人なのだ。少年は率直にそう思った。先へ先へと走ることを苦にしない性格をしているから、アルセウスはきっとアイルを選んだ。
それは多くの伝説ポケモンに触れたヒビキだからこそ、いた感情に他ならない。

「……セレビィがあなたに協力したいといった気持ちがわかった気がします」
「や、やっぱりヒビキくんってセレビィとご関係がおありで!?」
 
勢いよく身を乗り出すアイルにヒビキは苦笑をもらす。変な口調になっていることに彼女は気づいていない様子。先ほどまでのしっかりとした大人の女性という印象が、ヒビキの中で崩れていくことに本人は気づいていない。そういうところ、彼女の長所かもしれないが。
少年は残ったサイコソーダを飲み、さらりと言った。

「あの日、セレビィがぼくのところへ来て」
「来て!?」
「ぼくに仲介役になってほしそうにしていたから、ウバメの森へ行ったんです。ちょうどシルバーとバトルをしていたときだったから、彼も一緒に。シルバーはちょっと迷惑そうにしていたけど」
 
セレビィの仲介役。その言葉の強さに目眩を覚える。

「……ヒビキくん、あなたって一体何者?」
「ただのバトルトレーナーですよ」
 
微笑む彼に「そうは見えないんだよね」とアイルはひっそりと心の中で呟いた。


***


「今日は本当にありがとう」
「いえ。こちらこそ、ごちそうさまでした」
 
パンケーキまでごちそうになっちゃって、と照れたようにはにかむヒビキに「私もお腹減っていたし、いいのいいの」とアイルはひらりと手を振る。
今後については二人で話し込んでいたタイミングでヒビキの腹は小さく音を鳴らして空腹を訴えた。途端に顔を赤くした彼に隠れて、アイルは腕時計の文字盤に目を移せば、確かにそろそろおやつの時間。成長期の彼を考えれば、お腹も減るだろう。

そしてソーダを飲んでいたから、甘いものが苦手ということもないはずだ。
それでも一応、カフェ名物のアローラパンケーキと甘さ控えめと謳われているフレンチトーストをアイルは一つずつオーダーし、好きな方をヒビキに選ばせる。彼が指さしたのはパンケーキだった。

フルーツとクリームたっぷりのパンケーキを前にして、目を輝かせたヒビキはとてもかわいらしかった。自分には兄がいるが、弟はいない。彼ぐらい年頃の少年と触れ合う機会は少ないせいもあって、ついつい「姉」な気持ちになってしまう。
ワタルにはなんとなく子供扱いされていることを自覚しているから、余計に。彼に甘やかされることが嫌ではないことをわかっているからこそ、自分はちゃんとした大人なのだと、改めて今回の件で実感することができた。

「じゃあ必要になったらヒビキくんに連絡するね」
「はい。待っています」
 
次に彼と、否、セレビィと会うのは、アイルの準備が全て整ってからということになった。
アイルとしてはその前にときわたり≠ノついて確認をしたいと思ったのだが、ヒビキ曰く何度もチカラを使うのはセレビィに負担がかかるという。そして何度も人前にでるのをセレビィは嫌がるらしい。それらの理由から、必要な時だけに会うに留めることとなった。
 
ヒビキはこれからカントーへ行くとのことなので、リニアステーションまで向かう。なんでもカントーにある『かくとうどうじょう』という施設でジムリーダーと再戦の約束をしているという。

「バトル好きなんだね」
 
思わず感嘆の声が漏れた。するとヒビキは照れたように頬を掻く。

「冒険も好きなんですけど、バトルも大好きで。みんなと強くなるのが楽しいんです」
「そっか。……ねえ、ヒビキくん」
 
尋ねようとして躊躇いが生まれた。彼の答えをちゃんと受け止められるか、不安を抱いたのだ。
しかし、訊くなら今しかないことも確か。意を決して、切り出す。

「ヒビキくんはチャンピオンになりたい?」
「いいえ、全然」
 
間髪入れずにヒビキは否定の言葉を放った。その速さにアイルは呆けるように目を丸くする。

「私はバトルトレーナーじゃないからよくわかっていないところもあるけれど、みんなチャンピオンを目指すんじゃないの? チャンピオンになりたいんじゃないの?」
「うーん。確かにチャンピオンになりたいと思ったこともありましたけど、なんというか一つの目標であって『チャンピオン』になるために強くなっているわけじゃないんですよね……」
 
どう表現すればいいか、とヒビキは首を捻る。眉間にしわを寄せ、視線を彷徨わせた。彼はしばらく悩んだ後「ぼくの場合はですけど」と前置き、言う。

「旅に出た時は単純にチャンピオンになってみたかったです。一番強いトレーナーだし、バッジを集めるからにはリーグにも挑戦してみたかったから。そうしたら一番強い人と戦って勝ちたいと思うのは自然のことでしょ?」
 
グレーの瞳が揺らめく。その色はまるでワタルがバトルをするときのものと酷く似ていて、アイルは自然と息をのんだ。

「でも旅をしている途中で、ぼくはこうやっていろんなところに行くのが好きなんだって気づいたんです。バトルも好きだけど、初めて行く場所をポケモンたちと一緒に歩くほうがもっと楽しい」
 
ヒビキは今でもはじめてカントーの土地に足を踏み入れた時の高揚を覚えている。あんな遠いと思っていた場所だったのに、ポケモンと一緒ならあっという間だった。なら、さらに遠くへ行くことができる? もっともっと遠くへ行ってみたい。知らない場所を冒険したい。バトルよりも楽しいものを、ヒビキは見つけたのだ。

「それには強くならないといけないから、バトルももっともっと極めたいと思っています。シロガネ山みたいに、強くならないと行けない土地はたくさんあるでしょうし」
 
ワタルも言っていた。ヒビキがチャンピオンにならなかったのは冒険が好きだから、と。では、それが無かったらチャンピオンになっていたのだろうか。

「そうでなくてもぼくにはチャンピオンは無理ですよ」
 
苦笑するヒビキは「ぼくには誰かを導くなんて荷が重いです」と呟いた。

「アイルさんはワタルさんとバトルしたことありますか?」
「ワタルさんとはないけど、他の地方のリーグなら。といってもボロ負けにボロ負け重ねて、這うようにチャンピオンのところへたどり着いたけどね……」
 
しかも理由がチャンピオンへのアポ取り。口が裂けても目の前の少年には言えない。

「じゃあ、なんとなくわかると思うんですけど、ジムリーダーも四天王もチャンピオンも――みんな、普通のトレーナーとは違うんですよね」
 
それはわかると頷いた。公式戦と野良バトルは全く異なっていることを知っている。
彼らはバトルトレーナーの壁であり、目標である。それと同時に導き手なのだ。老若男女とバトルするからこそ、そのトレーナーの長所を引き出し、短所を補う方法に気づかせることができる。そんな、一言では言い表せないバトルを彼らは常にしていた。

「自分がどんどん強くなって、洗練されていくのがわかるんです。バトルって相手との対話だから。あの人たち、ずっと問いかけてくるんですよね。それを必死に返す。答えて、問われて、また答える。そうするといつの間にか強くなって、勝つことができる」
 
特にワタルさんは顕著ですよ、と彼は瞳を煌めかせる。ついでにアイルも一度バトルしてみればいい、とも。

「そんなバトルを自分はできるかと言われると自信無いです。多分、自分のことで必死になっちゃいます。そういう余裕なんて持てない。実際、ワタルさんに勝ったときも、いっぱいいっぱいで……バクフーンが耐えてくれたから、勝てたようなものでしたし」
 
相棒の入ったボールを撫でる。あの時、ふらふらになりながらも立ち上がった背中をヒビキは一生忘れることはない。

「ぼくはもっといろんなところへ行きたい。そして他人を導けるほど強くもない。だからチャンピオンになりたいって、思えないです」
 
『チャンピオン』は自分の肩には重すぎる。
しかしヒビキは同時に思った。あんな重いものを常に背負っているワタルは息をつく暇があるのだろうか。彼は重責といえるものを『重い』なんて感じない人だから大丈夫なのかもしれない。大きなお世話だとわかりながらも、一人のポケモントレーナーとして不安になる。
そんなヒビキへ静かに声が落とされる。

「……ヒビキくんはちゃんと導ける人だよ」
 
アイルはまっすぐと少年を見つめ、言う。

「手を差し伸べてくれたじゃない。私に。別にワタルさんの真似をしなくたっていいんだよ。ヒビキくんのやり方で『チャンピオン』すればいいんじゃないかな」
 
そしてやさしく笑みを浮かべた。温度の乗ったそれにヒビキはつい目を奪われる。

「だから無理だなんて言わないで。ヒビキくんはまだなんにでもなれるんだから。たっぷり冒険して、満足した後にまたワタルさんのところに殴り込みにいけばいいんじゃない?」
「殴り込みって……」

その言葉のチョイスに張っていた力が抜けていく。しかし、ヒビキの胸の中はなんだか愉快な気持ちで満たされていった。ワタルさんに対して「殴り込み」なんてこの人すごい表現をするんだな、と。

「選択肢はたくさん持っておいたほうが楽しいよ」
「……そうですね」
 
あいにくと自分が『チャンピオン』になっている姿は想像できないが、確かに最初から「できない」と決めつけるのも自分らしくない。なにより、その座を目指して修行に明け暮れているライバルに失礼だ。
彼らの視界にリニアの駅が見えてくる。歩きながらも、ずいぶん長いこと話していたのだとわかった。 
アイルはヒワダに戻る。つまりヒビキとはここでお別れだ。
改札前でアイルは彼に手を振る。しかし少年はゲートをくぐろうとせず、彼女に向き直った。

「アイルさん」
「なあに?」
「アイルさんの助手って募集していますか?」
 
煌めく瞳はそのままに。それは、まるでいたずらを成功させたかのよう。してやったり、といった表情でヒビキは彼女に問いかける。
アイルは一瞬だけぽかんとして、すぐさま吹き出した。

「そうだね! 私が博士号取ったらヒビキくんに助手をお願いしようかな!」
「楽しみにしていますね、アイル博士」
「待って、思ったより恥ずかしい」
「そうだ、番号の登録名もアイル博士にしようかな」
「ちょ、ちょっと、本当に恥ずかしいからやめて!」
 
慌てるアイルに、ヒビキは声をあげて笑う。二人の姿はまるで本当の姉と弟のようだった。
 
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